三島通庸をご存じだろうか。
おそらく、廃道マニアの方はほぼほぼよく知ってるとお答えになるだろう。
三島通庸は幕末から明治を生きた官僚だ。
東京都参事を務めた後、1874年に初代山形県令に着任した。
そして、1882年に第5代福島県令になり、翌年からは第3代栃木県令も兼任、最終的には第5代警視総監になった。
東京の銀座煉瓦街の建設を推進したのもこの人。
ちなみに、玄孫の一人は麻生太郎氏。
山形県令となり赴任すると
「東北の発展には道路の開鑿あるのみだ!」
と大号令を発し、時には住民の反対を押し切って土木工事を行い、農民に労役を強制したため、「鬼県令」とも呼ばれた。いまでも嫌っている人は多い。
しかしながら、三島通庸は経済における「物流の重要性」を認識し、先を見通していたともいえる。
山形県内だけでも23か所、有名どころでは会津三方道路や栗子隧道の開削、陸羽街道や塩原街道の改修等を行い、山形・福島・栃木の道路網の根幹を築いた。