YESと言った相手はじぶんにNOと言う | ゆらゆらダイアリ

ゆらゆらダイアリ

あたまと性格とウツをこじらせた一人暮らし女子のダメダメな日々。









プラザをだいぶ土地拡張して、模様替えした。
プラザにはいったらすぐ「みんなの木」にクリックできる位置に「みんなの木」を移動させたし。
(いちいち画面ずらすのめんどくさかったんだよねー。ごめんなさいいい)


こんかいのイベは、ワールドはお助け専門。
メインクエストの7/9で洋服が上下もらえるから、お助けだけでだいじょーぶかも。
グラスハウスの建物じたいはあんまりいらないし。(ここまでクリアすると髪リボンももらえるんだけどねー)

ワールドはなにも手をつけないつもりだったけど、こんかい、久しぶりに洋服がかわいかったからねー。
服屋さんでつくれる洋服、もう少し増やしてほしい。
それかライフと連動させてほしい。

お助けは、ポイント稼ぎはぜんぜん関係ないので、ノーマルハプでもピグともさん優先に駆けつけてます。
むしろ、だれも来てくれないようなノーマル優先で駆けつけてるし。
ログインしてるときしかお助けリストに出ないけど、どんどんお助け呼んでねー。

ライフのイベは、工作でつくれるものがかわいすぎー。
こんなのつくれちゃうなんてしあわせ。
でも、前回の工作も紫だったから、こんかいのは色がちょっとちがってたらよかったよね。

のうひん報酬でほしいのがあったけど、ぜったいいつもそこまで辿りつかないランクだったから、のうひんはしないで工作したものぜんぶとっとくかも。


なーんて、日記の冒頭にいつもイベントのこととか書いてるけど。
イベントやってない人にはぜーんぜんわかんない話だし、ぜーんぜんだれからも反応がないから、イベやってる人がこのブログ見てる確率はゼロに近いのかも。






いつも読んでるブログでアメンバー限定記事がちょこちょこ出てきたけど。
申請していいのかすごい迷う。

わたしはいつもそう。
リアルもネットも人との交流は受け身なので、じぶんから積極的にからんでいくことがなかなかできない。

いまとなっては、まえの話だけど。
このブログ好き、とおもって読者登録したりブクマつけたりして、ツイッターでも相互してもらったりしたけど。
じぶんのタイムラインにじぶんへのエアdisが流れてきてびっくりした。
わたしの一言一言のツイートに、いちいち直後に辛辣な返しがされてて、その後、くだらないツイート見たくないからミュートする、って。

相互はずせばいいのにー、っておもったけど、たぶん、読者登録とかフォロワーの数は減らしたくなかった人みたい。
それなら黙ってミュートにすればいいのに、相当わたしのバカっぽいツイートにイライラしたんだとおもう。
(バカっぽいことをものすごいdisられてたから)

だから、わたしのほうからぜんぶ外した。
その人の書くものが好きだったし、別になにも会話すらしたことなかったから、ここまで嫌われたことにびっくりして、かなしくなった。


ほかにも。
一方的に読んでたアメーバブログで、アメンバーはいつでも申請して、みたいなこと書かれてたから。
わたしは「怪しくない人です」っていう意味で、ちゃんとじぶんのブログとかも載せてカンタンに自己紹介して、その人のブログのどういうところが好きかも感想書いて、それで申請した。
そしたら、なーんにも反応もなくて、申請も承認してもらえなかった。
かんぜんにスルーされたの。

もともとなんにもかかわってない人だったから、それでもいいんだけど。
だれでも申請してねー、っていうけど、その審査に漏れちゃったんだねー、っていう、ちょっとかなしい気持ちもあったのは事実。

じぶんから接していくと、相手にはいろいろ迷惑なのかもしれない。
そうおもうことが、ブログはじめてからたーくさんありすぎて、ネットではあっちから接してきてくれた人としかうまくからんでいけない。

リアルでも、いつも誘われるだけで、じぶんから誘わない。
お高くとまってるわけじゃなくて、じぶんから誘ったら、そのタイミングが迷惑かもしれない、とかいろいろかんがえちゃって、それでめんどくさくなるから。
(めんどくさがりの性格がわるいんだよね)

断られることがショック、というより、相手は誘ってこないときはべつにわたしと会いたいわけでもないかもしれない、っておもうと、相手が会いたいと思ってくれるときだけ会えばいいや、ってかんがえちゃう。

じぶんから積極的に行動しないと、じぶんにとってたのしいとおもえる人間関係だって発展しない、っていうのもわかっているんだけど。
これはもう、ちいさいときからの性格だよね。

さいきんになって、子どものころのじぶんをいろいろいまのじぶんが分析する。

家族みんながなんかたのしく暮らせてたころ(と、わたしにはおもえてた呑気な時代ねー)は、わたしはこころが自由だった。

なにもかんがえずに、その子どもの年のままのじぶんでいれて、そういうわたしをお父さんとお母さんがフツーに受けいれてくれてて。
弟が産まれたときも、お姉ちゃんになるんだからしっかりしろ、とはぜんぜん言われなかった。
だから、わたしは無邪気に弟の面倒みたりしてた。
ままごと感覚、みたいだけど。

弟のベビーベッドにわたしもはいりこんで、いっしょに並んで寝てる写真がある。
まだ赤ちゃんの弟を必死で抱えてる写真もある。

わたしや弟がどんなに手がかかっても、お父さんとお母さんはそれにぼやきながらも、いろいろしてくれる余裕があった時代、が我が家にはある。(わたしから見て、の視点にすぎないけど)

だけど、親が別々に住むようになって。
なにもかも、お母さんだけがタイヘンになって。
子育ても家計も、お父さんはなにもしなくなったどころか、お父さんのいろいろな不始末もお母さんに迷惑かかってて。

お母さんはタイヘンなんだ、って気づいたときから、わたしはお母さんに迷惑がかからないように振る舞うことに必死になったとおもう。
お母さんはいちども、子どものせいでわたしがタイヘン、とか言ったりしなかったのにね。

だからこそ、子ども時代のわたしは、お母さんに「そんなの親の勝手じゃん。自業自得じゃん」なんていう反発がぜんぜん湧かなくて、ほんとにお母さんはひとりきりでタイヘンなのかもしれない、っておもってた。

まえにもどこかで書いたかな。

いっとき、うちはものすっごいびんぼーだった。
子どもでもわかるぐらい、いろんなことが変わって、うちにはお金がなさすぎる、っていうの、あたまでなく肌で実感した時期がある。

まともなゴハンも食べれなくなってたから。

『エリン・ブロコビッチ』っていう映画で、エリンが仕事もお金もなくてものすごい困窮してたとき、外食するしかない場面になって、子どもたちだけ食べさせるシーンがある。
子どもがお母さんは注文しないのか気にすると、じぶんはもう職場で奢ってもらってご馳走食べてきちゃったの、ってウソつくの。
じぶんの分まで注文する余裕なんてなかったんだよね。
でも、それを子どもに悟られないように、笑顔でウソをつく。
そして、じぶんは空腹満たすために家で缶詰をそっと食べるの。

あの映画をわたしはだいぶ大きくなって見たとき、そのシーンで、じぶんのお母さんもこうだったのかもしれない、って泣きたくなった。
たぶんほんとうにものすごい困窮してたとき、お母さんと子どもたちの料理が違ってたことあるし。
弟は無邪気にいろいろ欲望を口にしてたから、ものすごいマックを食べたがってものすごい泣き喚いてたとき、マックでポテトとジュース買ってくれたことある。
お母さんはなにも買わなくて、食べないの?って、ポテトを分けようとしたら、お母さんはいまはいらない、って言ってて。

ほんとにいらなかったのかもしれないけど、もしかしたら、少しでも弟に食べさせてたくてじぶんは手をつけなかったのかも。
わたしもそのとき、弟がものすごい食べるから、じぶんはそんなにいらないふりして弟にだいたいあげたし。

弟は我儘というより、親がいろいろタイヘンなのに気づいてなかった。
だから、子どもらしい欲望を素直にだしてただけ。
でもその子どもらしい欲望が満たされたときの弟は機嫌よくて、そういうときはわたしも弟はかわいいとおもった。

親も、子どもがにこにこしてると、かわいいとおもうよね。きっと。
だから、どんなに苦労しても、親っていうのはじぶんを犠牲にしても子どものためにいろいろしてくれるんだとおもう。

子どものころの弟は、その時期の流行のオモチャをいろいろ欲しがった。
高いゲームとか。
わたしは、いまの家にはそんなの買う余裕がないのを悟ってたから、そんなものにぜーんぜんキョーミないふりをした。
いい子ぶりたがったわけじゃない。
欲しがるとお母さんが困るとおもったから。
お母さんは子どもにぜんぜん冷たくなかったから、子どもがいろいろ何か言うと「うるさい!」って怒鳴ってあとは無視しちゃうような親ではない。

お母さんが子どもがいるじぶんの友だちが遊びにきたとき、いまの子育てってじぶんたちが子どものころよりお金かかるねー、ってグチ言い合ってたの聞いたことがある。
ほんとのグチっていうより、笑い話みたいに話してたけど。
じぶんたちが子どもの時代にはこんな何万もするゲームなんて「みんな持ってなかった」から、お金持ちの子のオモチャとフツーの家のオモチャが違っててあたりまえだったんだって。

でも、わたしや弟の時代は、何千円何万円するゲームは「みんな持ってる」カテゴリに入る。
昔の子どもはケータイなんてなかったからケータイ代もかからなかった、って親世代の人がグチってたの、バイト先で聞いたことあるし。

だから、弟も「みんなだいたい持ってる」ゲームは、だいたい欲しがった。
お母さんも、「みんなと遊べるオモチャ」は持たせたかったんだとおもう。
何軒も中古のゲーム屋さんを見て歩いたことがある。
おなじゲーム機でも、いろいろ色ちがいや使用感のちがいがあって、それぞれに値段がちがう。

弟はじぶんのほしいものは「見た目」で決めてた。
わたしは、プライスカードの数字見てた。
箱がありません。取説がついてません。本体に使用感があります。ディスプレイに小さい瑕アリ。
きれいじゃないものほど安い。

弟が最新機種のきれいな物をほしがる。
わたしは、「これでいいじゃん」って、型落ちの箱と取説がない本体だけがラップに巻かれてるものを指す。
値段はぜんぜんちがう。

そんな汚いのはヤダ、それは古い、って弟は言う。
お母さんは、弟が欲しがってる機種ので、少し安い「難アリ」のほうを差して「これは?」って聞く。
弟は取説がないのはヤダって言う。
そんなもの読んだことないくせに、ってわたしは突っ込む。

これ、かわいいよ、って、わたしは型落ちのほうを推す。
弟がほしがってるのは、わたしもほしかったけど、それはいちばん高かった。
「これ、かわいいよ。これでもゲームできるじゃん」
って、弟がもってるゲームソフトはその型落ちで充分なのをわたしは主張する。

弟はぜったい譲らない。
お母さんはわたしに、「それはイヤなんだって」って言う。
弟がイヤなものをそんなに勧めないの、っていう意味で。
わたしはお母さんのコトバを、そう解釈する。

コッチノホウガ安イノニ。
お母さんのために型落ちを推してたつもりだったけど、お母さんに意地悪みたいに窘められて、わたしは黙る。

弟はほしいものを買ってもらう。
ものすごい無邪気によろこんで、中古だけど持ってなかったゲームソフトもいっしょに買ってもらう。
わたしもそのゲームをしたかったけど、わたしはキョーミないふりをする。

わたしはゲームなんて要らない。

そういうふりをすると、お母さんに迷惑がかからないんじゃないか、って、そのときのわたしはおもってた。

わたしが、あたまは悪いのに家の経済状況とかいろいろ気づいてしまったのは。
いろいろそういう、びんぼーな子どもの話とか、孤児の話とか、そういう本をいろいろ読んでいたせいかもしれない。
世の中には「お金がない家がある」「びんぼーは苦しい」っていう事態があるのを知ったのは、紛れもなく、本の中、でだったから。


お母さんの知り合いが、うちがびんぼーだからって、わたしと弟にゲーム機をクリスマスにプレゼントしてくれたことある。
(これもどこかで書いたかも)

贈られてきた包みを開けて出てきたのは、子どもでもびっくりするほど使用感がありすぎた中古品だった。
これで遊んでたのしいクリスマスとお正月を、みたいなメッセージがついてた。

弟は、あんまりにすごい状態(ほんとにショップでもあまり見かけないぐらいすごい使用感あったの)のゲーム機を「要らない」って言った。

わたしも、こんな汚いのイヤだったけど、わたしたちのためにくれたのだから、それは感謝しなくちゃいけないんだとおもった。
だから、ものすごいうれしがった。
くれた人にわるいとおもったから。

そしたら、お母さんが「びんぼーはイヤね」って言った。
びんぼーだから、同情されて、「この古いヤツでいいだろう」とおもわれたんだって。
お金がある人なのにねー、って言ってて。

お母さんはそのゲーム機をどこかに隠しちゃった。

わたしは、子どもごころに、びんぼーしてるじぶんたちに蔑みを潜在させてたのかー、っていうのを悟った。
いまのわたしは、あれがお母さんのプライドだったんだと理解する。
あのボロボロに汚いゲーム機を「感謝しなさい」と子どもたちに使わせる気はなかったんだとおもう。

プライドについてはいろいろ人によってかんがえはあるとおもうから、こういうのを「なにさま」とおもう人もいるかもしれないけど。
どんなに貧しくても、バカにされたような施しを受けるぐらいなら困窮したままでいい、っていうプライドは、いまのわたしにもあるからねー。

被災地にものすごい汚い古着を送ったり、家のゴミみたいな不用品を送りつけるようなもの。
そういう施しを善意でしてくれる人もいる。

子どものころのわたしは、そういうプライドがなかった。
だから、ものすごい蔑んだ施しの贈り物をされても、その贈り主の善意に感謝するべき、っておもってた。

それで、そのものすごい汚いゲーム機をもらって、うれしがった。
それが本心からではないのに、この場合はうれしがることが「礼儀」だとおもってた。
お母さんは、そのゲーム機を拒絶した弟の自然な反応を尊重した。

家族と別れてひとり暮らしをはじめたとき。
その直前のお母さんとのゴタゴタで、そういう過去をいろいろひっくるめて、わたしは子どもらしいかわいらしさがなかった、と言われた。
弟は子どもっぽいかわいらしさがあったけど、わたしはいろいろオトナに辛辣な目を向けていて育てにくかった、って。

お母さんの迷惑にならないように。
少しでもお母さんが困らないように。
って、かんがえてた子どものころのわたしは、結局、そういうもので親をイライラさせてただけだった。

なにも実際に手助けできるオトナでないのに、オトナを理解したふりをして子どもらしさを失う。
親からみれば、子どもらしい可愛げはないのに、オトナのような協力を期待できるどころか子どものままに世話する手がかかるだけ。

可愛げのない子どもを育てることと、可愛い子どもを育てることと、親のストレスはちがうよね。

じぶんが良かれとおもってとった行動は、結果的には相手にはぜんぜんよくないものだった。
っていうことをじぶんがやりがちなのだと、わたしもわかってきた。

じぶんの独りよがりを自覚せざる得ない場面に出くわすたびに、そこから学ぶ力が弱すぎて、わたしは臆病になる。
無自覚な被害者意識に浸ってるだけかもしれない。

じぶんから積極的に人に接していこうといないいまのわたしは、じぶんの相手への好意は、相手にとっては迷惑なのかもしれない、という怯えがあるせいだとおもう。


人から好かれたい、という欲望はない。
好き、という感情を人から向けられると、戸惑うことのほうがおおい。

好き、という感情は「関心」の部類でもつよいものだから。
つよい感情を向けられるのが、わたしは苦手。

だけど、じぶんが好きだと思う人から、迷惑だとおもわれると、うろたえる。
嫌われるより、迷惑、っておもわれるほうが、相手の善性になにかつけこんだ気がして、ものすごい疚しい感情に襲われる。
ごめんなさい、って、うろたえながらおもう。

こういうのも、コミュ障、っていうの?

わたしにやさしくしてくれる人たちを見ると、なんでこんなに自然体でやさしくできるんだろう、っておもう。
じぶんがだれかにそういうことができるか、っていうと、わたしにはとてもできないから。

人に自然に親切にできる、という感覚がわたしにはない。

だから、わたしから、その相手のためを思いやったつもりでとる行動は、どこかしら相手には押し付けがましいものになったりするんだとおもう。
その反応として、反発、とか、拒絶、とかされる。

あー、ごめんなさいいいい。

っておもうだけなのは、ただの被害者面でしかないよねー。

っていうのもわかってるんだけど。

そういうことでじぶんの非を突いていろいろと悩むのにめんどくさくなって、わたしは、じぶんからなるべく人に積極的な行動をとらない、という選択をとってしまう。

人と人の関係は、誤解されたときにその誤解を解く、という根気も必要。
その根気を「誠実」とも言う。

わたしには、その誠実性がない。

その誠実性をどうやってじぶんの中に養っていくのか、その方法もわかんない。

そういうコミュニケーションを円滑にする方法がわかんない人が宗教に走るのかもね。
とにかくなんでも神に感謝していればいいんだもん。
どんな結果となったとしても、それは神のみぞ知り、すべては神のご加護である。アーメン。










じぶんの正義の貫き方をみせるこのMV好き。

じぶんの正義に、イエスと言ってくれるのが神なのだとおもう。