最長距離バスの系譜(2)~昭和36年 長野電鉄「志賀高原-東京特急バス」 260.35km~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和37年に東北急行バスが開業するまで、営業距離日本一だった長距離バスについて、取り上げてみたい。

昭和36年7月に開業した、上野駅から国道17号線と18号線を走り、軽井沢・長野・須坂・中野・湯田中と、北信の主要都市を結んだ長野電鉄の「東京直通特急バス」(別名「志賀高原-東京特急バス」)である。
東北急行が開業するまで僅か1年ほどの栄冠だったけれども、一般道のみを走って営業距離260.35kmという路線は、当時驚きをもって迎えられたという。
渋谷駅から長野市の善光寺大門に至る東急バスの「信濃路」号(営業距離231.7km)も、同時に開業している。
 

 


いずれも所要6~7時間程度で、どちらの路線も昼行・夜行1往復ずつ、専用のデラックス車両が投入されていた。
この所要時間は、当時の上野-長野間の普通列車とほとんど変わらなかったという。

東急の「信濃路」の渋谷発は午前9時ちょうど、長野に午後3時45分に着いたという記録が残っている。
当時、国鉄の普通料金が610円、バスが700円であった。

長野電鉄の「東京直通特急バス」を取り上げた記事では、

『昭和36年の開業時には専用のデラックスバス(1台約530万円。一般の大型貸切バスは約430万円)4台を投入し、それぞれの車両に「むさしの」「千代田」「奥信濃」「志賀高原」の愛称が付けられた。
これら4台の車両は、上野発の昼・夜行便にそれぞれ1台、湯田中発の昼・夜行便にそれぞれ1台が使用された』


『昭和36年6月28日、開業を前に東京・上野駅前から2台の真新しい特急バス「奥信濃号」と「志賀高原号」による試乗会が催された。
試乗会には運輸省、陸運局、国鉄など関係官庁の代表、元長野県知事、東急、新日本観光(現はとバス)などの同業者代表、報道関係者、それに錦上花を添えて牧紀子、島かおり、藤由紀子さんら松竹の新進女優、長野電鉄側から小坂会長ほか重役など合わせて70余名が参加し、午前9時30分にスタートした
一方、湯田中から軽井沢まで「むさしの号」と「千代田号」に分乗した地元の町村関係者、観光関係者らと草軽電鉄本社前で合流し、ここからは4台の車を連ねて、上林温泉の祝賀会場までの約103kmをパレードし、道行く人々から熱狂的な歓迎を受け、17時45分に到着した。
祝賀会場である上林ホテルでは、地元山之内中学校の鼓笛隊が奏でる勇壮なマーチに歓迎され、空には歓迎の花火が上がり、日本最長距離路線バスの開業を祝った』

と、まるで鉄道新線でも迎えるような地元の熱狂ぶりが伝わってくる。

 

 

 

 


一方、開業直後の「信濃路」を取り上げた新聞記事でも、

『旅行シーズンには、連日お客が満員の盛況だ。
2週間前に切符を売り出すが、たちまち売り切れてしまう。
「なにしろ料金も所要時間も国鉄と大差がない上に、座席指定で座っていけるし、おまけに冷房付きと来ちゃうんだから」
長野へ帰省する学生さんが、ふっくらしたシートにもたれて満足そうな顔。
定員55人の車内には、軽井沢行きと見られるレジャー族も多い』


『ところで長距離バスの悩みはトイレだが、多少お客がモジモジし出す頃には熊谷、高崎、軽井沢の3ヶ所の休憩所に着く仕掛けだ。
車内ではお茶も配るし、食事は渋谷で乗る前に係に注文しておくと、高崎のドライブ・イン(休憩15分)で用意しておいてくれる。
到着地の宿泊の関係で車掌は男性であるのがいささかザンネンだが、全線舗装されている道路はまず快適。
故五島慶太会長の特命によった路線だけになかなかの力の入れ方だ』(どちらの記事も「BUS MEDIA 26号『歴史は繰り返す!第1次長距離バス時代』」より抜粋)

 

 

 


国鉄の普通列車と違って冷暖房完備、全席指定のデラックスバスと言うことが、乗客には好評だったらしいが、あくまで当時の物差しでの話である。
普通の貸切バスよりシートピッチが少しばかり広い、横4列シートに過ぎなかったのだろうと思う。
おそらく、空調もなく、並んで座席を確保しなければならない当時の国鉄列車のあり方が、凄まじかったのだろうと思う。
別の会社の貸切バスを写した写真で、4列席に加えて、通路の補助席が2列、つまり横に6人をぎっしりと座らせているバスを見て仰天したことがあったけれども、つまりはそういう時代だったのである。

僕は、長野で生まれ育ちながら、子供時代にはどちらのバスも全く知らなかった。
後になって、「志賀高原-東京特急」と車体に大書されたバスが、浅間山を背景に走る写真や、軽井沢あたりの森林を一直線に切り開き、舗装されたばかりの国道18号線を走っている写真、または「信濃路」とヘッドマークを掲げたバスが、碓氷峠の九十九折りの旧道を車体を大きく傾けながら登っていく写真を雑誌で見たことがあり、胸をときめかしたものだった。
故郷のバスが、一時的とは言え、日本一であったことに胸が熱くなる。
乗ってみたかったと思う。

昭和40年代には信越本線が電化され、昭和41年には特急列車「あさま」が運転を開始した。
更にはモータリゼションの普及と相まって、バスの乗客数が減少し、昭和46年に「信濃路」が運行を中止した。
「東京直通特急バス」も昭和45年3月から定期運行を断念、浜松町と志賀高原・斑尾を結ぶ会員制のスキーバスとして、毎年12月第3金曜日から4月第1日曜日までの季節運行になったのである。

 


20年余りの歳月が流れ、平成4年の春、東京と長野を結ぶ待望の高速バスが、長野電鉄とJRバス関東が共同運行する夜行1往復と、川中島バスと京王バスが共同運行する昼行2往復で開業した。
1998年長野冬季五輪開催が決定し、街の凄まじい変貌が始まった時期だった。

大型連休が始まったばかりの4月30日、午後11時を回った東京駅八重洲口バスターミナルは、名古屋行きの「ドリームなごや」が3台連なって出発していったばかりで、見送りに来た人々や次のバスを待っている大きな荷物を抱えた乗客が錯綜して、大変な混雑を呈していた。
東名高速と常磐道が渋滞しているとのことで、こんな遅い時間になっても、各地から東京に上ってきた昼行便の到着が続き、無線を持った係員さんがバスの誘導に汗まみれになって駆け回っていた。

「お待たせ致しました。23時30分発の、福井行きと長野・湯田中行きの『ドリーム志賀』号が入線致します」

というアナウンスとともに、新しい人の波が動き出した。
しかし、そのほとんどは1番乗り場にずらりと3台並んだ福井行き夜行高速バスに向かい、少しはずれた3番乗り場にひっそりと1台だけ横付けされた長野行き高速バスの扉の前に並んだのは僅かだった。

それでも、赤とオレンジに塗り分けられたツートンカラーのスーパーハイデッカーの勇姿を見上げながら、僕は感慨にふけっていた。
東京駅八重洲口で、故郷のバス会社の車両を目にすることができようとは!

「お待たせしました、湯田中行きです」

見上げるようなスーパーハイデッカーから2人の運転手さんが元気よく降りてきて、ターミナルの係員さんから乗客名簿を受け取ると、乗車券のチェックを始めた。

「ありがとうございます。2番のA席ですね。乗車券は後で回収致します」

という運転手さんに迎えられて、車内に1歩足を踏み入れると、もう故郷の澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだような安心感が、僕の心を満たした。
やっぱり、故郷のバスはいい。
改めて、おらが町のバスが東京に来てくれた、という喜びをかみしめた。

先に乗り込んだ乗客たちは、荷物を網棚に上げたり、座席回りや中央部分に設けられたトイレ・洗面台などの設備を物珍しそうに確かめたりしている。
中には、早々と備え付けの毛布をかぶってリクライニングを倒し、眠りについてしまう人もいる。
僕にフットレストやレッグレストの使い方を聞いてきた、通路の反対側のお婆さんは、「東京にいる息子のところに行ってきたんですよ」と顔をほころばせた。
ターミナルに入ってきたときから窓のカーテンを閉め切った車内は、光度を落とした照明があちこちに影を伸ばし、落ち着いた雰囲気は他のどんな夜行バスにも負けない。

「すいてるねえ」

乗車がひと段落して戻ってきた運転手さんに、最前列の席の男性が声をかけた。

「そうだね、まだ開業したばかりだからね」
「PRすればもっと乗ってくれますよ」

と2人の運転手さんが代わる代わる強調していた。

23時30分定刻、係員さんに、「じゃあ、行ってきます」と運転手さんが声をかけ、スィングドアが閉められた。
前に止まっていた福井行き夜行バスに続いて「ドリーム志賀」号もゆっくりと動き出した。
乗り場にいる人々の様々な表情が後ろへ流れていく。
バスは、首都高速宝町ランプに向かう福井行きに別れを告げ、外堀通りから霞ヶ関方面へ右折、皇居の南をぐるりと回ってから甲州街道を西へ走り始める。

「こんばんは。本日は夜行高速バス『ドリーム志賀』を御利用下さいましてありがとうございます」

コクピットから交替運転手さんがひょっこりと顔を出して挨拶を始めた。

「縁あって皆様と御一緒させていただきますのは、ただいまハンドルを握っておりますのが○○、そして私が□□でございます。バスはこれより新宿で乗車扱いを致しましてから、一路信濃路へと向かいます。車内設備、到着時刻などにつきましては、新宿を出発しましてからビデオで御説明致します」

運転手さんが発した「信濃路」という言葉の余韻にひたりながら、深夜の都心を滑るように走り抜け、瞬くネオンのまぶしい光が厚いカーテン越しにも感じられるようになれば、間もなく新宿駅南口の高速バスターミナルである。
線路脇の、狭くきついアップダウンのある進入路を巧みにすり抜けて、奥まった乗り場に到着すると、登山服に大きなリュックサックを担いだ山男を皮切りに、東京駅より多めの乗客が乗り込んできた。

 


23時59分に新宿を出た「ドリーム志賀」号の車中では、ビデオでの案内が流れ、ほどなく消灯となった。
照明がしぼむように光を落とし、交替運転手さんがトイレの脇から床下の仮眠室へ潜り込む。
バスは初台ランプから首都高速4号線の高架に駆け上がると、道路の継ぎ目で繰り返される、かすかなバウンドの音と縦揺れが、まるで子守歌のように心地よく身体を揺さぶった。
中央自動車道に入れば、その間隔が長くなり、バスの走りも滑らかになる。

運行事業者が長野電鉄であるということと、定期路線としては久々の東京と北信の間を直通するバスということで、昭和37年開業の「東京直通特急バス」の後継路線と、僕は勝手に思っているのだが、「ドリーム志賀」号は、運行経路が全く異なるのだ。

カーテンをかぶって外をぼんやり眺めていると、郊外に出るに従って防音壁の合間に見える街の灯が少なくなっていく。
八王子料金所を過ぎると、間近に迫った山々の斜面で、窓外は真っ黒なカーテンをひかれたように遮られてしまう。
シートに身を任せて目をつぶっていても、急カーブが連続し、高度がだんだんと上がっていくのが感じられる。
明日の朝、目を覚ましたら故郷に着いているんだなあ、と、何となく幸福感に浸っているうちに、瞼が重くなってきた。

 


「ドリーム志賀」号は関東山地を一気に走り抜け、大月の手前の談合坂SAで最初の休憩をとる。
山梨県を横断して長野県との境を越え、諏訪湖SAで2度目の休憩。
3度目の休憩は、岡谷JCTで長野道に分岐し、豊科ICで国道19号線に降りたあとの、大岡村特産物センターである。
東京と長野の間をまともに走ったら4時間余りで着いてしまうので、3回の休憩で、合計2時間ほどの時間調整をするのである。
これらの休憩地点では、乗客も車外に出ることができるが、僕はぐっすりと眠り込んでいて、1度も目を覚まさなかった。

 


高速交通網の幕開けと呼ぶには、あまりに速達性とかけ離れている夜のバス旅であった。
在来線特急でも3時間程度の区間を、6時間以上かけて行く新しい旅の選択肢は、少しでも早く、少しでも短くという時代の至上命題と明らかに逆行している。
そこには、慌ただしい日常生活から抜け出して新鮮な気分を味わえる、贅沢なゆとりの時間が流れていた。

コクピットと客室を隔てていたカーテンが開け放たれ、朝の光が車内に流れ込んできた時には、バスは長野市郊外の住宅地の中を走っていた。
午前6時前の市街地はすっかり夜が明けていたが、人影がなくがらんとしていた。

「おはようございます。間もなく、長野駅前に到着致します」

と挨拶する運転手さんの声も、まだ眠っている乗客に気兼ねしているかのように、囁き声だった。

 


東急百貨店の長野大通り側にある長野駅前停留所、そして長野市最大のアーケード商店街である権堂のバス停で、乗客の大半が下車したが、僕は終点までの乗車券を持っていたから、そのまま座席に座り続けた。

「ドリーム志賀」号は市街地を後にして東へ進み、リンゴ畑の中を北へ弧を描くアップルライン・国道18号線から国道406号線へ乗り換える。

路肩が狭まり、舗装も荒れ気味で、乗り心地が少しガタガタするようになった。
千曲川にかかる村山橋では、左手から長野電鉄の線路がすっと寄り添ってきて、珍しい鉄道と道路の併用橋となる。
正面に菅平の雄大なスロープが広がった。
こぢんまりとした須坂市街に入り、須坂駅前に停車する。
道端にリンゴの木が生い茂る県道からは、左手の善光寺平越しに、飯縄・戸隠・黒姫の美しい山容を望むことができた。
北斎美術館と栗菓子で有名な小布施と、信州中野駅前を過ぎれば、日本一高い標高を走る国道として有名な国道292号線・志賀草津ルートに入り、徐々に高度を稼いでいく。
湯煙が漂う温泉街を抜け、雪が残る志賀の山々が正面に迫ってくると、バスはのけぞるような急坂を登って、終点湯田中駅に到着した。

不意に激しく雨が降り出して、バスを降りた僕は、ずぶ濡れになりながら慌てて駅舎に駆け込んだ。
駅前には、志賀高原方面へ向かう路線バスが、タイヤにチェーンを巻いて待機していた。

「いやあ、今朝は冷えただなやア」
「ああ、山じゃあ、雪ンなったそうじゃ」

待合室でストーブを囲みながら電車を待っていたお婆ちゃんたちが大声で話し合っていた。
僕は、古びた湯田中駅舎の中から広々とした駅前広場を見やりながら、昭和30~40年代に「東京直通特急バス」が出入りしたのも、この広場だったのだろうかと、思いを馳せた。
線路脇で芽を出した草花が、突然の季節の逆戻りに戸惑いながら、うなだれて冷たい雨に打たれていた。

 

 


数週間後の5月中旬の週末には、新宿と長野を結ぶ中央高速バス長野線に乗車した。
新宿西口高速バスターミナルで、向かいの家電量販店に出入りする人々が慌てて道をあける中を、白地に青・赤・黄・緑のラインが入ったカラフルなボディに「Highland Express」と大書された川中島バス(現アルピコ交通)が姿を現した時には、東京駅で初めて「ドリーム志賀」号を目にした時と同じくらい嬉しかった。

終点の長野バスターミナルまでの所要時間は4時間45分である。
こちらも、平行する特急列車とは比べものにならないのんびり旅だった。

 


長野五輪を目前にして高速移動が要求される時代に開業した、2つののんびりバス。
高速道路が全通していないための中途半端な開業だったけれども、決して利用者は少なくなかった。
バス会社としては、高速道路の開業前に唾をつけておく、といった感じの先行投資だったのかもしれない。

ひたすら上り調子で突き進んできた、猛烈型の日本の社会が大きく変質しようとしていた時代の流れと、無関係ではないような気もする。
バスの魅力は、時間はかかるけれども、特急列車の7割程度の安い運賃である。
後に開業した新幹線に比べれば、運賃の格差はもっと開いて、5~6割という安さだった。
平成2年に大幅な株価の下落が起こって、バブルが崩壊。
商品の安さが尊ばれ、賃金や経済全体の停滞を招くデフレ不況が日本全国を席巻し始めていた。
人の価値まで下がっていく、失われた20年が始まったのだ。

平成5年3月、長野自動車道が全通し、長野に高速道路が初めてやってきた。
新宿と長野を結ぶ中央高速バスは、豊科ICと長野ICの間を高速経由に切り替えて、30分の時間短縮を達成している。
平成8年11月には、上信越道が佐久IC-長野東IC間で開通し、長野市と首都圏を最短距離で結ぶ高速道路がつながった。
新宿-長野線は、そちらに経路を乗せ替えて所要3時間40分となり、1日十数往復が運行される人気路線となっている。

 


平成9年10月には北陸新幹線高崎-長野間が開業し、信越本線の特急列車の愛称を受け継いだ新幹線「あさま」が、最短1時間19分で東京と長野を結んだ。
東京と長野を、途中停車駅のない「あさま」で疾走した時の爽快感は、今でも忘れられない。
便利になったものだと、心が弾んだ。
トンネルばかりで車窓を楽しむ暇はほとんどなかったけれど、自分の肉体が途轍もない速さで移動しているという感覚だけに酔いしれた、1時間19分だった。

一方で、夜行高速バス「ドリーム志賀」号の末路は、どこか寂しかった。
不思議なことに、長野道や上信越道の開通後も、中央道から長野道と国道19号線を走る昔ながらの経路を頑なに守り続けていた。
夜行便だから、時間短縮をしても意味がなかったということだろうか。
僕も、日付が変わる間際にバスに駆け込んで、ひと眠りすれば故郷という気軽さに惹かれて、何回か利用したが、隣の席も占拠してくつろげるような空き具合ばかりだった。
以前に東京-松本線に使用されていた昼行便車両をそのまま流用した、JRバス関東の便にも乗り合わせたが、夜行仕様ではないのに、熟睡できた。

長野五輪が終わった1年後の平成11年3月、「ドリーム志賀」号は、ついに運休に追い込まれている。

 


平成22年8月、京王バスとアルピコ交通が運行する新宿と長野を結ぶ上信越道経由の高速バスに、下りだけだったが、夜行便が登場した。

平成24年2月には、千葉中央駅を発ち、東京ディズニーリゾートや浅草、上野に寄り、深夜の中央道を走って、茅野・松本を経由した上で、長野駅まで足を伸ばすという夜行高速バスが開業している。
京成バスとアルピコ交通による運行で、バス会社は違うけれども、まるで「ドリーム志賀」号の復活だった。
バスの行き先表示には「信州」と書かれていた。

長野と東京を結ぶ夜の旅は、高速交通網が完成しても、健在なのである。

 


僕は、自分が運転する車や新幹線での往復ばかりになってしまっていたが、平成17年の秋、関越道と上信越道を経由する、池袋発長野行き高速バスを、往復で利用したことがある。
平成8年12月に開業した路線で、長野側の担当バス会社は「志賀高原-東京特急バス」と「ドリーム志賀」号の長野電鉄、東京側は西武バスだった。

池袋駅東口を朝1便で7時半に出発し、正午近くに長野駅前に到着した。
帰路は、同じ日の午後6時半に長野を発つ最終便に乗り、深夜11時前に、池袋までとんぼ返りしたのだ。

 

 

 


広大な関東平野を行く関越道の区間は、坦々としていて眠気に襲われたが、これは鉄道でも同じである。
長大トンネルを幾つも抜けながら越えていく碓氷峠は、当時、暫定的な2車線対面通行だった。
いかにも難所を越えていくという厳粛な雰囲気が感じられて、いつの間にか眠気は吹き飛んでいた。
峠を登り切ると、前方に佐久平が明るく開け、右手に広がる浅間山の流麗な姿に目を見張った。
列車よりも視界が広く開けるだけに、車窓の変化は、新幹線や在来線よりも一層ドラマチックに感じられた。
小諸から上田、坂城、戸倉にかけての上信越道は、千曲川の河岸段丘の傾斜地を走るので、眺望が素晴らしい。
見下ろす街々や田園を縫うように、千曲川の流れが、銀色の蛇のように蛇行している。

明日はいずこか 浮き雲に
煙たなびく 浅間山
呼べど遙かに 都は遠く
秋の風立つ すすきの道よ


1人たどれば 草笛の
音色哀しき 千曲川
寄せるさざ波 暮れゆく岸に
里の灯ともる 信濃の旅路よ

思わず五木ひろしの「千曲川」を口ずさみたくなる、のどかな故郷の風景が、窓外をゆっくりと流れていく。
トンネルばかりの新幹線より、遙かに情緒溢れる旅だった。

 


帰りのバスの車内でくつろぎ、すっかり闇に覆われた車窓を眺めながら、僕は、経路と運行事業者から言えば、この高速バスこそ、往年の「東京直通特急バス」の末裔、ということになるのかもしれないと思った。
新宿発着路線に押され気味で、本数も少ないけれど、末永く走り続けて欲しいものである。

 

 

 

 

 

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