こちらではお久しぶりです✨
普段のは投稿はこちらでしております。
先日は九州に出向いておりました。
今日は、感じたことがあったのでこちらに投稿しますね
最近、世間では拗れた男性性か表出しておりますが、これも流れなのだと思います。
こちらの投稿を読んで、ご自身の中での拗れが解ける方もいらっしゃるかと思い、引用させていただきます。
さとうシューちひろさんの投稿より
【女性性と男性性】
男性性と女性性が統合するとは、どういうことなのだろう? それについてのアシュタルの答えは、ある意味、驚くべきものだった。
「僕が君になるのさ。自分にないものを求めて、女が男を、男が女を愛するのではなくてね。今までは君たち、そうやってきたんだろ? 男は女ではなく、女は男ではない、と。そして、男は自分の中の女性性を抑圧して粗暴になり、女は自分の中の男性性を生きないで依存的になった。そうではなくて、女は自分の中に男性性を発見して、それと一つになり、男は自分の中に女性性を発見して、それと一つになるのさ」
心理学者のC・G・ユングは、男にも女にも男性性と女性性の両方があるのだということを言っている。そして、男性の中では、女性性が抑圧されていて、女性の中では、男性性が抑圧されているのだと。私たちは、子供の頃から、女の子は女らしく、男の子は男らしく、としつけられてきた。女の子は冒険ごっこやチャンバラごっこをしてはいけなくて、男の子は人形で遊んだりしてはいけないことになっていた。それでいつも、女は男を、男は女を必要として、依存的な関係を作ることになっていたわけなのだ。それで、たがいに期待に答えてくれない相手を責めたり、傷ついたり、傷つけたりしていた。
だけど、男も女も男性性と女性性の両方を持ったら、どちらも同じようになって、たがいに求め合わなくなるように思える。でも、そういうことではないのだとアシュタルはいう。
「今にわかるよ。いいかい、君は僕、僕は君なんだ。そう思ってごらん」
すると、私の中で不思議な感覚が起こる。私がアシュタルになるというのではなく、アシュタルが私になるのでもなかった。そうではなくて、私の中で、私とアシュタルが交わり合っていた。まるで、背骨のまわりに、二匹の蛇がクルクルと巻きつきあって交わるようにだ。それはまるで、私の中で私の男性性と女性性とが愛し合い、まぐわっているかのようだった。
それは、求め合うというよりは、満たされる感覚だった。三次元で触れ合うときのような、自分と相手との境を感じてそれにいらだつ感覚ではなく、たがいに境を開き合って、一つになり、満たされる感覚だった。それは、完全に愛し、完全に愛される感覚だと言ってもいい。自分を愛するとは、つまりこうしたことだったのだろうか? 自分の内なる男性性と女性性とが愛し合うこと? しかし、こんな風に自分の中で満たされてしまったら、もう人を必要としなくなってしまうのではないのかと、そこに何だか罪深いような感覚があった。こんな風に自分だけで完結してしまってはいけないのじゃないかと。しかし、その罪深い感覚こそは、植えつけられていた封じ込めだったのかもしれない。
するとそのとき、男と女が愛し合い、傷つけ合っている姿が意識のイメージの中に現れた。たがいに相手が自分の求めているものを与えてくれないと言って、責めていた。女は男性性が足りないので、欠如を感じていて、男は女性性が足りないので、飢えていた。どちらも欠如感の塊のようになって、ガツガツと求めようとしていた。
私たちは、こんなものを今まで女性性とか男性性とか思っていたのだろうか? 欠如感でガツガツしているような状態を? そして、その状態で求め合うことを、私たちは愛とか恋愛とか呼んでいたのだ。自分に足りないものを与えてくれるからと、相手に依存することをだ。そして、それが十分に与えられないので、愛されないと感じて傷つき、傷つけ合っていたのだ。
自分の中で女性性と男性性が交わり合い満たされるのを感じたとき、それまで愛と思っていたものが、禁断症状のようなものにしか見えなくなっていた。我を忘れて誰かに夢中になったりしたのも、渇き切って余裕がない状態だったからだったのだ。それで、傷ついて死にたくなったり、独占しようとしてやきもちを焼いたり、失う不安にさいなまれたりしていた。私たちはこれまで、こんなものを愛とか恋愛とか呼んでいたのだ。
200年ほど前から、産業資本主義が世界中に広がっていくに連れて、私たちは男でも女でもなく、労働力や消費者として、お金で測ることができるようなものにされていったのだと思う。その一方で、女は女らしく、男は男らしく、と作られた女性性、男性性を押しつけられていったのだけれど、それは結局のところ、大量生産される商品を次々と買うように駆り立てられるようなことにすぎなかった。女であることや男であることが、どんなものを消費して、どんなものを持っているかということで測られるかのような思い込みを植えつけられていったのだ。そうすることで、私たちは絶えず欠如感をかき立てられ、ますますお金に依存するようにさせられていったようなところがある。
アシュタルとこの会話をしていたのは、8年くらい前のことだったけれど、彼が示したものの意味がはっきりとわかるようになったのは、最近のことだ。3年前に奇妙なパンデミックが始まってから、この三次元世界の表層でどれだけの嘘がつかれていたのかが、表に出てきた。それまでは地球の人類が本質的に愚かなせいで、世界がこれほどにおかしいのだろうと思っていたのだけれど、それが実のところは、騙され、操作されていたからにすぎなかったことが、わかってきたのだ。私たちがそれぞれ目の前の利害ばかりを追って、世界がおかしな方向へ向かっていくのを止めることができないでいるのは、まさしくそのようにあらゆる手を使って仕向けられてきたからだった。
だからこそアシュタルは、私たち地球の人間が、本当はもっと大きな存在なのだということを示そうとしていたのだと思う。そうでなかったら、私たちは、欠如感のあまり、たがいに争い合って、世界を壊してしまうだろうから。私たちは、この200年ほどの間、金融グローバリストたちによって、本来よりもずっと小さな無力な存在だと思わされてきた。男性は男性、女性は女性の役柄を演じていなければ、生きていけないように思わされ、本来持っている能力のごく一部だけを使うようにされてきたのだ。そのために、つねに欠如意識にさいなまれ、依存的になって、たがいに傷つけ合ってきた。
自分の魂の片割れがどこかにいるという幻想を持たされて、それで自分の本当の大きさの半分しか生きないようにされてきたのだ。自分に欠けたものは、その誰かが埋めるという風に思わされてきた。それがパートナー関係というものなのだと。しかし、自分には何かが欠けているという意識を持っていたら、やはり依存的な関係しか作ることができない。私たちの意識が現実を作っているからだ。欠如意識から関係を作れば、何かが欠けているという感覚をやはり持ち続けることになる。
実のところ、自分自身を完全に愛して、完全に理解することができるのは、自分だけなのだ。自分の内なる男性性、内なる女性性を生きることにしてみると、それこそが自分の魂の片割れだったということがわかる。そして、その片割れこそが、自分自身を完全に愛して理解し、支えてくれるのだ。その感覚を持てたとき、愛され理解され支えられる関係を、現実にも引き寄せ始めることになる。
二年前から、意識によって現実を変えるセミナーを自分でやるようになってから、人間関係の問題というものが、いかにその人に植えつけられた欠如意識によって起こっているかが、リアルな手応えでわかるようになった。欠如意識を消すためには、私たちが本来持っている大きさを思い出せばいいのだ。それまで生きてこなかった自分の部分、それまで使ってこなかった能力に自分を開いてみることで、欠如意識は自ずと消えていく。
女性が内なる男性性を解放してみると、男性的になるんじゃないかと思うけれど、これが現実には逆なのだ。男性性を解放すると、女性はグッと女性的になって、艶っぽい感じになったりする。男性の場合は、内なる女性性を解放すると、やはり同様のことが起こる。今までになく男性的になって、男の色気を発し始めるのだ。これは、逆説的に思えるけれど、やってみると本当にそうなのがわかる。内なる男性性が生き始めると、その男性性に支えられて、女性はもっと女性でいることができるようになるのだ。
「アシュタル、ツインソウルって何なの?」とあの頃、私は聞いてみたことがある。すると彼は、「僕が君のツインソウルじゃないか!」とさも当たり前のように言ったのだ。彼が、三次元的な所有の概念で言っているのではないのはわかる。すると、彼は言った。「誰だってツインソウルになり得るのさ。君にはわかるだろ?」
彼が伝えようとしている意味が、じわじわと身体に染み込むように入ってきた。彼が言っているのは、意識を向け合っている人間が、たがいの魂の中に入り込んで、一つになることができるということなのだ。今この瞬間に、私はアシュタルと意識を重ね合わせている。私はアシュタルになり、アシュタルは私になる。それで私は、私が生きていなかった意識の領域を満たすことができる。
アシュタルの心臓に火が灯っているのが見える。彼はその火を、愛おしそうに手の上にのせている。それは彼の愛なのだろうか? すると、アシュタルが言う。「君の愛さ。君のことを完全に愛して完全に理解している人は誰? 君だろ? 君の人生、君の世界への愛だろ?」
私たちは、自分は自分で、他人は他人で、たがいに完全にわかり合うことなどできないし、意識を一つにすることなどもできないのだと思ってきた。だけど、アシュタルの次元では、自分と他人というものは、そんな風にはっきりと分かれているようなものではないのだ。これは、チャネリングやリーディングをやってみたことがある人は、わかるんじゃないかと思う。意識の領域では、誰でも他の人の意識の中に入り込んで、その感情や情報を共有することができる。遠隔で愛の念を送り合うこともできる。これは、やってみたことがある人は、リアルに会うよりも、ずっと深い交流ができるのを知っていると思う。
ある魂に深くアクセスするとき、それはまるで、まぐわっているような感覚でさえあるのだけれど、それによって、たがいの感情だけではなくて、能力や経験まで共有することができるのだ。それは、三次元の領域で「理解する」と言っているようなことよりも、遥かに深い交流だ。それは、自分自身がより柔らかくなって開いていくような、使っていなかった領域が活性化されるような、そんな感じのことだ。それがまさに、「自分の魂の片割れに出会う」というようなことなのだ。意識の領域では、私たちはすべての魂と繋がっていて、そこにははっきりとした境界はない。すべてが自分の魂であるとも言える。だから、誰もが自分の魂の一部であると言うこともできるわけなのだ。
私たちがこれまで普通に生きてきた次元は4次元までで、これは直線的な時間軸の次元だ。次元というのは、現実を測るものさしの数のようなものだから、5次元になると、ここに時間軸がもう一本増えて、平面的になるのだ。6次元になると、時間軸が3本になって、空間的になる。これが、時間を自在に行き来でき、過去や未来を変えてくることができる次元だ。
これがさらに7次元になると、空間的になった時間の世界が、直線的に並ぶのだ。すべての時間を含む世界も、人それぞれによって違う。そのヴァリエーションが一本の軸上に並ぶのが、7次元の意識世界だ。8次元になると、軸がもう一本増えて、平面的になり、9次元になると、軸が3本になって空間的になる。これはつまり、すべての魂と自在に深い交流をすることが可能になる次元だ。ここまで来ると、銀河の人々と時空を超えて、自在に交流することができる。だから、7次元以上が銀河世界の扉だということになる。
かつて私が、地球が嫌になって9次元まで逃げていこうとしたとき、宇宙の真ん中で絶望的な孤独感を感じたのは、欠如意識から9次元に飛んでいこうとしたからだったのだろう。9次元は、銀河のすべての魂と自在に交わることができる次元なのだから、そこは孤独というものも存在しなければ、欠如というものもあり得ない世界なのだ。
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画像は、2009年8月にオランダにできたクロップ・サークル