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右山喜丸が紡ぐアドリブトーク






十月十一日(土)晴れ

昔付き合ってた彼女と、本に載ってた「心理テスト」をしたコトがある。

「あなたが山を登っていると、遮るように横に長い長い、高い高い壁が立ちはだかりました。あなたはどーしますか?」

彼女は「登る」と言い、僕は「壁になんか書く」と答えた。

「あなたは壁を登りました」

……登るんかぃ。

「登り切った壁の上から観た景色に、あなたはどう思いましたか?」

彼女は「うわー!すごーい!と思った」と答え、
僕は「特に今まで観た風景と大差ないな、と思った」と答えた。

こんなのワザワザ「心理テスト」と名を打つ程のモンか?っつーくらい、
壁は、立ちはだかる困難を示し
困難に出会った時、あなたならどーするのか?を表し、

登った先に観える風景への感想は、
困難を克服した時の、あなたの感想を表してる、っつー、

まんまやんけ!みたいなテストであったのだが、

まぁ僕らしくて笑ったのを覚えている。




「持続」に関して書く前に、
コレは前提として書いておこうと思う。



世界は「愛」と「恐怖」で出来ている。



……「愛と恐怖」がコトバとして強過ぎるなら「愛と不安」でもいい。

「悲しみ」も「怒り」も「嘆き」も「怯え」も
いわゆる「不安」のバリエーションやなかろーか。

「愛」は「喜び」とか「幸せ」とか「安心」なんてのも、
「いわゆる愛」側に属してるよーな気がする。

つまり煎じつめれば「愛」と「不安」の組み合わせ、バリエーション、さじ加減の違いが、
上記した様々な感情…言い換えれば「事実を受け止める視点」を形作る二枚看板になっとるよーな気がする。

「不安」は
走って、ため込んで、激昂して、しがみついて、糾弾して、騒いで、攻撃する。

「愛」は
止まって、分け与えて、穏やかで、優しく抱きとって、理解して、静かで、共感する。

大自然の命達にも、もちろんどちらの現れもあって、
それが自然に対する人間にとっての「畏れ」も込みの「不安」になってる場合も多々あるが、

やはり自然が与える「癒し」を前にして、
それを的確に形容したコトバに僕がまだ出会えて無いほどに、

自然が醸し出す「愛」の広大さ深遠さは、「コトバ」の手には負えない。
微細過ぎて、行き渡り過ぎて、当たり前すぎてしまった特別。

愛は愛でも、
ステージの次元が高くなるほど、
「愛の粒子」は細やかになってく気がする。

そんな愛の話を、
僕も友人達から何度か聞いたコトがある。

しかし、

コレがおかしな話でねぇ。

特にそんな愛とか喜びとか神とか幸せってのは、
「自分の内側を通して現れる『内的体験』」な側面が大きいけんねぇ、

どーも他人の昨夜の夢話を聞いとるよーでピンと来ん。
「そぉーかぁ、よかったな!」ぐらいしか言うてやれん。

ところが「相談事」を始めとした「不安話」の手触りのあるコトよ。

やっぱ「不安」のが粒子が荒いと思わざるをえん。
ザラザラしてゴツゴツしとるモンやけん、当たる感じ?感触がわかりやすいんやろーなぁ。

これも同じ『内的体験』には変わらんのは変わらんのやけど、
その不安な『内的体験』を引きこ押すキッカケとなる不安な外的要因が、「荒い出来事」がほとんどなモンやけん、

思い返してみて?「リアル」とか「シビア」て、ほとんど「不安話」と同義になってしまっとるコトが多いやろ?

簡単なコマーシャルでもそーよ。

「そのままでは成人病になる」と不安で煽って、
「そんな時は当社のコレ!」的な解決の愛を提示する。
このパターンばっかやん。

「実は家の中はこぉ~んなに雑菌だらけ」と不安を煽って
「そんな時は当社のコレ!」

「目元のたるみ、ほうれい線、気になりませんか?」
「そんな時は当社のコレ!」

「歯周病を放っておくと大変なコトに!」
「そんな時は~」

もぉええって。
………まぁ……ツンデレが受けるハズですよ。荒いわぁ。


コレは絶対再検証されにゃと思うなぁ。

本質的な「リアル」て、もっと粒子が細かく壮大な展開を持っとる気がするけどなぁ。

とこのように、

社会では「愛」より
「不安基盤」
でコトが成り立っとるよーな気がする。


世界が完成してると思えない、
この世はいつも何か、どこか「足りない」状態である、
「より良く」しなければ「より良く」ならない、


こんな焦燥感に背中をつつかれてる感じに僕には見える。

そしてそれは
「自分は無条件で愛されてる」
と言う認識を持てない人々が異常に、それこそ異っ常~~っに!多いからのよーな気がする。

そしてそしてそれは
「自分を無条件で愛し損ねてる」
人々が多いってコトと同義やんか。


……あれ?
んーと、


ちょっと読み返してみたけど、
何もコレは「不安はイカン!」と言うとるワケやなくてですね、

ん~………

「不安」の方に寄り過ぎとるっつー感じ、なのかねぇ。
「不安」の方ばっかりカネになり過ぎとる。

言い換えれば
「カネで不安を相殺出来る」
と簡単に思いやすい世の中に見える、てコトを言いたかったワケやね。



持続のコトに想いを巡らせば
僕は

「死も愛」

と言うコトバに行き着かないワケにはいかない。

「死が不安」なのは当たり前だ。前提だ。

しかし、
幼い頃に「死」を迎えた親父は、今朝も僕に元気をくれたし、

ミルキーの「死に様」は、僕の中の頑固に動かなかったトコロを揺さぶってくれた。



死を創造的に語れるのが
僕が思う「大人」だ。



「所有」は
あまりにもフィクション過ぎる。

じぇーんじぇんリアルじゃ無い。


今日はこの辺、やな。






皆さん御役目ごくろーさま















十月十日(金)晴れ

写真?は「さとこさん」の1話目を描く前段階でテストとして描いてみたひとコマ。



まーツラツラと書いてきましたが、

大自然に見る「順応」とか「適応」てな、
やっぱ自分主体で「変化しよう!」てコトでしょ?
しかも、
「前とは変化してしまった環境を受け止めて」からぁ~の、の決意やないですか。

…なんや正解とか正義とか道徳とか使ってよぉ、
ゴニョゴニョゴニョゴニョ言ってよぉ、
「お前のソコは違う」とかよぉ、
「あんたはそーゆートコロが足りない」とかよぉ、
「そんなのは遅れてる」とかよぉ、

変化した環境を受け止めもせんと、自分の気に食わないのを、自分じゃなくて周囲を変えて済まそうみたいのの見え隠れ?ての?

キライだね。

イヤ心配はしてくださってるんでしょーさ。

そんならよぉ、

トッコッッッットン!
話し合わなきゃやんか。

お互いそれぞれがどっちを向いて話をしてるのか。
今自分が欲してるのはナニで、今んトコロ脇に置いてても構わないとしてるのがナニで、
結果的にどーなりたくて、んだからまずスタートラインに立つためにどのよーに環境作りをしたいんか。

自分を見つめる気持ち、
その気持ちを上から見てる心、
その心を上から見てる魂、

そんな場所で話し合いたいじゃない。

本人じゃない他人が、人の生き方暮らし方過ごし方に立ち入って提言、批評するなら、

そんくらいはせにゃ、そんくらいは目指さにゃ……キライだね。

でも話し合いっつったって、
話してる間に「どっちが相手を論破出来るかぁー」みたいな意地の張り合いとかになるからね九割九分。

じぇんじぇん創造的じゃない。

僕なんかもう口でやりあうと「勝つ側」っぽくなるのがほとんどやし、
……でも、
そんなモンになりたいワケやないんですもん。

口喧嘩とか、もぅオカマやんか。

もーいーとよ、みんなが幸せなら。

「幸せなら」よ?



機能も順応も「幸せ発信」よ。

幸せ発信っつっても「幸せになるために~」じゃないスよ。

魂の本質は、愛とか喜びとか真実やけんね。
「なんで?」ていわれてもコリャもーしょーがない。
皆さんがなんの意識もなく、無意識で毎日を「幸せ基盤」で物事を考え、選択し、行動しよるのを思えば、
これはもう命の基本性能としか言えんでしょう。

つまり、
命の状態は「幸せ」なんですよ。コレ。
言い方変えれば「魂」は喜びで出来とる。

だから「心のずっと奥の方」の声を聞けば

「幸せになるために~」

とか魂が言うワケないんですよ。
今幸せだったら幸せを目指さんでいーやないですか。
だってもう存在自体が「幸せそのもの」なんだもん。

僕が自分で「あぁ~右ヤンみたいになりてぇー」とか言ってたらバカでしょ?

よって

僕らは「幸せだから」今の状態なんですわな。魂的に。

僕らがどんな気持ちでいよーが、どんな行動をしてよーが、どんな環境にいよーが、

僕らの命、魂は幸せの存在ですよ。

そやから自分発信でチャレンジできるのが大自然なんでしょ。

ソレを「感じろー」言うてるのが、僕らを含めた大自然に生きるすべての個体が持つ、心で


人間だけどっか分離してまって
「感じたいー(のにぃ)」言うてるのが気持ちなのかな?て感じで思ってますね。


「順応」はとりあえずこんな感じですかね。




さてさてやね、
機能して、順応する。
なんでか?っつーたら命は命自体を持続させるモンやから。

ワルツで言うトコロの3カウント目に行く為の「1、2」が「機能、順応」で、
持続のカウント3でワルツのリズムが回り出して世界はスウィングしとるでしょ。

機能して、順応して、持続しながら機能して、順応してってグルーブやんか、大自然を見てると。

人間をみてると?どっスか。

機能の仕方を「人として」の正解側に立とうとして道徳に依存して、
順応の仕方を「好評価を得る」正解側に立とうとして正義に依存する。

早い話が人のコトばっか見て、
自分自身を権威に「検証」しとらんのですよ。
人の話ばっか聞いて、楽譜の通りプレイしようとして、間違えないコトに終始して、
ちゃんとしよーちゃんとしよーっつって楽譜見ながら演奏するモンやけん、
グルーブしとらんのよ。テンポ遅れとるっちゅーの。

確かに、
先人達も必死に生きてきて、
多大な経験値を今の僕らに残してくれた。ありがたい話や。
コレがまぁいわゆる「楽譜」よ。

でもその通りに弾いても、そのぉー…なんだ?
音が死ぬで?
サウンドがジャンプせんやんか。
面白ぉないやんかそんなサウンド。

楽譜読み込んで、プレイをやりこんでって、そりゃ大切よ。

でも
その旋律を
自分の暮らしで培った「感覚」にシンクロさせにゃ。
自分のメロディにせにゃ。
先人達の残した価値を、自分の命を使ぉて再検証せにゃ。

「命を使う」ってコトを意識せんとさぁ、
なに?もぉ、ソレせんのやったら誰だっていーワケやん。



ここら辺、よ。



ここら辺で「持続」が曲がるんよ。きっと。

今、僕は毎日を使ってコレを再検証しとる最中ですな。


人は自分を愛しそこねて、
「持続」を



「所有」に曲げてしまう。


今日はこんな前フリで。







皆さん御役目ごくろーさま



















十月六日(月)雨後曇り

台風でも引越しはあるわぁ。
イヤやわぁ。
でも一旦ずぶ濡れになれば子供の気分。ヤーケークーソーやーー。



さて。
前回から「自分が神様」言う話を書いてんスけど、

この考え方はある意味危険やないですか。
むのすごゴーマンになれてしまう。
なんかアクシデントやらがあっても
「知るか!」と我を通す振る舞いをやりやすくしてしまう。
「俺の言い分が正しいんじゃ!」とやれてしまう。

イヤそれでもいんスけどね。
僕もそーなる時あるし。
なんかロックてそーゆー風味もあるしね。

でも、
コレ僕の趣味なんやろーけど、
「ファック!」なロケンローより、
「ラブアンドピース」なメッセージソングのが、僕ん中ではロックな感じがしてて、

行動でもコトバでも
否定や破壊を使った、自分に対する一時的な「癒し」って、ね?
んー……
少なくとも僕の場合は、効果が長続きしないんですわ。しなかったんですわ。

結局、後になって「アレやっぱ芯を食ってなかったなー」みたいに思うコトがほとんどだったんですよね。

全時間を一つの……「偉大なる一瞬」みたいにイメージしたとしたら、
やっぱ「ピカー!」光っとるトコロと、薄暗~くなっとるトコロがあるっちゅーコトでしょ?

やっぱ全開で発光させにゃねぇ。

うん。

前に書いたけど、
自分の内側に輸入モノのルールを当てはめるのが「道徳」としたら、
「正義」ってソレを外側に使用する概念じゃないですか。

勧善懲悪、ての?
間違いを正すぅーみたいの、アレ快感ですよね一瞬は。
わかりやすく言えばヒーローアクション物やね。
「正義の振る舞い」てそーなる場合が少なくないし、
誰かを否定、批判する時に自分が正解側にいるよーな気がして、酒が旨くなる時もある。

でもその時に「懲罰」とか「刑罰」みたいなさ、そんな感覚出てきません?
「俺がぶん殴ってやるよ!」とか
「死ねばいい!」とか
「あんなんクソやんか!」とかね。


命の輝きの本質は「喜び」とか「幸せ」とか「愛」とかやから、
本当ぉ~にかなり意識的に否定、批判を心がけない限り、
そーゆー時って人って「偽悪的」な振る舞い、言動になっちゃうモンよ。

そーしてその「偽悪」にだんだん引っ張られていくパターンて往々にしてあるよ。

正義が「正しいモノ」だとしてもよ?
そしてその正義が、
「正義を犯すモノによって傷つけられてる」としてもよ?

そいつらを正義の名の元に傷つけ返してもやね、
傷は傷害では癒されんやんか。

死刑でもさ、無期懲役でもさ、
コレ同んなじコトなよーな気がするなぁ。

他人を何人も殺害した犯人を、
法的に首吊りや電気椅子で殺す。

コレどんなコトバを並べ立てたってトドのつまり「復讐」やん。

冷静に子供の頭で考えて、
コレで世の中「素晴らしく」なるのかね?
首吊りとか電気椅子とかで…。

…ココでこんなんワザワザ書いてるのは、
普段の暮らしの中で、いわゆる「良くないヤツ」を口汚く罵るってのは、
この死刑制度と同じ方程式なんやないやろか?ってコトを言いたいワケよ。

死刑制度は犯罪の抑止力になりうる、なんて言うけどさ、

じゃあ死刑制度導入してる国の犯罪率って、そーじゃない国に比べて低いのかね?

絶対ンなコト無いと思うわ。

自分の住む国のどっかで、首吊りやら電気椅子やらで死んでる人がおる。
そんなの聞いただけでも、知ってるだけでも、
まるで澄み渡る青空のような心境、とかにはならんもの。
「極悪人は殺されて当たり前じゃ!あ~ぁなんて麗しき、晴れ晴れとした死刑制度でしょう!」
とは思わん気がするけどなぁ。

後は見ないふりして無視するか、思考停止して誰かの、それこそ外側の権威にまかせるかぁーみたいなコトでしょ?
心の奥底に不愉快を感じながら、「人間って仕方ねーなぁ」っつってニヒルになってくモンじゃない?

他人に対する否定、批判とかも、
実際「素晴らしい」かなぁ。

それ「創造的」、かなぁ。

そーゆー態度を、子供に見せて
「うわぁ大人っていいなぁ」
って、ガキ達が思うかねぇ。

いかに正義が根拠でも、
誰がを罵って、懲罰してって、

コレ、ラブアンドピースなのかなぁ。

それ、ジョンレノン? ボブマーレー?



ここで大自然に話を戻すけど、
命のままに機能している個体が、命のままの暮らしの中で、
そのままだとうまいコト行かんよーな環境の変化に出会った時、

「順応」するやん?
「適応」でもいーわ。

「うまいコト行かん」コトを
「うまいコト行くよーにする」てコトやん。

コレ、道徳とか正義とかの大義名分に自分や周りを矯正して行くんじゃなくて、


「自分の命」発信の
自他を含めたクリエイトやんか。

いわゆる「進化」でしょ?



さらに、
道徳とか正義みたいな、ふわぁ~っとしたイデオロギーの話やなくて、
実際の事柄やら関係に対するアプローチでしょ?


正義とか道徳のような、
「みんながうなづいてくれるよーな根拠」、
「外側に置かれた権威」を元に価値判断して行動したって、

最初の踏ん張りどころが自分発信の足場じゃないんだもの。
他人に確認しながら、
「これか?」「え?こっち?」「どーすればハンコ貰えんの?」
みたいになってドンドンとワケわからんよーになってくんやなかろーか?

コレって親に褒められたり怒られたりしながら学習して行くっつー幼いやり方と同んなじな感じを受けるなぁ。


過去に集めた大事な体験はもちろん、

何よりその瞬間の「心のゆらぎ」を権威として


自分の感覚、思考、判断で、
周りを住みやすく創造する。

うまいコト行かんコトをうまいコト行くよーにする。

コレって「栄光」やで?読んで字のごとく、よ。


コレに「みんながうなづいてくれるよーな正義」とか、
ぶっちゃけいらん…っつーか、

それセンターに置いたら「逆さま」な感じ、するなぁ。


でも

そーしたら、
自分自身を「権威」にして創造しよーとしたら

「純粋な創造の場」に自分をさらすわな。

権威を外に置かず、自分の感性を元に自分の暮らしを生きる、て

コレってど偉いコトやと思うなぁ。

「え?わからん!全っ然わからん!正しいコトって…、するべきコトって……僕ぁなんにもわかっとらんかった!」
てトコロから始めるしか無いんやもの。


動物が感じる孤独の恐ろしいコトよ。


でもこれまたね、
「自分は無条件で愛されてる」
っつー認識が持てないと、
とてもとても恐ろしくて出来るモンやないですよ。

ここまで書いた「機能する」ってコトも「順応する」ってコトも、

やっぱ「愛」が基盤にある…っつーか、もう同じ意味やん。

愛して、
愛されて、
命のままに機能して
命のままに順応、適応して行く。

うん。




これが「自由」なんじゃん。




暴風雨の台風、
過ぎたらピカピカの晴れやねぇ。


今日はこの辺で。



皆さん御役目ごくろーさま