最長距離バスの系譜(15)昭和22年 全但バス「豊岡-神戸直通バス」165.5km | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和25年に開業した「松江-広島間急行バス」から、平成23年に開業した大宮-福岡間「ライオンズエクスプレス」まで、日本一の営業距離を更新してきたバスを取り上げてきた。
それぞれが面白い題材だったし、書き終えてすっきりした気分であったが、ふと「待てよ」と思ったのが、この項を書くきっかけである。

昭和25年の「松江-広島間急行バス」の登場まで、日本最長の営業距離のレコードを保持していたバスがあったのではないだろうか──

営業距離195kmの「松江-広島間急行バス」が開業した頃の様子を取り上げた、「BUS MEDIA26号『歴史は繰り返す~第1次長距離バス時代~』」を読み直すと、次のような記載があるではないか。

『昭和25年当時の長距離バスとしては、兵庫県の全但バスが八鹿から神戸間(約150km)を運行していた程度であったので、松江-広島間が当時の最長距離路線といえるだろう』

俄然、気になって調べてみた。
すると、兵庫県北部を営業エリアとする全但バスのHPの社史欄に、次のような一文が掲載されていたのである。

『昭和22年6月 豊岡と神戸を結ぶ全国最長(当時)165.5kmの直通運行を開始』

同社のHPに掲載されている社史は、至って簡便で、

「大正6年10月 「南但自動車株式会社」として資本金15,000円をもって養父郡口大屋村(現、養父市大屋町)において事業開始」

に始まり、

「昭和8年9月 本社を養父郡八鹿町八鹿(現、養父市八鹿町八鹿)の現在地に移す」
「昭和13年~昭和27年 但馬各地の事業者を合併。但馬地方の旅客輸送事業を統一。合併後の車両台数は、バス77両、ハイヤー45両の計122両」
「昭和14年12月 社名を「全但交通株式会社」に変更」

と書かれた後に、「豊岡-神戸間直通バス」の開業に触れている。
その後は、

「昭和50年 高速バス「湯村~大阪」運行開始」
「昭和53年5月 社名を「全但バス株式会社」に変更」
「昭和55年 高速バス「城崎温泉~大阪」運行開始」
「平成6年5月 航空運送代理業(但馬空港)開始」

の4項目を取り上げて、終わっている。
かなり絞ってピックアップされた社史に、わざわざ組み込んだということは、まだ世相も混乱していた戦後2年目に開業した、自社の日本一の長距離バスを、同社が如何に誇りに思っているのかが伺える。
おそらく、他のバス事業者も同様で、長距離バスを運行することで、社員のモチベーションが高くなったという例は、少なくないと聞く。
 


残念ながら、「豊岡-神戸間直通バス」の運行本数がどの程度であり、1日何往復をどれほどの時間をかけて運行していたのか、という資料を見つけることはできなかった。
昭和25年開業の「松江-広島間急行バス」は、195kmを6時間45分かけて走っていたと言うから、「豊岡-神戸間直通バス」の所要時間は5~6時間くらいだったのではないか。

それにしても、戦後2年目にして、165kmもの距離を運行していたバスが存在していたと考えるだけで、胸が熱くなるのだ。
当時の物資不足や食糧難は、戦時中よりも、むしろ戦後の方がひどかったと聞く。
闇米を拒否し、食糧管理法に基づいた配給食だけを食べ続けて、東京地裁の判事が栄養失調で死亡したのは、昭和22年10月のことだった。
終戦前後の神戸と言えば、アニメ映画にもなった、野坂昭如氏の小説「火垂るの墓」を思い浮かべる。
昭和20年3月17日と6月5日に大空襲を受けて、焼け野原になった神戸市内も、まだ、その傷跡が癒えてはいなかった時期ではないだろうか。
そのような混沌の時代に、颯爽と登場した日本最長距離路線バスの様子を、僕は、想像するしかないのであるが、利用した人々に、日本一のバスに乗っているという意識があったのかどうか。
おそらく、レジャーでの利用はほとんどなく、買い出し・かつぎ屋さんの姿も少なくなかったはずである。
戦地から引き揚げてきた人も、乗り込んできたかもしれない。
乗客のほとんどが、日々の生活に追われて疲れ果て、転がり込むように詰め合いながら、狭い車内で揺られていたのではないかと思うのだ。

毎日新聞の論文募集に寄せられた橘東海氏の一文に、昭和20年の、とある風景が描写されている。

『バスと列車と合せて乗つてゐる時間は僅かに二時間に過ぎぬが、バスと列車との連絡が悪く、またバスの発着も少なく、かつ不規則なので、往復の困難はまた格別であつた。
前回は私一人であつたので、バスに乗らず約六里以上の山道を夜通しかかつて上つて帰つた。
今回は老妻を連れてゐるので、帰りはバスの出るところまで戻つて帰り、翌日バスに乗る準備をしなければならなかつた。
これは帰りはかなりの坂道を上るのでバスの乗員に制限があり、かつこの道は当今の食糧事情で買出しに出かける人々が多いので、朝八時の、一番のバスに乗れなければ昼ごろの二番のバス、これに乗れなければ午後のバス、これに洩れれば、殊によるとまた一日逗留しなければならないからである。
バスの切符はこの夏までは、不正な方法である特殊の人々で大部分占領されたさうであるが、今では常連の乗客たちが来た順序に番号札を分け合つて切符を買ふことに申合せた結果、切符闇売買の弊害は除去されてゐる。
しかし前晩から夜通し待合所で持つてゐる人も多いし、翌朝の列車で到着する人も多数なので、是非翌日中に帰らうと思へば、朝の四時か五時に待合所で待つ以外には方法がないと旅館の主人に教へられて、われわれは朝四時からバスの待合所に出掛けた。
そこには前夜からそこに寝ながら待つてゐた七人ばかりの人々と、朝早くから起きて来た人々で、先着の十二人の人々が電球をはづされて真暗になつてゐる待合室の中で食糧事情の困難なことを語つてゐた。
中にはコンクリートの上に筵を敷いて寝てゐた男もあつた。
その地方は可なり高度が高く、夜はすでに冷えはじめてゐるので、誰かがブリキ罐と木片とを持つて来て細々と焚火をして夜の明けるのを待つてゐた。
駅員はバスの乗客が夜の間から待合所に詰かけて来るのを嫌つてか、その直ぐ傍にある便所の電球も取外して真暗にしてあるので、夜通しそこに留まつてゐた人々は、闇夜の用便に可なりの難儀難儀をしたことを語つてゐた。
夜が明けかかるころ、駅員が一人やつて来て、火を焚いてゐることを非難し一同を罵倒して行つた。

バス会社がバスの発着を規則正しくせず、乗客を一日中荏苒と拱手佇立せしめるのも不可解であるが、駅員がバスの待合所及び便所の電球を撤収し、冷気せまる闇夜に二本の木片を焚いてわづかにの暖と明りとを採つてゐる乗客を罵倒するに至つては、その心無さに胸を絞められる思ひをした』

ここに取り上げられているのは「豊岡-神戸間直通バス」ではないけれど、駅のバス待合所を舞台として、終戦直後の交通事情の劣悪さや、様々な利用者の姿などが生き生きと描かれている。
このバスは、炭や薪を燃料とする代用燃料車であったのかもしれない。
代用燃料車は、始動に手間と時間がかかる上に、故障も多かったと言う。
バスを規則正しく運行することは、かなり困難だったはずである。
夜中に電球を取り外したのも、別に意地悪や嫌悪感ではなく、節電、もしくは盗難への対策だったのかもしれないと考えれば、当時の荒んだ世相が浮き彫りになる。

燃料と物資の不足が続いていた終戦直後のバスは、木炭バスが大半を占めていた。
昭和21年から昭和22年にかけて、進駐軍から軍用車両の払い下げを受け、バス事業は維持されていた有様だった。
昭和22年に登場した「豊岡-神戸間直通バス」が、まさか木炭バスだったとは思わないけれど、ガソリン事情が好転し、木炭バスなどの代用燃料車がお役御免となったのは、昭和25年のことである。
国内の自動車メーカーも生産体制と製造技術の立て直しを進めている最中だった。
いすゞ自動車が「BX91型ディーゼルバス」を、三菱ふそうバスが「B1D型ディーゼルバス」を、戦後初の国産バスとして生産開始したのは、昭和23年になってからのことである。

 

 

 

 


豊岡と神戸を結ぶ長距離バスは、その後、豊岡の北にある城崎温泉まで路線を延長して、「かに王国」号の愛称で現在も走り続けている。
営業距離と所要時間は、経路によって多少異なり、156~169kmを、3時間02分~3時間45分かけて結んでいるのだ。

 

 


この路線には、残念ながら乗車したことがないけれど、兄弟路線とも言うべき、浜坂と神戸を結ぶ「夢千代」号を利用したことがある。

平成22年6月の蒸し暑い日曜日であった。
神戸市内に所用があり、前夜から宿泊していた僕は、朝の8時過ぎに三宮駅に降り立った。
ホームも駅前ロータリーも、足早に行き交う人々でごった返していたが、少し離れた高架下にある、神姫バス三ノ宮バスターミナルの周辺は、人通りも少なく、ひっそりとして、裏通りの雰囲気だった。
「特急 浜坂」と行先表示を掲げた、黄色地にオレンジと緑のラインが入った鮮やかな塗装のハイデッカーが、穴蔵のように1台ずつ区切られたアーチ型の車庫に、すっぽりと鎮座して顔だけを表に出している。
各方面行きの高速バスの後部が揃って並ぶ車庫の奥に、発券窓口や待合室につながる薄暗い通路があり、バスの間をすり抜けて乗車する。

 

 

 

 

 


発車時刻が近づいても、乗り場に並ぶ乗客の姿が見えない。
バスの扉は開いている。
おそるおそる覗き込むと、運転手さんが陽気な声で、

「どうぞ、お乗り下さい、浜坂行きです」

と、声をかけてくれた。
すっかり安心して、1番乗りとなった僕は、最前列左側の席に座ることができた。
車内は、後部にトイレが備わった、至って普通の横4列シートだった。
最近は座席指定になったと聞くが、僕が乗車した頃は定員制で、自由席だったような気がする。

8時30分定刻に、浜坂行き「夢千代」号は、三ノ宮バスターミナルを後にした。
乗客は十数人ほどであった。
ターミナルの前の路地は道幅が狭く、バスは、通りの向かい側の歩道に鼻先を突っ込むかのように、車庫から真っ直ぐに車体を突き出してから、ぐいっと右へ舵を切る。

生い茂る緑の葉に、陽の光をいっぱいに受けて輝く街路樹が、車窓を彩っている。
県庁前バス停に寄って数人の乗客を拾ってから、「夢千代」号は、進路を北へ向けた。
神戸の市街地を南北に突っ切り、六甲山地の麓にある山陽新幹線新神戸駅の脇を通って、昭和51年に完成した全長7.9kmの新神戸トンネルに潜り込んでいく。
神戸を発着する高速バスは多々あるけれど、僕は、新神戸トンネルを経由して、山陽道・中国道沿線や四国、山陰、但馬・丹波方面へ向かう経路が最も好きだから、何となくワクワクする。
市町村道で最も長いトンネルだと聞いているから、尚更である。
ただ、幾らトンネルが好きでも、入ってしまえば、最初は、どえらいモノを造ったものだとその迫力に圧倒されるが、知らず知らずのうちに、早く出口へたどり着かないかなと思うようになる。

新神戸トンネルを抜けると、 跳ね回るような日光が眩しく目を射った。
すぐ先の箕谷ランプで、「夢千代」号は、いったん一般道に降りてしまう。
箕谷バスストップに停車するためであるが、簡素な待合所は無人で、バスは、再び箕谷ランプに戻って、阪神高速北神戸線に乗る。
このような寄り道は、高速バスならばしばしば経験することだが、わざわざ高速本線を離脱したと言うのに誰も利用者がいない場合には、何だか、時間がもったいないような、損したような気分になってしまう。
バス停に費やす時間は、定時運行に織り込み済みなのだから、通過したとしても目的地への到着が早まるわけではないのだけれど。
春日ICバスストップから、早くも降車扱いが始まり、前方に運賃が表示され始める。
その先の和田山ICからは、乗降ともに可能となって、停留所相互間の区間利用ができるのである。

簔谷ランプの先は、短い区間を利用する自動車専用道路が次々と現れて、何回も螺旋型の流出入路を回るから、何となくせわしない。
阪神高速北神戸線で、まずは東に向かい、唐櫃南JCTから六甲北有料道路で北へ進路を変え、神戸三田JCTで中国自動車道下り線に合流して、数kmほど西へ向かう。
吉川JCTで乗り換えた舞鶴若狭自動車道で、ようやく進路が北に定まったのである。

中国地方を陰と陽に隔てる脊梁が、中国山地であり、六甲山地はその玄関口にあたる。
古くから日本の中心であった畿内から山陰へ抜ける道は四通八達ではあるが、いずれも、丹波と但馬で中国山地を横断する峻険難路で、自動車道路としての整備が最も遅れた地域の1つであった。
新神戸トンネルで六甲の裏側へ抜ければ、そこは、賑々しい陽の国ではなかった。
屈曲した上り坂のハイウェイを山間に分け入るにつれ、あたりに人家村落の数も少なくなって、正面からは、丹波と摂津の境である虚空蔵山が迫ってくる。
背後の山をくぐり抜けただけで、大都市から、緑鮮やかな山中へと、いきなり車窓が変化する様は、大掛かりなイリュージョンを見ているかのようである。

明治4年の廃藩置県によって3府72県が制定された際に、但馬・丹波・丹後の3国が合わさって、豊岡県が出来たという。
明治22年の再統合で、豊岡県のうちの但馬と、飾磨県・兵庫県が合併し、本州で唯一、表日本から裏日本までまたがる巨大な県が生まれたのである。
この時に、旧国境を越えて、丹波の国の南部も兵庫県に取り込まれている。
このあたりの街々は、亀岡、福知山、綾部、篠山、八木・園部(どちらも現・南丹市)・和田山・養父など、どこまでが京都府でどこからが兵庫県なのか、僕のようなよそ者にはわかりにくい。
丹波市が兵庫県だと知って、びっくりしたくらいである。
一時的とは言え、県名に使われるとは、戦後最初の長距離バスが目指した豊岡とは、由緒ある地名なのだなと思う。

デカンショで有名な篠山を過ぎたあたりから、窓外に、藁葺き屋根や瓦屋根の古びた農家が目立つようになった。
屋根の両端が、古代の舟を思わせるように湾曲して迫り上がっている家もあり、このような造りは、出雲地方に多いとされている。
既に、ここは、山陰文化圏なのである。

 


「夢千代」号は、春日ICを降りると、そのまま、北近畿豊岡道へと進んでいく。
10時を少し回った頃に青垣ICを降り、近くの「道の駅あおがき」で、10分間の降車休憩となった。
青垣ICバスストップは、神戸と浜坂を結ぶ「夢千代」号神戸線ばかりでなく、大阪と浜坂を結ぶ「夢千代」号大阪線、大阪もしくは神戸と城崎をそれぞれ結ぶ「かに王国」号大阪線・神戸線といった、全但バスの高速4路線が交わる拠点である。
例えば、大阪発城崎行き「かに王国」号から、神戸発浜坂行き「夢千代」号に乗り換えることも、可能となっている。
道の駅では、地元の農産物が売られている店や食堂が開いていたが、まだ、都会からの観光客が押し寄せてくるには早い時間なのか、駐車している車もまばらである。
青垣という地名そのままの、濃緑色に染まった山々に囲まれて、蝉時雨だけがさわさわと聞こえる道の駅であった。

北近畿豊岡道へ戻って間もなく、長さ2585mの遠阪トンネルに差し掛かる。
無料供用されている北近畿豊岡道も、このトンネルの前後だけが有料である。
平成23年に崩落事故を起こした中央道笹子トンネルなどと同じ、吊り下げ式の天井で、車高の高いバスでくぐると、思わず首をすくめたくなった。
このトンネルが丹波と但馬の境界で、トンネルの出口の先が、朝来市の和田山ICバスストップである。

和田山ICは、浜坂行き「夢千代」号と、城崎行き「かに王国」号の事実上の分岐点である。
「かに王国」号は、和田山ICを出て、国道312号線を北上して、八鹿・養父を経て豊岡へ向かう。
一方、「夢千代」号でも、和田山ICから国道9号線に下りる系統もあるが、僕が乗車した便は、北近畿豊岡道の終点まで足を伸ばす。
「かに王国」号も「夢千代」号も、便ごとに丹波・但馬地域での停留所が異なっていて、広大な地域にきめ細やかなネットワークが張り巡らされている。

八鹿氷ノ山ICを降りて、国道9号線を北西方向へ走り始めたのは、11時近くであった。
途端に、沿線の停留所の案内が頻繁に流れ始めて、ローカル路線バスに乗っているような気分になってくる。
ほとんどのバス停は利用がなく通過くが、思い出したかのように、バス停のポールの陰から手を挙げて乗り込んでくるおじさんや、降車ボタンを押して、運転手さんに「おおきに」などと声をかけながら降りていくおばあさんの姿が見られるようになった。
このあたりは、名にし負う過疎地帯なのだという。

 


山々は、時に高くはあるが、のしかかるような急峻ではなく、なだらかな稜線が重なり合いながら、見渡す限りどこまでも続いている。
地図を見ると、このあたりの山々は深いように見えて、高さは300mにも満たない。
しかし、鳥取県との県境が近づくと、標高1139mの藤無山や、標高1358mの三室山などが立ちはだかっている。

SF作家小松左京氏は、ルポ「妄想ニッポン紀行」で、昭和30年代後半の日本各地を旅しているが、最終章の「出雲」では、大阪から山陰へ、国道9号線を通って車で向かう難儀さについて、かなりのページを割いている。

『一級国道9号線も、山また山、峠また峠、それも晴れた日は猛烈な砂ぼこり、ひと雨降ったらトロトロの、泣きたくなるような地道になっていく。
山陰道は、奥へ行けばこんなものだ。
最近では大車輪で道作り、トンネル作りをやっているが、まだまだ、とびとび舗装のダンダラ道だ』

八木から八鹿へ抜ける途中で豪雨に見舞われ、未舗装の道路は川のようになり、視界も効かなくなって、途方に暮れている場面が印象深い。
小松左京氏と、ハンドルを握る同行者のK先生の会話が、この地方の鄙びた様子と、当時の凄まじい道路事情を彷彿とさせる。

『「あれ?今“駐車場”と書いた看板が通り過ぎたようですが」
「まさか!こんな山の中に……」
前輪がガクンと窪みに落ち込んで、また乗り上げ、後輪がバウンドしてガタン!と飛び上がり、K先生、眉をしかめてしばし絶句されたのは、舌でもかみなさったと見える。
「いや、ほんと!」
私は、泥混じりの水で薄黄色くなったフロントガラスを指して叫んだ。
「“ドライブインすぐそこ”と書いてある!」
「やだな、小松さん……こんな、とんでもない山間僻地にドライブインだなんて、いくらあんたが狐好きだからって、昼間から化かされるのは気が早すぎますよ」
ところが、次の瞬間、急に目の前が開けた。(中略)
「ほらね──どうでしょう?あなたにも見えますか?僕は、さっきから眉毛に唾つけてるんですが、どうもやっぱり、ドライブイン食堂に見えるんです」
「いや、ほんと……確かに、僕にも見えます。これ、ほんとにどうなっちゃってるんだろう?ガイドブックか何かに、ここらへんに狐がよく出て人を化かす、とか何とか出てませんか?」
「いや、そんなことは出てませんがね。状況から見て、街道催眠にかかった様子もなし……」
「街道催眠?何です?それは」
「ああ、実証されたわけじゃありませんが、長い単調な道を、1人で車を走らせていたり、あるいは森閑とした野山を、長時間走っていると、反復刺激や、筋肉の疲労から、移動しながら一種の催眠状態に陥ることがあるそうです。僕の妄想ですが、森や野山で、狐や狸に化かされた、という大昔の話の中には、この街道催眠現象が、何割か含まれているんじゃないか、と思うんですがね。お地蔵様を人間に思い込んだり、馬糞を饅頭と思ったりするのも……」
「小松さんなんか、食いしんぼだから、気をつけた方がいいな」
「御忠告いたみいります。今後、注意しましょう」』

『山また山、それも雑木の山が多く、時折、谷底に、こんな所でと思うような細長く貧しげな田を見かける他は、山田もほとんど見当たらない。
道はさらに悪路、急峻である。
うねうねと山腹を巻いて、谷底のどん詰まりのような所へ降りていくと、そこに僅かばかりの田が開け、数軒の藁葺き屋根の民家がかたまる小集落がある。
国道9号線は、人の姿も見えないその寒村の中の、家と家の軒の間に入り込み、行き詰まりの村道かと思えるほど幅狭くなりながら、また背戸の藪を回り込んで、背後の山腹を、稲妻形に登っていく』

『道はまた山腹を巻く高みにまで来てしまった。
一方は崖、他方は深い谷底に、今通ってきた集落の屋根が小さく見える。
路肩は相変わらずのグズ土で、先行車の轍が、草を削って危うく落ちかけた跡が残っているのも薄っ気味悪い。
道央を流れる水に抉られた溝に乗り入れてはハンドルを取られそうになり、下り勾配のトロトロ道では、車がスーイと尻を振るのも気味が悪い。
「あれれ、小松さん、今度こそ、ほんとに狐に騙されて道を間違えたらしいよ」
「そんなことないはずですよ。9号線はこの所1本道です」
「だってさ、その9号線がなくなっちまった」
(中略)
何のことはない。
9号線の上にそびえる山腹斜面が、下の崖に向かって、幅20メートルくらいに渡って地滑りを起こし、土砂が、上に生えた草や木もろとも、9号線の上に覆い被さって、見事に道を覆い隠してしまっているのだ。
付近の道路工事現場から来たらしい、ブルドーザーとスクレーパーが1台ずつ、山崩れの両側から、しきりに土砂を削り取っている。
「1時間ほどで済みますよ」
と、ヘルメットをかぶった監督らしい人が、事もなげに言った。
「ここらへんは、土質が悪くて、ちょっと道幅を広げようと崖を削ると、すぐこれなんです」
(中略)
「驚いたね」
K先生は、ハンドルに頬杖ついて、諦めたようにつぶやいた。
「我が、東洋一の大工業国の、運輸、建設の諸大臣閣下は、この国の1級幹線国道が、雨が降るとちょいちょい消滅するってことを、知ってるんだろうか」』

昭和22年に登場した「豊岡-神戸直通バス」がたどった道も、同様の、いや、もしかしたら、もっとひどい難路だったのかもしれない。
その伝統を汲むのは、国道312号線で豊岡・城崎に抜ける「かに王国」号なのだが、小松左京氏の迫力ある筆致で描き出された、昭和30年代の“酷道”9号線に強く惹かれて、僕は、神戸から浜坂へ向かうバスを選んだ。
「夢千代」号は、八鹿から先、国道9号線を延々と走る。
兵庫県の南岸から北岸までを縦断する旅の形にも、魅力を感じた。
運行距離も、神戸-浜坂間が174kmで、神戸-城崎間より少しばかり長い。

「夢千代」号が快調に走り込んでいく、50年後の国道9号線は、全線が綺麗に舗装され、山に突き当たればトンネルを穿ち、点在する集落をバイパスで避けて、見違えるくらい立派に整備されているから、当時の面影は皆無だと思われる。
しかし、周りを取り囲む、奥深い但馬の山々の静かなたたずまいは、変わっていないのだろうと思う。
この地に住む人々の姿も、まるで、時が止まったかのような懐かしさを感じさせる。
はるばる「夢千代」号に乗りに来て良かったと思う。

 

 

 

 


バスは、関宮を過ぎると、先細りの谷間を登りつめ、もうこれ以上は行けません、と言うような突き当たりの斜面を、ループ橋でぐるぐる回りながら、一気に高度を稼いでいく。
八鹿から関宮までは養父市の市域である。
養父(やぶ)は、「ヤブ医者」の語源としても知られている。
そうは言っても、養父の医者は、名医として名を轟かせていたのである。
それを真似て、各地の腕の悪い医師まで「養父の医者」を名乗るようになり、いつの間にか、ヤブ医者とは、正反対の不名誉な定義になってしまったのである。

関宮のループ橋を登り切って、車高制限のポールがスキーのストックの形をしている但馬トンネルを抜ければ、標高1221mの鉢伏山の山麓に広がる、ハチ北高原である。
ここは香美町で、風光明媚な香住海岸や松葉ガニで知られている町だから、いよいよ日本海側に近づいてきたなと思う。

春来峠をトンネルで越え、だらだらした坂道を下っていくと、いきなり、旅館が密集した湯村温泉郷が山あいに開けた。
宿泊客は午前に出発してしまったのか、人影はまばらだったが、そこかしこから湯煙が立ち昇りそうな風情が、建て込んだ町並みに漂っている。
このあたりの町名は「温泉町(現・新温泉町)」で、なんと直接的な名前を付けたものと思う。

湯村温泉を一躍有名にしたのは、吉永小百合主演のドラマ「夢千代日記」である。
温泉街の一角には、夢千代の銅像も建っている。
父と母が、いつも揃って観ていた記憶が懐かしい。
夢千代は、湯村の芸者で、広島で胎内被爆歴がある。
原爆症の治療のために通う、神戸の病院からの帰り道が、物語の導入部であった。
武満徹の重厚なテーマ曲をバックに、餘部鉄橋を渡る列車を下から見上げたカットは、断片的ながら、今でも強く印象に残っている。
夢千代は、神戸から尼崎に出て、福知山線と山陰本線、もしくは姫路経由で播但線から山陰本線、そして浜坂からバスを乗り継いだのであろう。
今、僕が乗っている直通バスだったならば、乗り換えもなく、もう少し楽ができただろうに、と思う。
山陰本線の鈍行列車が醸し出す哀愁にかなう乗り物など、ないのだけれど。

 

 

 


湯村の営業所で、ほとんどの乗客が降りてしまい、車内に残っているのはほんの数名となった。
颯爽と走る高速バスでも、旅の終わりは、寂しげな雰囲気になるのが常である。

出合橋の交差点で、鳥取方面に向かう国道9号線と別れ、「夢千代」号は、県道47号線でラストスパートをかけた。
山陰本線の踏切を渡り、いかにも漁村らしく細い路地を抜けて、終点の浜坂駅に到着したのは、正午より10分ほど前であった。
あっけらかんとした浜坂駅前の広場に降り立つと、湿り気の多い風の中に、かすかに潮の匂いがした。

浜坂は、何度も列車で通過したことがあったが、町に降りたのは初めてである。
「夢千代」号の終点でなければ、訪れることなど、なかっただろうと思う。

どこかで昼食を摂ってから、13時30分発の大阪行き特急「はまかぜ」に乗るつもりだった。
廃車が噂されているキハ181系ディーゼルカーで、掛け替え予定の餘部鉄橋の眺望を楽しもうと思ったのである。

しかし、夏の太陽に照りつけられ、昭和30~40年代のたたずまいを残す、古色蒼然としたセピア色の駅前商店街には、1人で気軽に入れるような、適当な店は見当たらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

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