執着だらだら | ゆらゆらダイアリ

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あたまと性格とウツをこじらせた一人暮らし女子のダメダメな日々。



このスタジアム、ほしいかほしくないか、まだビミョー。
でも、みかみかさんが座ってる青いベンチはほしいなー。
ランダムクエストで何個もとれるようになるのかなー。





こころが疲れると、いろんなものにキョーミが薄れて、いろいろつまらなくなる。
そういう状態になったときに希死念慮が強まるから、生きるためには現世のなにかに執着が必要なんだなー、っておもう。

だとしたら、執着を捨てることを説く仏教は、生きることに反してる?

なんてギモンがだらだらしたあたまに湧いた。

執着がなくなればこころは自由になって、だからとても「ラク」になれる、んだろうけど。
生きるって、「この世」のなにかにこころを寄せることだよね。

だれかがいるから生きてたい、とか。
なにかがたのしいから生きてたい、とか。

「だれか」にも「なにか」にも、なーんにも執着がなくなったら、「ここ」に留まる理由がなくなる。

どこにでも行けてしまう。
この世、じゃないところにも。

生きる必要性なんて、ないのかな。
必要性のない「生」は、なんのために生命体に与えられるの?

こんなギモンが湧くだけ湧いて、でもお釈迦様があらわれていろいろ教えてくれるわけじゃないから、人生なぞなぞー、っておもうだけ。

そのこたえを見つけるまで生きていることが、「ヒト」の人生だとしたら、お釈迦様のなぞなぞ遊びにつきあわされてるだけ、っていう気もする。

わたしの仏教の解釈、ものすごい間違ってるかもしれない。
けど。
どう間違ってて、どう修正すればいいのか、わかんない。

こころが疲れて、なにもかもがつまらなくなって、どうでもよくなるとき。
なーんの執着もなくなった状態とおなじようになって、つまり、こころが疲れると悟りに達しやすくなる。
っていうのは、なんか間違ってる?

ベッドでごろんと寝転がって、涅槃像ポーズで「なんにも執着ないねー」とぼやいて仏教ごっこする連休後半の一日。


あたまを手でおさえてる涅槃像、って、なんかものすごいニンゲン的に見えるんだけど。
生身の人体って、脳みそすかすかなおバカでも「あたま」って重たいじゃん。
その重たいあたまを手で支えて転がってるのは、「寝てるけど起きてる」っぽくて、「起きる」ことに執着かんじる。

かんぜんにごろごろ寝転がっていればいいのに。
オナカみせてひっくり返ってるネコみたいに無心で。

だいたい、なんにも執着なくなっちゃったら、その無我の境地がどんなものか、わざわざだれかに教えようとも思わないよね。
宗教の布教は、我が信心への執着、にはならないの?

いろいろ無知なあたまでおもいついたギモンをただ書く。





ごくたまにしか更新しない、わたしがネットでいちばん好きなブログの更新記事が読めたからしあわせ。

そんなしあわせはかんじれたから、疲れたこころも、まだ回復の余地はあるのでせう。

このまえ読んだ海外のコージーミステリの次は、サスペンス(?)みたいなの読んでる。
これも海外の。
上流家庭が住みこみのベビーシッター雇ったら、いろいろなんかあったみたいな話。

サスペンス的なベビーシッターもの、探せばいろいろあるよね。
わたしはふたつ読んだことある。

ひとつは映画で知って原作かノベライズかわかんないけど、その小説版。
もうひとつは、ブックオフでなんとなく見つけたやつ。

ベビーシッターの話って、だいたい似てる。
似てる、っていうか、つまり、「家庭」に「他人」であるベビーシッターが住みこみではいりこんできて、その人がいろいろやるの。こわいこと。

他人が家庭内に住みこむ、って、トラブルが起きてもとうぜん、だともおもうよねー。

だけど、ベビーシッターだけじゃなくて、家政婦さんとか、昔の日本の小説では女中さんとか、そういう「使用人」が住みこみで雇われる、っていうのは、それが経済的に可能な家庭にはフツーにある話。

夫婦よりも遠い「他人」とおなじ屋根の下で暮らすのに、警戒心をかんぜんに解けるものなのかな。

シェアハウスでもわたし、いつもそこがギモン。
それぞれ部屋に厳重に鍵かけて暮らしてるのかな。

住みこみベビーシッターのせいで家族が恐怖のどん底に、なんていう映画とかつくられちゃうと。
その後、住みこみベビーシッター、っていう職業にいろいろ悪影響ないのかな。
信用されにくくなった、とか。
信用できなくなった、とか。





意味のないことをだらだら書いてたら、いつのまにかこんなじかん。
これで寝るー。


おやすもみ。