長野電鉄の「志賀高原-東京直通バス」(営業距離267.6km)が昭和36年に開業するより前の、営業距離日本一のバス路線は、なんと昭和25年10月に開業している。
島根県の一畑電鉄バスが運行する陰陽連絡バス「北松江-広島直通急行バス」で、営業距離は195kmにも及ぶ。
北松江駅は、現在の松江しんじ湖温泉駅に当たる。
運行回数は朝・夜出発の2往復、所要時間は6時間30分で、運賃は420円であったという。
広島と言えば、昭和20年8月6日、原爆により多大な被害を受けたはずであるが、わずか5年後に、山陰からはるばる日本一長距離を運行するバスが乗り入れたとは、胸が熱くなる。
昭和28年11月に国鉄木次線・芸備線経由の急行列車「ちどり」が運行を開始、その影響で乗客数が振るわず昭和31年12月にいったん運休したが、昭和33年に運行を再開、昭和35年には広島電鉄バスも参加するようになった。
なお、広島電鉄が参入した時点では、夜行便だけが運行されていたという。
日中では鉄道の速達性に敵わず、夜行運転で復活した、ということなのだろうか。
鉄道も山越えには苦労したようで、蒸気機関車時代の「ちどり」には、客車を3両しかつなげることができなかったと聞く。
ちなみに、昭和9年から運行を開始していた老舗の国鉄バス路線「広浜線」(広島-浜田間・運行距離120km)にも、「明星」号という愛称の夜行便が昭和27年から同37年まで運転されていた。
急行「ちどり」にも、昭和30年から同37年まで夜行が運転された歴史がある。
バスも鉄道も、200kmにも満たない距離に夜行運転が必要であったと言うことは、当時の陰陽連絡が如何に険しい地形に悩まされる道のりであったかが伺える。
その後、バスの方は昼行便も復活する一方で、夜行便は広島から宮島まで足を伸ばすようになり、営業距離は216.8kmとなったこともあった。
夜行運転は昭和47年3月に終了して昼行便のみとなり、14年後の昭和61年には、一部の便が広島自動車道・中国自動車道に載せ替えられて速達性が向上、翌年には全便が高速経由となったのである。
開業当初の様子を伺える記事を読んだことがあり、御紹介したい。
『(前略)当時話題となったトレーラーバスを昭和25年2月に山陰地区で初めて導入し、ちょうどこの年の10月1日に、北松江駅-広島駅間(195km)に長距離バス路線を開設したので、この路線にトレーラーバスを投入した。
昭和25年当時の長距離バス路線としては、兵庫県の全丹バスが八鹿から神戸間(約150km)を運行していた程度であったので、北松江駅-広島駅間が当時の最長距離路線と言えるだろう。
この路線の進出には次のような理由があった。
山陰地方の経済圏は終戦まで、山陰本線の列車を利用して阪神地区に依存していたので、々中国地方でありながら山陽地方とは中国山地をはさんで交通の便が極めて悪く、列車と言えば国鉄の木次、芸備線を乗り継いでいくしか方法がなく、しかも昼間の1回だけで所要時間は9時間を要したという。
当時、出雲地区から広島方面へ出かけると最低でも2泊3日が必要で、時間的にも経済的にも多大の浪費を余儀なくされていたのである。
特に戦後は、中国地方の行政機構は広島市に集中設置されることになり、加えて産業経済の復興に伴って、中国ブロック行政、経済、文化の中心となった広島市と、山陰の中枢都市である松江市との連絡は一段と密接となり、交通需要も年を追って増加した。
このため、松江-広島間の陰陽の連絡交通機関の発達が地方住民の切なる願望であった。
島根県議会および松江市議会は陰陽連絡の不便を解消するため、国鉄当局に対して松江-広島間の直通列車の運行を陳情したが、全て計画の意思なしと拒否されたので、一畑電気鉄道に長距離バス路線の開設を要請したのである。
同社としては慎重審議の結果運行可能と判断し、昭和24年12月に免許申請を行い、翌年の7月に認可され、10月1日から1日2往復(昼・夜)体制で運行を開始した。
所要時間は6時間43分を要した。(BUS MEDIA 26号「歴史は繰り返す!第1次長距離バス時代」より引用)』
この記事を読むと、なるほど、松江と広島の間の交通手段は長距離バスが開拓し、急行「ちどり」は国鉄の後出しジャンケンだったんだ、と思ってしまう。
また、戦後間もないのに、原爆の惨禍を乗り越えて力強く復興を遂げている広島の姿も垣間見える文である。
記事は、更に、乗務員のインタビューも交えて当時のエピソードを添えている。
『このトレーラーバスは全長が14m近くもあり、乗車定員が70名という超大型バスであったので、大量輸送には良いものの、曲がりくねった狭い道路の走行が大変に難しく、特殊免許を持った優秀な運転手さんでなければ運転が出来なかった』
『(一畑電鉄バスの)広島線の車両は,赤のストライプのボディに濃赤色のフワフワしたロマンスシートで、県内車とは段違いの豪華版。
広島県でもまだこんな立派なバスは走っていなかったので、三次や吉田からの乗客は「立派な車じゃのう!」「広島へ出るには一畑さんのバスに限るのう!」と褒めてもらう時は嬉しく鼻を高くしたものでした。
(中略)だが、コースは急坂や急カーブが多く、冬期の雪道でストップしたときは、スコップで雪を掘り、コモを敷いたりしました。
車が動き出すとスコップを担いで車の後ろからエッサカ、エッサカ走ったものです』
平成6年の6月、僕は、どんよりとした梅雨空の下の広島バスセンターにいた。
古びてはいるがどっしりとした造りの建物は、一見しただけではデパートにしか見えなかったが、薄暗くレトロな雰囲気の乗車券窓口が並ぶ内部に足を踏み入れると、ぷん、とディーゼル臭が立ちこめていた。
窓口の上の壁を、運行経路や時刻表がぎっしりと覆い尽くしている。
僕が乗るのは、8時30分発の松江温泉駅行き「グランドアロー」だ。
運行経路は変わっても、昭和25年に開業した陰陽連絡バスの、由緒正しき後継路線なのである。
平成初期の松江-広島線では、ノンストップ便だけに「グランドアロー」の愛称が付けられていたから、厳密に言えば僕が乗る普通便は「グランドアロー」ではないのだが、黒々と排気ガスにくすんだ乗り場に入ってきたカラフルな広島電鉄バスには「Grand Arrow」とロゴが描かれていたし、現在では全便を「グランドアロー」と呼んでいるらしいので、細かいことは気にしないで話を進めたい。
昭和の終わりから平成にかけて全国に路線網を伸ばした高速バスの乗客層は、若い世代の、殊に女性の比率が高いように感じている。
しかし、広島バスセンターで「グランドアロー」の座席を埋めた大半が、用務で広島と松江を行き来していると察せられる、背広を着込んだ壮年男性が多かった。
「いやあ、蒸し暑くなりましたね」
などと話しながら、背広を脱いで席に納まっている男性が多い。
用務に出かけるのか、帰り道なのかはわからないが、「グランドアロー」には乗り慣れている雰囲気で、笑顔で会話を交わしながらすっかりくつろいでいる。
そのような姿に、取りも直さず、「グランドアロー」が松江と広島の間の主たる交通機関に成長している証だと実感した。
定刻にバスセンターを発車したバスは、平和記念公園や広島城址などが河岸に並ぶ太田川に沿って、混雑した道路を北上する。
この年の8月に開通予定だったアストラムラインの高架が、道路に影を落としながら上空を覆っている。
僕が「グランドアロー」に乗った時は、建設中の橋桁が落下して何台もの車を下敷きにした事故から3年程度しか経っていなかったから、不動院前、中筋に停車しながら乗客を拾っていくバスの車内で、何となく首をすくめたくなるような思いで過ごしていた、旅の導入部だった。
太田川が開いた扇状地である広島平野の、北のどん詰まりに近い広島自動車道の広島ICから高速に乗ると、それまでつっかえながら進んでいたバスは、生き返ったように速度を上げた。
一時期、広島発着の高速バスは、北の山陰へ向かおうが、東の福山・岡山方面へ向かおうが、全て広島ICからいったん西へ走り出していた時代があった。
山陽自動車道が未開通で、どこへ行くにも、広島道で西にある五日市を経て、中国道の広島北JCTに出なければならなかったのだ。
山陽道が全線開通したのは、平成9年のことである。
「グランドアロー」は、るんるんとエンジンを響かせながら、広島岩国道路を分岐する広島JCTでぐいっと進路を北に向けて、中国山地の中へ踏みこんでいく。
霧雨に濡れた緑の山々がハイウェイの両側にそそり立ち、その合間を縫ってきついカーブが連続するようになったけれども、松江-広島線開業当初に苦しい山越えに挑んだ乗務員や乗客にしてみれば、関係ない、と言われそうな快適なクルージングである。
瞬く間に広島北JCTに差しかかり、バスは中国道上り線に合流して東へ鼻先を向けた。
間もなく、千代田JCTで浜田道が左手へ分かれていく。
「グランドアロー」より更に老舗の陰陽連絡バスである「いさりび」(旧広浜線)は、この浜田道を経由して、終点近くまで高速走行が続けられる。
しかし、当時の「グランドアロー」は、その先の三次ICで、いったん下道に降りなければならなかった。
現在のように、三次東JCTから松江自動車道で日本海側まで走り切ることが出来るようになったのは、つい先日の平成25年のことなのである。
中国の脊梁山脈のど真ん中を東西に貫く中国道と、日本海沿岸に点在する各都市は、今でこそ幾つもの高速道路で結ばれるようになった。
西から浜田道、松江道、米子道、そして一部未開通ではあるが鳥取自動車道──
しかし、僕が高速バスで山陰を訪れた頃には、それらの高速道路の殆どはまだ完成しておらず、九十九折りの一般国道で山越えをする路線も少なくなかった。
時間はかかったけれども、右に左に身体を揺さぶられながら峠を越え、寂れた山村の胸が締め付けられるような光景と、心を洗われるような、澄んだ緑に彩られた山々に、中国山地の奥深さを教えてもらったような気がするのだ。
僕は松江道を走ったことはないけれども、「グランドアロー」が走った国道54号線の車窓の豊かさは捨てがたいのではないかと思っている。
20年が過ぎた今でも、ありありと瞼の裏に思い浮かべることができるのだ。
三次を出たバスは、下布野、上布野、横谷と、道沿いに、埃をかぶりながら軒を並べる小さな集落に寄りつつ、深い山あいに分け入っていった。
雨上がりの路面は黒く濡れ、時折通り雨が窓ガラスを水滴に染めて過ぎていく。
布野を過ぎれば、漂う靄に見え隠れする山々は一段と険しさを増し、人家の数が減って国道を囲むのはこんもりと繁った杉林だけという寂しげな道中になる。
狭い谷間に数戸が寄り添うだけの横谷の集落を抜け、短いトンネルをくぐれば、そこはもう島根県だった。
ただ、分水嶺やピークを越えたという風情も感慨もなく、淡々とした山間の車窓がそこからも続く。
意外だったのは、島根県側の方が、人家や田畑が途切れることなく、開けた印象であったことだった。
歴史が古く、そして格式の高い出雲地方に近づいたからであろうか。
道端のドライブインの小休憩で、白地に赤いラインが入った一畑バスの「グランドアロー」上り便と邂逅した。
ひんやりとした空気が、バスを降りた僕の身体を包み込んだ。
降りてくる上り便の乗客が、こちらの下り便と異なり、みんな上着を羽織っている様子に、山陽と山陰の気候の差を目の当たりにする思いだった。
赤名、来島、頓原、掛合、三刀屋と進めば、中国地方を横断する国道54号線の旅も後半に差しかかる。
世の中には気になる地名というものがあるものだが、僕にとっては「三刀屋」もその1つだった。
時刻表で眺めれば、多くのバス路線が立ち寄ったり起終点にしたりしていたから、子供の頃からよく見かけた地名だったが、最初は読み方すらわからなかった。
太古、素戔嗚尊の妻・稲田姫が大国主命を生む場所として選んだと伝わる三屋(みとや)神社ゆかりの地であり、「大国主命の寝床=御門屋」に由来するという。
長年、どんな町なのだろうと思いを馳せてきたのだけれど、ゆったりと蛇行する斐伊川の流れが山間に切り拓いた、「グランドアロー」沿線では有数の規模の町だった。
奥深い中国山地も、この辺りまで来れば優しげな表情になるのだな、と思った。
宍道の町で国道9号線に合流し、一気に増えた車の波に揉まれるように東へ走れば、やがて左手に穏やかな宍道湖が広がった。
緑の木々に見え隠れする湖面の向こうに、しっとりと落ち着いた松江の街並みが見えるようになれば、瀬戸内から日本海側へ、半世紀前の半分にもならない短時間で陰陽の境を越えてきたバス旅も、終わりが近い。
蒸して息が詰まるようだった広島に比べて、同じ梅雨の季節でも、宍道湖を渡って松江に吹く風はきっと爽やかに違いないと、降りる前から思ったものだった。
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