話題の話題にいろいろおもったこと | ゆらゆらダイアリ

ゆらゆらダイアリ

あたまと性格とウツをこじらせた一人暮らし女子のダメダメな日々。



ぴのさんとこの裏庭を拡張して、青薔薇園を造った。
あそびにきてねー。


青いバラがあるなら、青い桜もあってもいいのに。
真っ青、じゃなくて、淡い色合いの青桜。






ネットでいろいろ拾い読みをして、いろいろギモンにかんじることがあったけど、そのこたえがじぶんではわからない。

たとえば乙武さんの話。
不倫の是非とか、障害者の性とか、そんなテーマで議論されてるのもいろいろ見たけど。
(わたしもシーサーのほうに、夫側の性欲についていろいろ書いたし)

あれからも、わたしがあの方の報道されてるいろいろな事実を知って、かんじたことは。
マイノリティの人権をあの方独自の論法で(ブラックなジョークに仕立てたり)、マジョリティととてもフラットなものだと主張してきて、わたしはそれにいろいろ共感することが多かった。
だけど、実際の彼は、マジョリティの人権や人格はどうおもってるんだろう、っていうギモンが湧いた。
今回の騒動で。

他者のサポートを必要とする障害者が、障害のない人と同等の自由な行動を可能なものにするとき。
サポートすることで奪われる他者の自由について、彼はどう解釈しているんだろう。

配偶者がじぶんの望みとちがうようになったことで、他の女性との不倫行動に走ったようなことを弁明してたけど。
3人も子どもを産んだ妻に、その子たちの物理的な世話すべてとじぶんに向ける「女」の顔の維持を求めることは、その妻の体力と精神力と自由をどれだけ奪ってしまうか、そのことに思いやりはなかったのかな。

物理的に妻を支えれない場合、精神的に子育ての多くを担う妻を支えることは障害のある夫にもできることだとおもうよね。

夫はなぜそこで、じぶんだけ子育ての現場から逃げてじぶんだけの癒しを得ようとかんがえたんだろう。
妻が育ててる子はじぶんの子どもでもあるのに。

妻が母親の顔になったというなら、じぶんは父親の顔にはならないの?
それはなぜ?

フシギ。

それと、あの騒動は。
わたしは夫婦間の貞操とか性の問題よりも、「家族介護の問題」としてかんがえる。

乙武さんは妻の負担を軽くするために、家事や子育てやじぶんの介護のヘルパーをどれだけ利用していたんだろ。
妻がつかれきっていた、っていう報道もされてる。
じぶんが不倫しているあいだ、家には妻と子どもが残されて。
その妻をサポートしてくれるだれかはいたの?

夫婦間で、妻が子どもの母親でしかなくなった、とか夫が言いだしたら。
だいたいは妻に「女」でいる余裕がなくなってる、ってことじゃないのー、って未婚のわたしはおもう。
それと、夫のほうに「男」をかんじないなにかがあるんじゃないのー、って。

子育ても家事も妻ばかり負担かけて、それに平然としてる夫がいたら、そんな夫に愛情なんてなくなるよね。
妻が夫婦のえっちの相手もしなくなったら、それはそんなことする元気がなくなってる、っていう想像はしないのかな。
妻はじぶんの相手ができないほどつかれてる、っておもわないの?

妻が女らしい身だしなみもしなくなったら、オシャレしたりお化粧する元気もヒマもないのでは?って想像はしないの?
ほしい洋服をゆっくり選ぶ時間も自由もお金の余裕もいまの妻にはないのかな、とはおもったりしないの?

妻が夫に冷淡になっていったとしたら、それは妻のせいだけじゃない、とはかんがえないの?
じぶんになにか原因がないかとはかんがえないの?

妻の態度の変化は、妻のSOSかもしれない。
そんな想像もしないで、家庭外にさっさと癒しを見つけに出かけちゃう夫は、なんのために妻をもち、その妻にじぶんの子を産ませたんだろう。

家族介護を、「あたりまえ」の義務、としてかんがえたら、介護する側になった家族はカンタンに潰れちゃう。
常時他者のサポートを必要とする乙武さんなら、ものごころついた頃から、じぶんの周りには常にじぶんをサポートするだれかがいて、その姿を絶えず見てきてるはず。
じぶんにかまってるあいだ、その人はその人の好きなことはなにもできない。

常時だれかの介護を必要とする障害者が結婚するとき。
妻はヘルパーではない、ということをかんがえたりするのかな。
さいしょから配偶者にじぶんのなにもかもを介護させることを当然とした結婚って、それが可能なのは、配偶者に愛があるから、じゃないの?

愛があるからじぶんの多くの自由を犠牲にしても、結婚相手をささえようとする。
その愛に、サポートされる側も愛でこたえてる?

家族介護を一方的な愛情や義理だけでやらせる形態は、その家族になにもしあわせをもたらさない。
そのことをちゃんとかんがえてる?

乙武さんの年収がどれだけかはわかんないけど。
わたしは、彼が結婚するからには、物理的にいろんなことができないじぶんに代わって、それをやってくれる専門のヘルパーを雇って、妻だけに負担させない結婚生活を築いてるんだとおもってた。
子どもが3人もいるけど、キッズシッターとかいるんだとおもってた。
家事のヘルパーもいるんだとおもってた。
女性ではいろいろ体力的にタイヘンだとおもうから、乙武さんのいろいろな介護は私生活でも常時ヘルパーがつきっきりなんだとおもってた。

そんなことが可能でない場合、なにが可能にできない問題点か、そこを彼が「障害者問題」としていろいろかんがえて世間に訴えていけばいいのに、ともおもう。
妻を有責にした不倫の言い訳なんかより。

必要なだけヘルパーを雇うにはこれだけの財力がなければムリ、とか。
その助成をどんなふうに福祉の制度化するべきか、とか。
家族の介護がない障害者はどれだけ不自由な生活を強いられるか、とか。
常時要介護の障害者がいる家族は、どれだけの自由が制限されている、とか。

もし、選挙にでることを諦めてないなら。
障害者と暮らす家族に必要なこと、現実に足りてないこと、それをじぶんの家庭の中から実体験としていろいろ問題点を拾いだして、それでほんとうに障害者と健常者がフラットに生きれる社会を実現させていってほしい。

つかれきった妻は、なぜつかれきったのか。
その原因を、彼が介護の現場からかんがえて、家族介護でつぶれない家庭のつくりかた、を具現化してほしい。

国は介護を家族に押し付けていきたいのだから、それに反発して「家族だれもがしあわせに生きれる家庭のありかた」を国に訴えてってほしいよね。





も、ひとつ。
ライターひとりvs.ライターふたり、のいろいろな揉め事のツイッターのまとめとか見て。

あるコトバが、特定のライターの造語、っていうのはわたしは知らなかった。
その方の著書を読んでないし、あまりキョーミなかったし。
だけど、そんな本を知らなくても、そのコトバはつかってたし、出版界とぜんぜん縁がなくてそういう本もぜんぜ読まないわたしの友だちのあいだでも、そのコトバはフツーに会話に出てくる。

ありふれた語彙をふたつあわせたこのコトバは、それを著書で広めたライターのもの、なの?

そこにギモンをかんじた。
だれか答え教えて。


だれかがつくった造語だとして。
その造語は、第三者はどう扱っていいの?
造語の定義は、第三者が勝手に自由な解釈をしたらいけないの?
著作権みたいなの、あるの?

よくわかんないよねー。

流行語をいろんな人がどんどん自由な解釈でつかっていく風潮がある。
それにのっとって、件のコトバもいろんな人が勝手な解釈でつかう、っていうのはダメなのか問題ないのか、明確な答えは、当事者同士の主張やいろんな人たちのコメントからはわかりづらかった。


同業の人に聞いてみたけど、あれはその人の造語というより、それを世間に広めた、っていうのが正解じゃない?って言ってたし。
似たような言い回しは、そのまえからいろいろあるんだし、って。

自作の造語の取り扱いにいろいろクレームつけていたその人のペンネームも、ある有名な著書のタイトルからとったものだし。
そのライターのオリジナルじゃないし、その拝借した著書のイメージとじぶんがぜんぜんちがうキャラクター性なのは構わない、ってこと?

よくわかんないよねー。


造語の主側からいろいろ言われていたライターさんは、じぶんの著書のタイトルはじぶんではどうにもならなかった出版界のオトナの事情、みたいな言い訳をしていた。
それに対して、造語の主側は、著者の責任を問いつづけてたけど。

ライターごときの自由にならない「オトナの事情」に悩んだ経験が、その造語主さんたちはぜんぜんないのかなー、っておもった。
編集者の意向を押し通されてしまうオトナの事情がある。
そこにクレームつけるなら、押し通されてしまった著者だけじゃなくて、押し通した編集部にも抗議するべきだとおもうんだよね。

なぜそれはやらないんだろう。
それがいろいろナゾだった。

編集部を交えた話にしようとしない著者のみへの抗議、のスタイルに、わたしはモヤモヤをかんじてた。

最終的には人格問題に脱線してて、なんか残念な議論だったよね。
造語の第三者使用とか、著作の責任の所在とか、いろいろ興味深いテーマでのこじれあい、だったのに。

あと。
ほんと、わたしにはナゾだったのは。
当事者の友だちは当事者ではない、のに、当事者の友だちも当事者と同等、みたいな代弁バトルになってたこと。

「コトバ」を生業としてる人たちなんだから、当事者と当事者だけでやればいいのに。
2対1は、1のほうのメンタル力が2倍いるよー。
2倍じゃ済まないかも。
4倍ぐらいいるよね。
仲間とタッグ組んでる複数相手に闘う、ってのは。