最長距離バスの系譜 (番外編) 奈良交通「八木新宮特急バス」166.9km | ごんたのつれづれ旅日記

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このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

この「最長距離バスの系譜」シリーズでは、戦後に日本一の営業距離を更新してきた代々のバスを取り上げてきた。

昭和22年 全但バス「豊岡-神戸直通バス」165.5km

昭和25年 一畑電鉄「北松江駅-広島駅直通急行バス」195km

昭和30年 白浜急行バス「白浜-大阪線」196.8km

昭和36年 長野電鉄「志賀高原-東京特急バス」 260.35km

昭和37年 東北急行バス「東京-山形線」384km

昭和44年 国鉄「ドリーム」号 574.8km

昭和58年 西鉄・阪急バス「ムーンライト」号 658.2km

昭和61年 京浜急行・弘南バス「ノクターン」号 694.1km

昭和63年 京浜急行・日の丸自動車・日本交通バス「キャメル」号 779.7km

昭和63年 東急・一畑電鉄・中国JRバス「スサノオ」号 832.8km

平成元年 小田急・広島電鉄・JRバス関東・中国JRバス「ニューブリーズ」916km

平成元年 名鉄バス・長崎自動車「グラバー」号 966.0km

平成2年 京王バス・西鉄バス「はかた」号1161.1km

平成22年 旅バス「キラキラ」号 661便・662便 1300km

平成23年 西武バス・西鉄バス「ライオンズエクスプレス」1170km

こうして改めて羅列してみれば、我が国の戦後の長距離バスの歴史を見ているようである。
最後の2路線は廃止されてしまったが、それ以外の長距離バスが、様々に運行形態を変えながら現在も走り続けているのは、立派なことだと思う。
現在の最長距離バス「はかた」号の開業などは、つい先日のような印象があったのだが、もう25年も前なのかと驚いてしまう。
四半世紀もの長い間、片道1000kmを超える路線バスを走らせ続けることが、如何に大変なことであるかは、理解できるつもりである。
バス事業の経営が厳しい昨今、これらの長距離路線を維持しているのは、それだけのニーズと意義があるのだろう。

今回は番外編として、日本一の長距離を走る一般路線バスを取り上げてみたい。

昨年、次のような新聞記事を目にした。

『奈良県橿原市と和歌山県新宮市を結ぶ奈良交通( 奈良市)の「八木新宮特急バス」が、2011年の 紀伊水害後の乗客減少で存続の危機を迎えている。
高速道路を使わない路線バスとしては国内最長の 166.9キロを走り、停留所は167。
沿線の一 部住民には 唯一の公共交通機関でもあり、住民らは今月内にも 決まる路線の行方に気をもんでいる。
特急バスは現在、両市を毎日片道3便ずつ6時間半で結んでいる。
運賃は全線で中学生以上5250円。
運行開始は1963年。
山あいの住民の暮らしを支えてきたが、70年代以降、林業の衰退や過疎化 による人口減から赤字が続き、2001年度から両県と国が補助金を支出してきた。
追い打ちをかけたのが、紀伊水害。
熊野川沿いのルートにある奈良県十津川村の折立橋が川の氾濫で 崩落し、土砂崩れも多発して約2か月間、部分運休を余儀なくされた。
観光客の減少も影響し、昨年度 の乗客は 5年前の7割、約9万2000人に落ち込んだ。
13年度も約5400万円の補助はあったが、同 社によると約1億円の赤字。
乗客が多い奈良市など奈良県北部の路線の黒字で穴埋めしてきたが、今年度も円安による燃料費の高騰などから、県内全域で赤字になる見通しという。
こうした経営状況から、同社は12年10月、特急バスの沿線8市村に廃止や減便を申し入れ、協議中だ。
十津川村の住民にとって村外へ出る際に頼りになるのは特急バスだけ。
奈良県五條市の病院へ通うために 乗る無職森井里美さん(72)は「廃止されたら、 車が運転できない住民は村から出られない」と訴える。
同社の担当者は「住民の生活を守るため、真摯に話し合いたいが、現状では維持が困難」と言 う。
今月9日には同社と沿線自治体の協議があり、十 津川村などは新たな補助金を検討中。
同村の更谷慈禧村長は「水害からの復興を進めており、財政は厳しいが、 ある程度の負担はやむを得ない」と話している(平成26年6月6日 読売新聞)』
 


「八木新宮特急バス」の前身は、十津川街道の改良に合わせて、昭和38年に、奈良大仏前と新宮駅の間で開業した特急バスである。
当時、直通便は3往復で、うち2往復は奈良大仏前発着の奈良交通バス、1往復は橋本駅発着の熊野交通バスが担当したという。
後に、奈良大仏前・橋本駅の両系統とも路線を縮小して、大和八木駅発着に変更された。
更には熊野交通が撤退し、奈良交通の単独運行で、現在に至っている。

紙面から顔を上げた僕は、あのバスもついに、という感慨にとらわれた。

日本最長の一般路線バスとは知らなかったが、「八木新宮特急バス」には乗車したことがあったからである。
今、思い出しても、大変に印象深い旅だった。
僕の記憶は、平成2年12月の、長い長い日曜日に飛ぶ。

その朝、東京駅を前夜に発った「ドリーム奈良」号は、定刻よりやや早めにJR奈良駅に到着した。
早朝の張りつめた冷気の中に降り立ったのは、僅かに数名だけだった。

冬の閑散期とはいえ、昭和63年8月に開業した新宿と奈良を結ぶ「やまと」号に乗車した時の、続行便を従えた人気ぶりとは対照的だった。
東京と奈良の間は、夜行高速バスとしては、日本で初めて、2路線のダブルトラッキングとなった区間である。
今でこそ、ダブルトラッキングどころか、トリプルトラッキング、またはそれ以上の路線が同一区間で競合するのは珍しくもなくなっているが、当時は、運輸省が競合を避けるべく調整していたのである。
昭和63年10月の「ドリーム奈良」号の後追いの開業は、それまで「ドリーム京都」号を利用して奈良に向かっていた乗客が、「やまと」号へ流出するのを防ぐためであると、JRバスは説明したらしい。

 

 


近鉄奈良駅まで、朝の散歩がてらにぶらぶらと歩き、すし詰めの準急電車で大和路を南下した。
のどかな田園風景の中にも、万葉の昔からの歴史をそこかしこに感じさせる車窓を眺めながら、この地に住める人々のことを羨ましく思う。
もっとも、地元の乗客は、新聞や本を読んでいたり、居眠りをしたりで、流れゆく窓の外には目もくれない。

近鉄大阪線と橿原線が差する大和八木駅のロータリーは、既に都心へ向かう人々が出払った後なのか、人影が少なかった。
奈良交通バスの窓口で、何となく眠そうな窓口嬢から、新宮までの乗車券を購入した。
新宮までの運賃4600円(僕が乗車した平成2年12月当時の値段。その後は値上げされている)と引き替えに、僕が手にしたのは、「168バスハイク乗車券」で、下天辻バス停以遠の利用者に発売される記念乗車券である。

8時半近くになって、「特急 第1はやたま」と書かれた丸いヘッドマークをバンパーに掲げた、観光タイプのバスが入線してきた。
扉が開くと同時に、若い車掌さんが飛び降りてきて、

「新宮行きです」

と案内する。

 


奈良交通の看板路線、「八木新宮特急バス」の登場である。

ちょっとくたびれたボディであるが、このバスに乗りたくて、わざわざ夜を徹して東京からやって来たのだから、胸が躍る。
早くから乗り場に並び、ひそかに狙っていた最前列左側の座席には、「予約席」と大書された板が背もたれにぶら下げられていたので、運転手さんの後ろの席に陣取ることにした。
ここでも、前方の景色は充分に楽しめる特等席である。
それにしても、このバスが予約制であるとは知らなかったので、初老の運転手さんに尋ねてみると、

「営業所に電話があったもんやから。いつも乗って下さる方なんですわ。あの人は、五條から乗るんだったよな?」

と、車掌さんを振り返った。

 


定刻8時35分、「第1はやたま」号は大和八木駅を後にした。
乗客は、ほんの数えるほどだったが、悠々たる山容を連ねる金剛山地を右手に眺めながら国道24号線を南下し、近鉄高田駅、近鉄御所駅で乗車扱いをしていくうちに、少しずつ席が埋まっていく。
沿線にはドライブインや中古車販売店、パチンコ屋などの派手な看板が目立ち、どこにでもある地方の一般国道とそれほど変わりはない。
建物の切れ目から垣間見る田園や丘陵の緑は、冬とは思えないほど鮮やかである。
大和の国とは、温暖な気候なのだなと思う。
それらの風景にひそむ歴史の密度は、例えば、点在する天皇陵の膨大な数にも表れているように、息がつまるほどに濃い。
国道にも、遺跡群を示す標識が次々と現れる。

道路が金剛山の裾に寄り添うように近づき、小高い風森峠を越えると、吉野川の川べりに広がる五條市に入る。
市街の中心にある五條バスセンターに到着したのは、9時25分だった。
ここで10分間、停車する。

五條は、大和、伊勢、紀伊を結ぶ街道の要所として古くから栄えた街で、宿場町としての面影を随所に残している。
バスセンターもそれにふさわしい規模で、様々な方面への表示幕を掲げた路線バスが、ひっきりなしに出入りしている。
御所、八木を経由して奈良市に向かう急行バスや、新宿-五條を結ぶ夜行高速バス「やまと」号の別系統などは、五條を発着するバスの代表格と言えるだろう。

南紀方面にも、路線は充実している。
五條から十津川や新宮方面へのバスは、奈良交通によって「十津川・本宮いでゆライン」と名付けられて、基幹となる大和八木-新宮間特急バスが1日2往復(愛称は、新宮行きが「はやたま」、八木行きが「やまとじ」)、大和八木-川湯間急行バスが2往復(川湯行きが「いでゆ」、八木行きが「まほろば」)運行されており、また、五條始発で十津川村へ向かう各停便も4往復運行されて、一大幹線の風格を備えている。

国鉄バスもかつては五條から紀伊半島方面へのバス路線を運行していたと聞く。
僕が訪れた平成2年には、西日本Rバスの十津川以南のバスしか時刻表には掲載されていなかったが、「JRバス五新線」の路線名称が、歴史をしのばせる。

「五新線」と聞けば、懐かしさを憶える方もおられるのではないだろうか。
かつて、五條から紀伊半島を貫いて新宮を結ぶ鉄道を建設する計画が持ち上がり、一部では着工まで及んだ。
しかし、太平洋戦争が激化したため、未完成のまま放置されたという。
JRバス「五新線」は、未成線の一部を、バス専用道路として利用していた。

 


平行するバス路線の運行本数や、沿線地域で進む過疎化の現状から推し量ると、完成していても赤字路線の筆頭に挙げられたに違いない。
それでも、「五新線」が、この巨大な半島の懐に打ち込まれた、唯一の文明の楔であったことと、それが未完に終わったことを考えると、感慨深いものがある。

万葉の時代、人々は、火葬場から立ち昇る煙が吉野の峰にたなびくのを見て、その魂が紀伊の山中に赴くものと信じたという。
この半島の奥深さを「死者の国」と想像した昔も、鉄道建設が叶わなかった現代も、「第1はやたま」号がこれから踏み込んでいく前途の、文明を拒絶しているかのような嶮しさに変わりはない。

 


「第1はやたま」号は、JR五條駅に立ち寄った後に、国道24号線から168号線に左折した。
いよいよ紀伊半島縦断の始まりである。

五條から例の指定席に乗ってきたのは、保険の外交員をやっているというおばさんで、十津川のお得意さんのところに出かける時は、いつもこのバスを使うという。
なかなか話し好きな人で、運転手さんや車掌さんとも大きな声で喋り、よく笑う。

乗客がめいめい自分の殻に閉じこもっていたそれまでとは、車内の雰囲気が一変する。

吉野川を渡ると道幅が狭まり、前方に立ち塞がる山並みに向かって、九十九折りの登り坂が始まった。
道の両側からは、鬱蒼と杉の木立ちが覆い被さり、ただでさえ、どんよりと曇っていた空が一層狭く感じられて、あたりの景色もバスの車内も、はっと息を飲むほど、もの哀しい翳りに包まれた。

みるみる高度が上がっていくのを体感しながら、「第1はやたま」号は、西吉野村に入っていく。
桜で有名な吉野の山々は、車窓の左手に連なっているはずだが、低く垂れ込めた雲と、手前の山に遮られて、見ることはできなかった。
吉野と言えば思い出すのが南北朝で、西吉野村の中心である城戸の手前には、後醍醐天皇が足利尊氏に追われて吉野に落ちていく際に滞在したという賀名生皇居跡がある。

古くは壬申の乱の直前に都から逃れた大海人皇子や、源頼朝に追われた義経一行など、政治の拠点が置かれた畿内のすぐ南の地に、対抗勢力が逃げ込んだり存在できたことが、非常に不思議に感じていた。
こうして実際に足を運んでみると、紀伊山塊の峻嶮な地形が実際の距離を覆し、時の政府の力が及ぶことを、充分に拒むことができたのだと納得できる。
この先の大塔村や十津川にも、大塔宮護良親王の御所跡や楠木正成の孫の正勝の墓など、南朝ゆかりの遺跡が点在している。

人間の生活の痕跡すら伺えないような寂しい車窓が続くが、時折、こぢんまりとした集落が現れ、人気のない雑貨屋が埃をかぶっている。
すれ違うのは、太い木材を山のように積み上げた大型トラックばかりである。
平地に乏しく、満足に田畑を開くことが出来ないこのあたりの村々の主産業は、林業なのだ。



羊腸の如く山を巻く道路の前方に、ひときわ巨大な峰が立ち塞がり、黒々としたトンネルが口を開けている。
天辻峠を貫く天辻トンネルだ。
中には明かり1つなく、遙か彼方に出口が小さく見えるだけである。
大型車が向こうからやって来たら、とてもすれ違うことはできないであろう。
ヘッドライトに照らされる壁面は綺麗にコンクリートで固められ、高い費用をかけて造られていることはわかるのだが、幹線国道に、どうしてこんなに狭いトンネルを掘るのだろうと思う。

天辻トンネルを抜けて間もなく、左手から流れてきた十津川源流の天ノ川を渡る。
この川の上流は、「近畿の屋根」とも言われる大峰山脈で、大普賢岳、彌山、八剣山、釈迦ヶ岳など、1500~1900m級の山々がそびえている。
その東には、奈良県と三重県の境を成す大台ヶ原山を含む台高山脈が並び、紀伊半島随一の秘境と言われている。
奈良交通は、大和八木から、大峰山と大台ヶ原山の間を貫く国道169号線を経由して、熊野・新宮に向かうバスも運行していた時期があり、「北山ライン」と名付けていた。
第2の紀伊半島縦断路線というわけだが、こちらは、平成2年の当時には既に分断されていて、全便、途中の杉ノ湯で乗り換えなければならなかった。

 


天ノ川の橋上で、新宮を早朝6時32分に出てきた「第1やまとじ」号とすれ違った。
運転手さんが窓から手を出して相手を止め、道路情報や、営業所の歳末の行事などの情報を交換している。

そこからは少し視界が開けて、「第1はやたま」号は、右に深く谷を刻む天ノ川と十津川に沿って山を下り始める。
時々、思い出したように国道を離れては、山の斜面に張り付くようにたたずむ集落に寄っていく。
バス1台がやっとの道幅しかないけれど、路線バス同士の交換は考慮されているらしく、十津川温泉を午前7時に出てきた五條行きの各停便は、「第1はやたま」号が左上方の集落に向けて左折した直後に、国道を通過していくのが、木々の合間から見えた。
十津川9時10分発の各停便とは、ちょうど広くなった待避場で待ち合わせた。
単線を走る鉄道を彷彿とさせる見事なダイヤと、それを実現する運転手さんたちの腕前には、舌を巻く。



それにしても、十津川がうがつ渓谷の見事さは、何と表現したらいいのだろう。
このような深い山中でも、川は深く、広く山を削り、水面は深みのある緑色に染まって波1つ立てず、時が静止しているかの如く悠々と流れている。
その両岸に落ち込む断崖を包む杉林と、赤茶けた荒々しい地表が、折りから降り出した霧雨に濡れている。
バスで過ごした長い時間の大半を、川の流れに目を奪われっぱなしだった気がする。

大塔村南端の集落、宇井を過ぎると、バスは十津川村に入る。
この村は奈良県の5分の1を占める巨大な面積を持ち、南北の長さは36kmにも及ぶ。
「第1はやたま」号も、村の北端から村役場まで1時間余り、和歌山県境まで2時間近くを要するので、その広大さは充分に実感できる。
しかし、1平方キロあたりの人口はたったの10人で、名にしおう過疎地でもある。

11時08分に、「第1はやたま」号は上野地バスターミナルに到着した。
ここで20分の休憩である。
ターミナルから100mほど国道を戻ると、日本一長い谷瀬ノ吊橋がある。
パンフレットには、その見学のための休憩時間と記されていたが、乗客の大部分は昼食を摂るためか、集落内に散らばってしまい、霧雨に濡れながら吊橋を見学に行ったのは、僕だけだった。


 


全長297m、高さ54mの鉄線橋の迫力は、想像以上だった。
いったんは、勇気を振り絞って足を踏み出し、渡りかけたものの、幅の狭い渡し板を踏みしめる僕の足下のすぐ横に、遙か下方の河原が見えるので、心臓を何かにつかまれたような恐ろしさが胸に湧き上がってくる。
時間があれば、何とか向こう岸まで行けたかもしれないと思うのだが、20分で往復するのは無理と判断して、中程で早々に諦めた。
渡らないと決めて安心し、改めて一服しながら眺めれば、赤土の河原と濃緑色の川面の対比が鮮やかである。
地元の人々は、この吊橋をバイクで渡るのだと言うから、畏れ入ってしまう。

ターミナルと言っても、バスが2台並べばいっぱいになってしまう駐車場のようなものだったが、「第1はやたま」号の隣りに、川湯温泉からの急行「第1まほろば」号が停車し、運転手さんたちが談笑していた。

「橋、渡ってこられましたか」

と話しかけられたが、いやいや、とても無理でした、と苦笑いを返すしかなかった。

 


上野地から40分ほど山道をたどると、十津川村役場に到着し、賑やかだった保険外交員のおばさんも数人とともに下車していった。
更に20分ほど行った十津川温泉昴の郷バス停では、路肩で6分間の休憩となった。
道の反対側に、十津川村営バスの可愛らしいマイクロバスが停車している。
過疎地でありながら、広大な村域に大小250もの集落が分散しているこの村では、交通要請が決して少なくないはずであるが、採算上の理由から、路線バスの維持は非常に難しいだろうと思われる。
「十津川・本宮いでゆライン」のパンフレットにも、十津川温泉上湯や、瀞八丁方面への村営バスの案内が掲載されている。
国道幹線を奈良交通の路線バスが受け持ち、枝状に広がる支線を村営バスが補完しているようである。

十津川温泉から10分ほど山を下ると、「第1はやたま」号は、奈良県に別れを告げて和歌山県本宮町に入った。
このあたりから急激に山々が後退し、十津川の両岸が左右に開けて、河原が広くなってくる。
まだまだ上流だというのに、河口の趣すら感じられる。

僕は、13時17分着の本宮大社前で途中下車するつもりなのだが、車掌さんにそのことを告げると、びっくりしたように、

「えっ?次の新宮行きのバスは17時37分までありませんよ」

と言う。
本宮大社前からは、奈良交通の他にも、西日本JRバス(現在は撤退)や熊野交通の路線バスが新宮に運行されているが、「168バスハイク乗車券」は奈良交通バスだけが有効なので、次の「第2はやたま」号を待つしかないのである。

まあ、4時間くらいなら何とか時間が潰せるだろうと考えて、予定通り「第1はやたま」号を本宮大社前で見送った。
降りたのは、僕1人だった。

 


あてが外れた。
熊野三山の総本山、熊野本宮大社というからには、少なくとも伊勢神宮周辺のような賑わいがあり、食事をしたり買い物ができるものと勝手に想像していたのだが、そのような僕の俗な期待が恥ずかしくなるくらい、社殿のある小高い丘を囲む風景は、清冽で、閑散として人気がない。
遠巻きに囲む山々と、背の高い杉林と、十津川のせせらぎだけの世界である。

村の鎮守様といった雰囲気の一の鳥居をくぐり、杉木立に囲まれた長い石段をゆっくり登った。
背後で荒い息遣いが聞こえたので振り返ると、サングラスをかけ、黒いスーツに身を包んだ中年の男性が、両手に大きく膨らんだ黒ビニール袋を下げて登ってくる。
何が入っているのか、いかにも重そうなので、

「お持ちしましょうか」

と声をかけると、男性はびくりとしたように足を止め、

「いや、結構」

と、小さく頭を下げた。
何となく薄気味悪くなったので足を速めて、境内正面に並ぶ4つの社殿の前でそそくさと参拝を済ませると、件の人物がやって来て、僕には目もくれずに、大きく柏手を打ち、何やら大声で唱え始めた。



不謹慎かもしれないが、このように何もないところで4時間も過ごそうという意気込みは、するするとしぼんでしまった。
僕は「168バスハイク乗車券」が無駄になるのを承知で、13時42分発の新宮行き熊野交通バスに乗り込んだ。
滞在時間は、僅か30分である。

センターラインがくっきりと車線を分かつほどに広くなった国道を、川に沿って、坦々とバスは走る。
車内はがらがらで、停留所を告げる録音テープの乾いた案内だけが、機械的に響く。
この区間は、熊野交通バスのエリアであるから、「第1はやたま」号は、熊野交通便より停留所が少なかったはずである。

 


十津川は、大台ヶ原を水源とする北山川と、本宮町の隣の熊野川町で合流して、熊野川(新宮川)と名前を変える。
かつては、上流で伐採した杉を筏に組んで、この川を下ったという。
渡し守たちも、このあたりまで来れば、ほっとひと息ついたことであろう。
「第1はやたま」号で目の当たりにした、紀伊山地の予想以上の険しさを思い返しながら、打って変わって穏やかになった風景に心が和んだ。

新宮の街は、眩しいくらいに、あっけらかんとした明るさが印象的だった。
本宮大社から1時間ほどで、速玉神社などの観光案内が流れれば、様々な土産物店が軒を並べる新宮駅前に到着である。
バスを降りると、ようやく生身の人間の里に戻れたという安堵感が、僕の心を満たした。

 


新宮駅からは、熊野交通の「新勝線」紀伊勝浦行きバスで西へ向かった。
バスが走る国道42号線は、終始、JR紀勢本線とからむように半島の海岸線を半周しており、路線バスも鉄道の駅にこまめに立ち寄って鉄道を補完している。

このバスで、初めて熊野灘を見た。
新宮市街を出て、隣りの那智勝浦町との境の峠越えにかかると、路肩から落ち込んでいく崖の下に、濃い藍色の波が荒々しく飛沫を上げて押し寄せている。

那智駅前で、熊野交通の「那智山線」のバスに乗り換えて耶麻を登り、那智山青岸渡寺と、那智熊野大社を訪れた。
境内からも、黄昏に染まる山並みの遙か彼方に海が広がっていた。
左手には、山の中腹を這う白蛇のような那智の滝も見える。



 


再びバスに乗って紀伊勝浦駅前に着いた時には、とっぷりと日が暮れていた。

これから乗る勝浦温泉と池袋を結ぶ夜行バスは、駅からこじんまりした繁華街を抜けて、徒歩5分ほどの温泉街の土産物店前の駐車場から発車する。
この店のレジには、雑多な商品に混じって、池袋行きや、津・松坂方面への南紀特急バスのチラシも並べられ、乗車券発行も扱っている。
様々な高速バスに乗ってきたけれど、土産物店が起終点になっているというのも、あまり例があるまいと思う。

 


バスを待つ間に勝浦港に出て、桟橋をぶらぶらと歩いてみた。
進むに従って、背後の町の灯が遠ざかり、深い闇が僕の身体を包み込む。
ぎっしりと停泊している漁船や遊覧船の船底に当たる水音だけが、ひたひたと聞こえる。

桟橋の端に立ち、黒々とうねる波を見つめながら、太平洋の広がりを想像すると、紀伊山中で感じた死の影が、再び足下から忍び寄ってくるような心持ちがした。
平安末期、末法の世を棄てて南海上に極楽浄土を求め、この地から何百という人々が生きながら死者の国へと船出していったことがあったという。
補陀落渡海の風習である。
平安時代に、「厭離穢土・欣求浄土」に代表される浄土教の往生思想が広まり、海の彼方の理想郷と浄土とが習合された結果であると、解釈されている。

粗末な舟に乗り、荒々しい黒潮の海へ、2度と帰らない航海に旅立っていった人々の運命を思うと、ふと、背筋が寒くなる。
その反面、もう1歩、足を踏み出してみたいという衝動が突き上げてくるような気がして、僕は思わず後ずさりした。
どうやら、紀伊半島の旅に精神的にのめり込み過ぎたようだ。
おかしな誘惑が僕の心を支配する前に、この地を離れた方が良さそうである。

 


この日の池袋行き高速バスは三重交通のバスだった。
白地に緑色のラインが入った車体が、駐車場に停まって、土産物店の照明に映えて鈍く輝いている。
僕が乗車した時は、開業して1週間しか経っていなかったので、工場から納車されたばかりのような、ピカピカの新車だった。

この車両は、熊野市の先の国道42号線に通行車両の高さが3.5mに制限されているガードがあり、普通のスーパーハイデッカーがくぐれないため、特注で製造されたと聞く。
三重交通の車両ではあまり目立たなかったが、共同運行の西武バスの車両は、同じ日産ディーゼルスペースウィングの他の車両に比べれば、少しばかり屋根を押しつぶしてみました、というような、ユニークな外観のバスである。
僕は、かつて、秩父の中津川林道で走っていた「三角バス」を思い出した。
狭いトンネルに合わせて屋根を絞ったバスのことで、それを特注したのも、西武バスなのである。

 

  


実際に乗車して車内を見るまでは、ちょっとした不安を抱いていた。
当時、西武バスが運行する高速バス路線は、車両運用の効率化のためか、頑なまでに横4列シート車にこだわっていた。
営業距離651km、所要11時間という同社の最長距離路線にはまさか、と思っていたのだが、横3列席と横4列席では、1晩の居心地に大きな違いが生じる。

「第1はやたま」号の車内でも、勝浦温泉-池袋間高速バスの開業のことに話が及び、

「私らも、この間、三重交通さんのバスを見せてもらいました。凄く綺麗やったから、わしらも見習わなきゃと思いましたわ」

と、運転手さんが太鼓判を押してくれたのだが、不安を完全に払拭することはできなかったのだ。
薄暗い照明に、赤系統の色調でまとめられた横3列独立シートが照らし出されているのを目にした時には、無性に嬉しかった。

予約した乗客の1人が姿を現さず、乗務員さんが営業所に電話で問い合わせたりして、定刻の19時30分をかなり過ぎてから出発した。
まだ眠るには早い時間であるが、全ての窓にはカーテンが引かれて、中央席をあてがわれた僕は外を眺めることができない。
しかし、前の晩からずっとバスに乗り通しであったし、翌朝には自宅に帰れるという安心感から、猛烈な眠気が襲ってきた。
一般国道独特のごつごつした乗り心地を枕に、いつしか眠りについていた。

ふと目を覚ますと、前方のデジタル時計は午後11時を回っていた。
勝浦を出発してから3時間30分が経過しているのに、車内はまだ消灯せず、ちょうど乗客が1人乗り込んで来るところだった。
この時間だと、最後の乗車停留所の栃原であろうか。
和歌山県から三重県南部にかけての130kmにも及ぶ長い海岸線を、1路線でカバーし、途中11ヶ所で乗降扱いをするために、乗車停留所がある地域を走破するだけでも、これだけの時間がかかるのだ。
右隣りの若い女性がカーテンをめくったので覗いてみると、暗闇の中で、見送りと覚しき人が手を振っているのがおぼろに見えた。
このような寂しい停留所で夜行バスを待った経験はないが、どんな心持ちがするのだろう。

勝浦温泉を発車する時には数人しか乗っていなかった車内も、いつの間にか満席になっていた。



かつて、紀伊勝浦駅と東京駅の間を、旧国鉄の寝台特急列車「紀伊」が走っていた。
昭和59年に廃止された後は、南紀から首都圏への直通手段が失われていたのである。
昭和63年12月に伊勢・津-池袋線を、平成元年9月に名張・伊賀上野-品川線を開業して、三重県北部の主要都市と首都圏を直結する高速バスの実績を築いていた三重交通に、南紀と首都圏を直結する高速バスの開設を要望する声が、地元住民から寄せられていたという。
住民の悲願が実って、平成2年12月に伝統の夜行ルートをバスが受け継いだ時には、よそ者の僕でさえ、言いしれぬ興奮を覚えたものだった。
こうして、盛況の車内を目にすると、この路線に託した住民の熱い思いが、直に伝わってくるようである。

勢和多気ICから伊勢自動車道へ入ると、バスの走りは、水を得た魚のように一変して、勢いを増す。
再び深い眠りについた僕を乗せて、一気に三重県を縦断し、東名阪、名神、東名、そして中央道と走り込み、次に目を覚ましたときには、バスはまだ仄暗い早朝の都心を、終点池袋に近づいているところだった。

その後、奈良交通と地元自治体との協議で、「八木新宮特急バス」は、補助金の交付を受けながら、存続が決まったと聞く。
厳しい路線環境であることは充分に察せられるが、何とか、地元住民の貴重な足として、長く走り続けてほしいと、心から願う。

 


(追記)平成15年11月から、八木新宮特急バスに、補助金により新車が導入されたとのニュースが流れた。
取りあえず路線の維持が決まったようで、喜ばしいことと思う。

 

 

 

 

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