1436徒然喜び照らす「愛の不安クラブ」 | + 右山喜丸の喜びテラス +

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右山喜丸が紡ぐアドリブトーク






十月十一日(土)晴れ

昔付き合ってた彼女と、本に載ってた「心理テスト」をしたコトがある。

「あなたが山を登っていると、遮るように横に長い長い、高い高い壁が立ちはだかりました。あなたはどーしますか?」

彼女は「登る」と言い、僕は「壁になんか書く」と答えた。

「あなたは壁を登りました」

……登るんかぃ。

「登り切った壁の上から観た景色に、あなたはどう思いましたか?」

彼女は「うわー!すごーい!と思った」と答え、
僕は「特に今まで観た風景と大差ないな、と思った」と答えた。

こんなのワザワザ「心理テスト」と名を打つ程のモンか?っつーくらい、
壁は、立ちはだかる困難を示し
困難に出会った時、あなたならどーするのか?を表し、

登った先に観える風景への感想は、
困難を克服した時の、あなたの感想を表してる、っつー、

まんまやんけ!みたいなテストであったのだが、

まぁ僕らしくて笑ったのを覚えている。




「持続」に関して書く前に、
コレは前提として書いておこうと思う。



世界は「愛」と「恐怖」で出来ている。



……「愛と恐怖」がコトバとして強過ぎるなら「愛と不安」でもいい。

「悲しみ」も「怒り」も「嘆き」も「怯え」も
いわゆる「不安」のバリエーションやなかろーか。

「愛」は「喜び」とか「幸せ」とか「安心」なんてのも、
「いわゆる愛」側に属してるよーな気がする。

つまり煎じつめれば「愛」と「不安」の組み合わせ、バリエーション、さじ加減の違いが、
上記した様々な感情…言い換えれば「事実を受け止める視点」を形作る二枚看板になっとるよーな気がする。

「不安」は
走って、ため込んで、激昂して、しがみついて、糾弾して、騒いで、攻撃する。

「愛」は
止まって、分け与えて、穏やかで、優しく抱きとって、理解して、静かで、共感する。

大自然の命達にも、もちろんどちらの現れもあって、
それが自然に対する人間にとっての「畏れ」も込みの「不安」になってる場合も多々あるが、

やはり自然が与える「癒し」を前にして、
それを的確に形容したコトバに僕がまだ出会えて無いほどに、

自然が醸し出す「愛」の広大さ深遠さは、「コトバ」の手には負えない。
微細過ぎて、行き渡り過ぎて、当たり前すぎてしまった特別。

愛は愛でも、
ステージの次元が高くなるほど、
「愛の粒子」は細やかになってく気がする。

そんな愛の話を、
僕も友人達から何度か聞いたコトがある。

しかし、

コレがおかしな話でねぇ。

特にそんな愛とか喜びとか神とか幸せってのは、
「自分の内側を通して現れる『内的体験』」な側面が大きいけんねぇ、

どーも他人の昨夜の夢話を聞いとるよーでピンと来ん。
「そぉーかぁ、よかったな!」ぐらいしか言うてやれん。

ところが「相談事」を始めとした「不安話」の手触りのあるコトよ。

やっぱ「不安」のが粒子が荒いと思わざるをえん。
ザラザラしてゴツゴツしとるモンやけん、当たる感じ?感触がわかりやすいんやろーなぁ。

これも同じ『内的体験』には変わらんのは変わらんのやけど、
その不安な『内的体験』を引きこ押すキッカケとなる不安な外的要因が、「荒い出来事」がほとんどなモンやけん、

思い返してみて?「リアル」とか「シビア」て、ほとんど「不安話」と同義になってしまっとるコトが多いやろ?

簡単なコマーシャルでもそーよ。

「そのままでは成人病になる」と不安で煽って、
「そんな時は当社のコレ!」的な解決の愛を提示する。
このパターンばっかやん。

「実は家の中はこぉ~んなに雑菌だらけ」と不安を煽って
「そんな時は当社のコレ!」

「目元のたるみ、ほうれい線、気になりませんか?」
「そんな時は当社のコレ!」

「歯周病を放っておくと大変なコトに!」
「そんな時は~」

もぉええって。
………まぁ……ツンデレが受けるハズですよ。荒いわぁ。


コレは絶対再検証されにゃと思うなぁ。

本質的な「リアル」て、もっと粒子が細かく壮大な展開を持っとる気がするけどなぁ。

とこのように、

社会では「愛」より
「不安基盤」
でコトが成り立っとるよーな気がする。


世界が完成してると思えない、
この世はいつも何か、どこか「足りない」状態である、
「より良く」しなければ「より良く」ならない、


こんな焦燥感に背中をつつかれてる感じに僕には見える。

そしてそれは
「自分は無条件で愛されてる」
と言う認識を持てない人々が異常に、それこそ異っ常~~っに!多いからのよーな気がする。

そしてそしてそれは
「自分を無条件で愛し損ねてる」
人々が多いってコトと同義やんか。


……あれ?
んーと、


ちょっと読み返してみたけど、
何もコレは「不安はイカン!」と言うとるワケやなくてですね、

ん~………

「不安」の方に寄り過ぎとるっつー感じ、なのかねぇ。
「不安」の方ばっかりカネになり過ぎとる。

言い換えれば
「カネで不安を相殺出来る」
と簡単に思いやすい世の中に見える、てコトを言いたかったワケやね。



持続のコトに想いを巡らせば
僕は

「死も愛」

と言うコトバに行き着かないワケにはいかない。

「死が不安」なのは当たり前だ。前提だ。

しかし、
幼い頃に「死」を迎えた親父は、今朝も僕に元気をくれたし、

ミルキーの「死に様」は、僕の中の頑固に動かなかったトコロを揺さぶってくれた。



死を創造的に語れるのが
僕が思う「大人」だ。



「所有」は
あまりにもフィクション過ぎる。

じぇーんじぇんリアルじゃ無い。


今日はこの辺、やな。






皆さん御役目ごくろーさま