ワールドも葉桜。
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今夜のTHE HANGOUT(by J-WAVE)の宇野さんの番組、すごいよかった。
でも、宇野さん、あんなにはっきりいろいろ言って干されたりしないのかなー、ってハラハラしちゃう。
そんなこと心配になるぐらい、なんか「言いたいことが言えない」空気、あるもんねー。
カップラーメンのCMがクレーム殺到で中止になったとか。
じぶんが受け入れ難いものを「絶対正義」だとおもって、それで世直ししたがる人たちが群れると、ほんとに窮屈な世の中になるとおもう。
クレームいれた人たちのどれぐらいが、そのカップラーメンを日常的に愛用してる消費者、なんだろ。
今夜の宇野さんは、人格攻撃をしないで、意見そのものに批判を、と言ってた。
そして、炎上してるときは、その勢いには混ざらないこと、って。
群れをなすタイミングをずらして冷静な批判をする姿勢がだいじ、って。
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萩尾望都さんの寄生獣のスピンオフ。
やっと月刊アフタヌーンを見つけたけど。
グラビアがこわすぎて買えなかった('_')
なんかのコミックに収録されたら読もう。
月刊のコミック誌って、ものすごい厚すぎるしねー。
進撃の巨人も雑誌で連載追う気にならなかったのは、月刊誌のボリューム感のせい。
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さいきんネコブームみたいだけど。
コンビニで売られてるネコの写真集みたいな本。
ネコにいろんなことさせてるの。
ああいうネコいじりって、ほんとのネコ好きとはちがう層がやってる気がする。
子どもを虐待して殺したっていう残酷なニュースをいまさっき、また見たばかり。
プラスチックケースの中に幼児ふたりを「躾」と称して詰め込んで窒息死させた、っていうやつ。
ニンゲンを箱に詰める、という感覚は、命をモノ扱いにしてるとしかおもえない。
モノ扱いしてる命に、なんの躾をするつもりなのか、ほんと、こんな矛盾する言い訳までしてしまえる感覚はどこで身につけるものなんだろ。
ネコにいろいろヘンな格好させたり、かぶせものさせたりする、ってことも、ネコをモノ扱いしてるよね。
生きてるものをオモチャ扱いすることを「動物好き」みたいな感覚でとらえることが、子どもをモノ扱いする感覚に繋がるのかなー、っておもった。
肉体に命が宿ってる、っていう意識がない扱いを平然とできてしまう感覚は、育児観以前のはなし。
動物にヘンな恰好させることは虐待、って感覚が広まらないことがフシギ。
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叔母さんのマンガのこと、ざっと書く。
(またあとで、っておもってると、いつ書くかわかんないことになるからねー)
Cipher (第1巻) (花とゆめCOMICS)/白泉社
¥411
Amazon.co.jp
ツイッターで、このマンガを大好き、ってリプライもらっちゃったから、書きづらいんだけど。。。。。
ものすごい人気のマンガ、っていうのは叔母さんから教わった。
このマンガだけじゃなくて、この作家さんがものすごい人気なんだって。
かわいい絵柄はわたしも好みで、読みだしたらストーリーはおもしろくて。
でも、これもわたし、途中で読むのをやめちゃったの。
その理由は、「つかれた」から。
出てくる人たちのどんな心理もあますとこなく明確に言いあらわすキャラクターの描き方に、ものすごい息苦しくなってきて、呼吸困難みたいなかんじになって読み続けれなくなった。
だから、感想を書く、という資格もないんだけど。
このマンガが当時、絶大な人気だった、っていうのは、ちゃんと読めた人たちがおおかった、ってことだろうし。
ツイッターでリプくれた方も、時々読み返してる、っておっしゃってて。
わたしはなぜ、それができなかったんだろう、ってことをかんがえた。
キャラクターは魅力的。
ストーリーもおもしろい。
軽井沢シンドロームみたいに、男性目線のストーリーにじぶんがなじめなくて、読んでたらイライラしてきた、ってこともぜんぜんなくて。
読みやすいストーリーなんだけど、キャラクターの描き方についていけなくなった。
主人公のアニス。
他人のものすごい細かいことに「気づく」の。
そして、それでその人の心理を察知する。
他のキャラもそんなかんじ。
これの前の記事で、絶対ヒーローや絶対正義、というコトバを使ったけど。
このマンガの場合は、絶対理解。
他人に対して、100%の理解をしようとする。
他人との距離をとらないキャラクターの描き方が、他人と密接にいれないわたしには苦しくなってきた、ってわけだったのね。
他人を100%わかることなんて不可能で、そんなのは幻想にすぎなくて。
わからないぶぶんを含めた「他人」と「じぶん」の個体を合体させずに共存させる。
そんなかんがえかたがわたしの中にあるから。
ささいな仕草で「すべてを察知する」というエスパー的な能力を持つ人、というのは、ただただつかれる。
このマンガを読んで、「ニンゲン」の描き方、をいろいろかんがえた。
軽井沢シンドロームでは、登場人物の力関係や配置、みたいなことをいろいろかんがえたけど。
『CIPHER』では、「ニンゲン」をどこまで書きこむか、どう書きあらわすか、っていうことをかんがえるとっかかりを得た。
村上春樹おじさんの小説も、そういう意味では『CIPHER』的。
愚鈍な人、はストーリーの軸にはならなくて。
心理や物語の構造の細部まで、丹念につくりあげられて、それを読者にひろわせる。
だから、春樹おじさんの小説を読むと、すごいおもしろかった、っておもっても、その感想を書くとなるとぐったりしちゃう、っていうかんじ。
あの伏線はここに繋がってて、この人の心理は表はこうだけど裏ではこうで。
って、立体化される世界を地球儀みたいにころころまわして、裏の裏までちゃんと見ないとその世界がなりたたない、みたいな読み方を要求される。
ただ、春樹おじさんの小説は、もっと浅く読んでも読めてしまう。
浅く読んだ人からは、中身のない雰囲気小説、みたいな批判をされがちなんだとおもう。
『CIPHER』の世界も、とてもきれい。
人物描写は、きれいなぶぶんでないことも描いているんだけど、でも、やっぱり「きれいな世界」なんだよね。
きれいなアメリカ。
オシャレなアメリカ。
「雰囲気」のよさが、この作品のおおきな魅力。
だけど、このマンガは、心理描写のなぞなぞの答えがすべてちゃんと書かれる。
アニスとか「敏感なキャラクター」が、ちゃんと細部まで気づいて、それがなにか、ということをいちいち明確にしてる。
春樹おじさんの小説とのちがいはそこ。
春樹おじさんは、散りばめたなぞなぞの答えを作家は提示してないから。
だから、いろんな解釈がされる。
その自由が読み手にぽん、と渡されてる。
『CIPHER』にはその自由がなかった。(って、わたしはかんじた)
じぶんの想像をはたらかせる余地がないから、提示された「世界」をそのままタイトにダイレクトに受け止めていくしかなくて。
そうすると、わたしのキャパでは、それがムリだった、っていうはなしになる。
相沢耕平さんが、絶対正義で物語の世界を支配してたように。
このマンガは、キャラクターのエスパー性が読み手に明確な道標を示す。
それになじめる人は、その作品を愛し、それになじめなかった人は離脱するしかない。
これも、とても強烈な魅力のあるキャラクターを生み出せる手法だとおもう。
読み手を一方方向にひっぱっていく作品のキャラクターっていうのは、カリスマ性を持つ。
それにとても成功してる作品だとおもった。
だから、批判や否定をしてるわけじゃないのです。
ただ。
じぶんが「物語」をつくるときは。
人物をそんなふうには描かないだろう、という自覚をしたこと。
そういう、じぶんの創作観、というものをかんがえることができた作品なんだよね。
(それは『軽井沢シンドローム』や、あとで書く『はみだしっ子』もそう)
ヒーローもエスパーも出てこない、じぶんにはわからないことだらけの世界で生きたり死んだりする人、みたいなものを、わたしは描きたいんだとおもった。
じぶんの世界はじぶんの認知でできてる。
でも、そのじぶんの世界に、じぶんでもわかんないものがあったら、じぶんの世界の中に異世界がある、ってことになる。
その異世界が、他人のつくる、その人の「じぶんの世界」で。
他人の「じぶんの世界」という異世界を、取りこんで合体させず、別々に存在させながら、「他人」というものを認知する。
そういう感覚を、創作の中でも描いていきたい。
一言でいうと、他人を吸収しない、ってこと。
じぶんが理解した他人は、その他人そのもの、とはちがう。
ただのじぶんの認知、にすぎない。
現実はエスパーなんていない。
だれもじぶんを100%理解したりしない。
そういう世界で他人と生きる。
100%わかろうとして他人との距離を密接にして繋がりあう社会観と。
他人とは距離を保つことで、個々の区別をつける社会観と。
かんがえかた、のちがいだよねー。
じぶんはどんな物語の社会を創りたいか。
じぶんにとって「ニンゲン」ってどんなものなのか。
すぐれた作品を読んで、そこに描かれる「じぶんにはなかった価値観」を参照にしながら、じぶんの創作についていろいろかんがえるのは、おもしろい。
そういうおもしろさをかんじたよー、ってことで、完読できなかった2つのマンガのこと、わざわざ書いてみた。
『はみだしっ子』はちゃんと最後まで読めた!
また長くなるから、これはあとで書くねー。
じゃあの。