聖霊で油そそがれたクリスチャンと大群衆の長老の立場 | ヨハネのブログ

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 聖霊で油そそがれたクリスチャンたちと大群衆の長老兄弟の立場はどのようなものでしょうか。エホバの証人の統治体の兄弟たちは、聖霊で油そそがれたクリスチャンたちで構成されています。


  エホバの証人の統治体は、大群衆の長老たちに、自分たちと同じ権威を与えているように思います。しかし、聖霊で油そそがれた者と、大群衆の長老たちの立場は聖書的に同じでしょうか。

 天的な希望を持つクリスチャンと地的な希望を持つクリスチャンについて同時に言及している聖書の記述の一つは、羊とやぎのたとえ話です。そこで、イエスは、「すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。」(マタイ25:32)そして、羊には、「永遠の命」が与えられます。やぎは、「永遠の切断」に入ります。(マタイ25:46)


  羊とやぎに分ける基準になるのは、「わたし(イエス)の兄弟のうち最も小さな者の一人」に実際的な援助をしたかどうかということです。(マタイ25:46)イエスの兄弟とは誰の事でしょうか。イエスは、ご自分の肉親の兄弟ではなく、「自分の弟子たち」を指して、「わたしの母とわたしの兄弟たちです。」と言われたことがありました。(マタイ12:48,49)




 

  一世紀には、イエスの弟子たちのすべてに王国の目標が掲げられていました。(マタイ11:12)それで、天の王国の希望に召されたイエスの「弟子たち」は、イエスの「兄弟」と言うことができました。ですから、地的な希望を持つクリスチャンは、永遠の命を与えられるために、天的な希望を持つクリスチャンを愛をもって支援をすることが求められています。

 それで、この聖句からすると、天的な希望を持つクリスチャンに対して絶対的な盲従を要求してはいません。しかし、地的な希望の長老たちは、天的な希望のクリスチャンたちに、愛ある協力をすることが求められているでしょう。それは、イエスになされたものとみなされます。




Alex LomasBy: Alex Lomas     Sheep vs Goat
イエスは羊かヤギかはイエスの兄弟に実際的な援助をするかどうかで決まると言われました―大群衆の長老は油そそがれたクリスチャンに愛ある協力を行うことができます


 さらに、天的な希望を持つクリスチャンと他のクリスチャンのかかわりを述べているのは、啓示の書です。そこでは、「聖なる都市エルサレム」があり、このエルサレムは、「子羊の妻である花嫁」です。(啓示21:9)ですから、このエルサレムの成員は、子羊キリストと将来結ばれることになっているキリストの体の会衆で、天的な希望を持つクリスチャンを表しています。(エフェソス5:23。コロサイ1:18)

 その都市は神と子羊の栄光によって照らされ、「諸国民」はその光によって歩みます。(啓示21:10)そして、その光によって歩む「諸国民」とは、地的な希望を持つクリスチャンを表していて、その中には、地的な希望の長老たちも含まれているでしょう。(ゼカリヤ8:23)このエルサレムに「地の王たち」もかかわりますから、新しいエルサレムは、この事物の体制が存続している間に、存在しはじめます。(啓示21:24)






 

 



 ですから、天的な希望を持つクリスチャンは、「光」つまり、霊的な啓発を諸国民に与えます。


 このことは、「忠実で思慮深い奴隷」が、「召使い」、また「従者団」に霊的な「食物」、「食糧」を分け与えることとも調和しています。
(マタイ24:45。ルカ12:42)

 最近、忠実で思慮深い奴隷は、エホバの証人の統治体であるという解釈がものみの塔に掲載されました。(ものみの塔20137/15  22p10節)また、その解釈によると、統治体の兄弟たちが有能であるがゆえに、任命され忠実な思慮深い奴隷とされました。(ものみの塔20137/15 23p12節)

 しかし、聖書を検討すると、エホバ神が「家令」を任命するに当たって、一番重要視されるのは、「忠実であること」であり、能力ではありません。(ルカ12:42。コリント第一4:2)それで、忠実で思慮深い奴隷とは、一世紀から今日に至るまで選ばれてきている、クリスチャンの女性を含め、さまざまな能力でなる天的希望を持つ十四万四千人のクリスチャンです。(ガラテア3:28。啓示14:1)  

 当然、天的な希望を持つ者たちの言うことと地的な希望を持つ長老たちの言うこととが相反する場合は、天的な希望を持つ者たちに協力したり従ったりするのがおおむね妥当であると言えます。



 聖書は、「諸国のあらゆる言語から来た十人の者」が「内面のユダヤ人」、すなわち天的な希望を持つクリスチャンに従っていくことが正しいことを示唆しています。
(ゼカリヤ8:23。ローマ2:28,29)


 実際、地的な希望の長老たちが、皆聖霊で油そそがれたクリスチャンたちの聖書に基づく教えに敬意を払っているとは限りません。天的な希望を持つクリスチャンたちの聖書に基づく教えに従っていないことがあるでしょう。その場合は、会衆の成員は、大群衆の長老ではなく天的な希望を持つクリスチャンたちが聖書から教えることに従順さを示すのが正しいと言えます。

 しかしながら、天的希望を持っているクリスチャンの教えが、万が一、聖書と調和していなかったらどうするべきでしょうか。預言者ナタンは、「油そそがれた者」であったダビデが、姦淫と殺人を行なった時、エホバから遣わされて、助言しました。(詩編18:50。サムエル第二12:9)ナタンは、ダビデではなく、エホバに従いました。




 English: The Prophet Nathan rebukes King David
預言者ナタンはダビデが神の律法に違反したときエホバ神に従いました―エホバの証人の統治体などの油そそがれたクリスチャンが万が一神に不忠実になるなら神に従うのが正しいです






 ですから、地的な希望のクリスチャンは、油そそがれたクリスチャンたちに対する従順よりもエホバ神とその律法に対する従順を優先するべきです。

 聖書は使徒たちの「自分たちの支配者として、人間ではなく、神に従わねばなりません。」という言葉を載せています。(使徒5:29)ですから、第一に従うべきなのは、聖書に載せられたエホバ神の教えです。油そそがれたクリスチャンたちと言えども、もし、聖書に不忠実になっていれば、彼らに従うべきではありません。


 それで、通常は地的な希望の長老たちは、天的な希望のクリスチャンたちに従い協力するのが妥当です。ですから、エホバの証人の長老たちは、エホバの証人の統治体の教えに敬意を払うのが通常妥当です。


 また、クリスチャンは、大群衆の長老たちに対する従順よりも、天的な希望のクリスチャンたちに対する従順と協力を優先するのが大抵の場合、妥当です。

 しかし、もし、聖霊で油そそがれたクリスチャンたちの言うことが聖書に従っていない場合は、聖書を通して示されているエホバ神とキリストの教えに従うのが正しいです。ですから、エホバの証人の会衆の長老たちは、もし、統治体の兄弟たちの教えが聖書に調和していないならば、統治体の教えに従うのではなく聖書に忠実さを示すのが正しいです。