エイリアンエイリアン | ゆらゆらダイアリ

ゆらゆらダイアリ

あたまと性格とウツをこじらせた一人暮らし女子のダメダメな日々。

このまえ、アメーバがいろいろエイプリルフール仕様になったとき、わたしのぱそこんでワールドが見れなくなっちゃって。
つまんないから、はじめてピグブレイブにログインしてみた。

これはRPGだけど、ぜんぜんやり方わかんないよー。
(;_;)

っていうか。
ナントカの国が闇のナントカの復活を怖れてて、それと闘える人がひとりいて。
それが、おれ、らしい。

そのナントカ姫から突然指名されるのです。





それで、その姫の腰巾着(←失礼な言い方)なかんじのイケメンと一緒に、ナントカと闘うらしいんだけど。

そのイケメンがすごい威張るー。

それに、わたしが一生懸命闘ってるときは見てるだけなのに、ぜんぜん相手を倒せないでいると、じぶんのなんかすごい武器をつかって、それで一撃で倒してくれちゃうのね。

じぶんで倒せるなら、わたしを働かせるなー。

っていうかんじのゲームでした。








さっき、二度目にログインしたら、なんかお仲間をがちゃで増やせて、こんな巨乳美人がお仲間になった。

威張るイケメンと巨乳と一緒に闘え、なんて、なんかイジメられてるきぶんだよねー。





お姫様と威張るイケメンはきらきらした宮殿にいるのに、なんかすごい勇者らしいわたしんちは、こんなに質素だし。


また気が向いたら3回目のログインしてみるかもしれないけど、気が向く気配がないので、わたしは無心で作物毟ってたり住人のあたま叩いておなやみ解決してるほうが合ってる。
いろいろ闘うのはめんどくさいので、世界はだれかが救っててください。






昼間にスーパーに買い物にいったら、かつおのたたきがずらずらずらーって並んでて。
食べたいなー、っておもったけど、割引シールが貼られてないパックはわたしには贅沢品だった。
やっぱりお刺身買うなら夕方じゃなくちゃねー。
って、そこから離れようとしたら、ずらずら並んでるパックのいちばん隅っこに、スライスしたさくの尻尾のぶぶんだけ集めたパックが1つだけあった。

それだけものすっごい安いの。

わたし、「たたき」はお魚のもお肉のも、尻尾のぶぶんがいちばん好きなんだよねー。

(尻尾、っていうのは、ほんとの「尾」じゃなくて、たたきにした塊の端っこぶぶんね)

わーい♡
って、その尻尾パックに飛びついて、買ってきた。
しあわせ。
(^_^)

レタスとお豆腐と千切りのいろいろ野菜(家に残ってたやついろいろ)とあえて、サラダにして食べた。
少しだけ残して、それはゴハンに乗せて、千切った海苔ふりかけて、プチかつお丼にした。
お豆腐は少しだけ赤だしのお味噌汁に。
これはふえるワカメもいれて。





このまえ、なんとなくネットうろうろしてるときに、幼稚園のお弁当の話題を見かけた。
冷凍食品と加工肉(ウィンナーやハムとか)をつかったらダメ、とかいうの。

加工肉をあまり子どもに食べさせるな、っていう理屈はわかるんだけど。
冷凍食品がダメなのは添加物とか気にしてるのか、ちゃんと手をかけた料理を作らせようとしてるのかはわかんない。

だけど、ああいうのが「園の掟」みたいにされるのは、どの家庭も「母親」が料理してる、っていう前提なんだろうなー、っておもう。
そして、その「母親」は料理ができて当たり前。
家族のために朝食やお弁当作りに時間かけれて当たり前。
っていう前提。

まえに、ちょくちょく読んでたブロガーさん(既婚男性)が、その方の妻と、コンビニのお弁当を学校のお弁当として持たせることに苦言みたいなこと発してて。
わたし、それに反発したことある。

どんな家庭も、母親がいると限らないし、どの母親もすべてが料理が得意とも限らないし、お弁当を手間暇かけて作れるとも限らない。

「家庭」なんてものすごい多様化してるのに、いつまでも「お母さん」が時間と手間かけて手作りするお弁当前提、のルールを強いるのは、それからはずれてしまう家庭の子どもを傷つけることでもあるよねー、っておもう。

子どものためをおもってのルール化なら。
その子どもの家庭の状況を個々に尊重できるような「幅広い」ルールが必要だとわたしはおもう。

あそこの家庭はお弁当に手をかけていない、ということを批判する人たちは、その家庭の子どもを傷つけてる加害的な自覚を持ちなさい、ともおもう。

ぜんぜん、子どものため、にはなってない。


少子化が問題になってる時代に、子どもを産んで育ててる親にもっと苦労を強いるようなルールって、だれにとって有益なんだろ。

子育てはカンペキじゃなくていいんじゃないの?
って、子どもを産む気もないわたしだけど、そうおもう。

虐待さえしなければ、家庭や親によって「やれること」はちがうのだから、そのちがいを尊重しあえる社会じゃないと、だれかが設けた基準に達しない親は追い詰められちゃう。
親を追い詰めることが、虐待にも繋がるんじゃないの?
とも、おもうし。

人が「しあわせ」を感じながら生きれるためには「余裕」が必要。

子育てを「しあわせ」と感じさせない社会で、子どもを産む人たちが増えるわけないじゃん。

わたしは「女だけど産まない」選択を取る自由を手放したくない。
「産める女が産まない」という少子化批判には、「女だからって子どもを産む責任を負わせる社会は女性差別」という意識をもって、これから死ぬまで反発していく。

そのわたしは、子どもを産んで育てる人たちに対して、ムダに自由を奪われないように、ともおもう。
社会からなにか窮屈なことを強いられたりしないように。

子どもがいる親は堂々とベビーカーで電車に乗っていい。
ベビーカーに子どもを乗せたまま、好きなときに。

エレベーターがないところでは、ベビーカーの階段の昇降は他人の助けを要求していい。
手助けできる身軽な人たちは、ベビーカーを一緒に運んであげればいい。

子どものいる親がカンペキでない場合、その親に必要なのは批判ではない、必要なのは親への理解とサポート。

親を追い詰めることは子どもの不幸に繋がる。
社会が親を排除するのは、その子どもも社会が排除することに等しい。


生涯ケッコンする気も子ども産む気もないわたしのかんがえはこう。


幼稚園のお弁当の話に戻るけど。
加工肉はいろいろ健康上の問題があるから、危険性だけ知識として広めていけばいいよね。
でも家庭でどんな料理をするかは、その家庭の自由だし。
お弁当なんて「毎日」の話なんだから、「毎日継続する」ことがいちばんだいじで、そのためには「ときには手を抜いて」っていう寛容性がないと、親が追い詰められちゃうとおもう。

タイヘンなときは手を抜いてもいいよ。
っていう寛容性は、子を持つ親だけじゃなくて、どんな人にもだいじなことで。

そういうゆるさがある環境でないと、ギチギチな暮らしはそのキツキツな型にはまりきれなくなった人たちを一瞬で「アウトサイダー」にしちゃう。

いろんなパターンがあっていいんだよ、という器の中で、人は多様的にのんびり生きれる。

親がしあわせだと、子どももしあわせになる。
子どものためをおもうなら、親からまずしあわせになれる社会じゃないと、ね。

子どもを産まない自由を手放す気のないわたしは、そのじぶんの自由のために、子どもを産む人たちが自由に生きれる社会であってほしい、と望む。

じぶんの自由のために、人の自由も守られる社会であってほしいとおもう。

少子化対策は、まず、カンペキでない親を責める方向に走らない、という軸を明確にしないと、子どもを持つことはとてもリスキーなことになっちゃう。

と、おもうのです。



わたしが日頃読んでる子どもを育てた女性が、子どもを作らない人たちをすごい批判してるからねー。
その批判は、家族は血縁のみで支えられる、という社会の絶望的な現実を知っての上の意見だとおもっているので(そういうようなこと書いてある)、「多様な人たちが共に支え合える社会」を築くことの必要性をかんがえちゃう。

血縁以外の「他者」同士で支えあえる社会の仕組みがあれば、その人もじぶんが子育てした経験をだいじにおもう価値観を損なうことなく、子育てしない他人への尊重も共存させれるとおもったから。








今夜、ラジオで、空港などでは「外国人」のことを「foreigner」と言う、という話をしてて。
だけど以前は違ってて、それはこの曲聞けばなんて言われていたかわかる、っていうなぞなぞなこと言ってたから、必死で歌詞を聞き取った。

"I'm an alien
I'm a legal alien"


これが聞き取れたので「エイリアンだー!」ってわかったよー。

あの映画のエイリアンのせいで「エイリアン」の意味がいろいろ悪くなったから、それでフォリナー、っていうのに変わったんだって。

たしかに、「エイリアン」っていうと、涎垂らした歯をグイーンと突きだしてくる黒いやつか、三つ目の緑のやつの印象が強いもんねー。