戸建て住宅が途切れた先には福祉施設があった。ここまで大掘割は完全に埋められている。
福祉施設を通り過ぎると
見覚えのある山門が現れた。
山武地方誌の写真に写っていたあの山門だ。(右上)
ということは、
隧道は福祉施設の真下あたりに埋まっているということになる。むむむ、残念。
山門の他にもう一つ、写真に写っているものが残っていた。
山門の横にある跨線橋がそれだ。
あいにく跨線橋の親柱の扁額は外されている。
完全に埋めたわけではなく、微妙に隙間が空いているので橋の下にもぐることはできた、が、まぁそれだけだ。
明治29年に蘇我~大網間が房総鉄道として開業した当時、土気から大網の区間は最大の難所だった。
20‰の急勾配と急カーブ、掘割と全長354mの土気隧道で攻略していたのだが、この土気隧道は断面狭小で機関車の排煙がまとわりつき、魔のトンネルとも呼ばれてようだ。
関東大震災や昭和25・26年の地震による破損及び老朽化の為、昭和27年から土気隧道を掘割化する工事が行われたが、全ての開削はできなかった。
中途半端に40mの隧道部分を残して工事は昭和29年に完了し、この区間は昭和47年に新土気トンネルが完成するまで利用されていた。山武地方誌に載っていたのは、この昭和29年から47年までの“深い掘割&ちょこっとだけ隧道“時代の写真だ。
続く
これからハイボールの季節なのでw