殺さない理由 | ゆらゆらダイアリ

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あたまと性格とウツをこじらせた一人暮らし女子のダメダメな日々。

ひさしぶりに沖縄に潜りにいってきた。

なんか、沖縄で潜るだけでシーサーのアイテムもらえるキャンペーンやってたよねー。




海にもぐもぐ潜る。




この離れ小島まで潜っていかなくちゃいけないの。




小島に上陸。



むかし(もういまとなっては昔話)わたしを沖縄旅行に誘ってくれただれかさんは、きっとそのあとでちがうだれかを誘っていったりしたかもねー。

わたしの代わりはちゃんといる。
だから、わたしなんてさいしょから「そこ」にいなくてよかっただけのアイテム。





きのう、作家の村山由佳さんがラジオで、「ほかのだれかとくらべてるうちはその人には恋をしていない」って言ってた。

あたらしい恋、は、以前の恋、との比較をするものじゃない、ってこと。
恋する、っていうのは、その人のことしかかんがえれない、っていう感情、ってこと。

ちがうだれかのことを思いだすようなら、あたらしい恋をしてるわけじゃない。


っていうのは、村山さんのコトバ聞くまえにじぶんでわかったことだから、そういうことを「体感」できた経験でわたしも恋愛小説書けないかなー。

わたしの書く恋愛小説は、「相思相愛」を願う感情のない恋、になりそうだけど。

相思相愛になることだけがはっぴーな恋の形ではないのです。

って、おもうのです、わたし。

相手の愛につかまらない位置にじぶんを意図的に置いて恋をする、という形のしあわせもあるのです。

って、おもってるのです、わたし。





人は人と接点をもつことで永遠に平和になれない。

っていう話を、今夜の宇野常寛さんのラジオで言ってた。



今夜の宇野さんはほかにもいろいろいいことを言ってた。

たとえば、不倫騒動でテレビ番組で謝罪させられた女性タレントさんのこととか。

もともとは「プライベート」な話を、関係ない第三者たちが「好き嫌い」の感情反応じゃなくて、「正義」でジャッジするきもちわるさ、について、ね。





古畑任三郎とかコナンとか、たて続けにDVD見てると、「人を殺す正当性」についていろいろかんがえさせられる。

どの犯人も、その殺人をしたじぶんなりの「正当性」を語る。
動機、ってやつね。

古畑よりコナンのほうが、その犯人の語る「正当性」がひとりよがりにすぎないことをバッサリ斬ってく。

古畑はオトナの事情、っていうか、三谷さんの倫理観なのかなー、っておもうけど、わりと「正義」の軸にブレがある。
正当性を語った犯人が、じぶんのやった殺人について後悔はしてない、っていうのを「いさぎよさ」みたいに演出したり。

コナンは、そういう「いさぎよさ」のあざとさもちゃんと新一が突っ込むよねー。

その殺人をやってしまった「きもちはわかる」けど、「だからって人を殺していい理由にはぜんぜんならない」って、はっきりと言い放つ。

「人を殺していい理由」について、三谷さんの世界のほうがゆるゆる。
「殺人」という解決法をいくらでも回避できそうな話なのに、回避しなかった犯人の「殺人の罪はかぶる」という姿勢を「いさぎよい」形に描いてたりするからねー。

たとえばSMAPの話とか。
クサナギさんの叔父さんが非合法なことをした挙句に自殺しちゃって、それをネタに恐喝してた男をSMAP全員で殺しちゃう話。

殺人の罪を償う覚悟はできてる、っていうカッコよさをSMAPに語らせるなら、じぶんの仲間を恐喝する男を警察に突き出して恐喝されてた事実を世間に堂々明らかにしてしまう覚悟も持てたはずじゃないのー、っておもうし。

殺人犯になるより、身内の違法行為を世間に明らかにしてその批判もきちんと受け止める、ってことのほうが、「じぶん自身」をなにも貶めたりしない。

だけどあの話は、SMAPの殺人、はある種の正義、みたいに描かれてた。

コナンの話は、もっと「わかるー、そんなやつ、殺したくなっちゃうよねー、殺すしかなくなっちゃうよねー」って同情したくなるような動機でも、「だからって、人を殺していい理由にはならない」って言い切られることが多い。

ほんとうに「人を殺していい理由」って、この世にどれだけ存在するだろ。
殺さないと殺されちゃう、っていう切迫した正当防衛とか以外に。

これで賛否がわかれるいちばんのケースは「死刑制度」だとおもうけど。


「人を殺していい正当性」が多数の人でシェアできるようになると、「戦争」が成り立つ。

戦争によって殺される人は、それぞれに人生があって、それぞれが「ひとりのニンゲン」であるのに、「戦争」っていう形になると、「この爆撃で○○さんが死んだ」っていう話にはならなくて、「正義が勝った」っていうふうにとらえられる。

どこかの正義が勝つために、○○さんが殺されて、○○さんの人生が壊されて、○○さんとかかわる人たちも不幸になる、っていう個人的な非劇がうやむやになる。

「人を殺していい理由」を語ろうとすることは、それをほかの人に理解される数が増えることで、「正義」になって、「だれが殺されたか」ということはどうでもいいことになっていく。



それぞれの殺人犯人が、「人を殺さない理由」をおなじようにかんがえれたら。

殺したいけど殺さない。
その理由。

殺されてもいいぐらいの人を殺さない。
その理由。

殺したい人を殺してもいい理由はカンタンにかんがえつくね。
でも、殺したい人を殺さないでおくじぶんを納得させれる理由をかんがえるのは、だれかを殺したくなったときにはむずかしい。

人を殺さない理由のほうが、人を殺す正当性より曖昧になりやすい。
法律以外の理由ね。

人を殺さない正義をじぶんの中にみつけることは、正義のために人を殺すことよりむずかしい、ってことなのかな。



タレントの不倫騒動にもおなじことおもう。
「正義」で不倫をした人を叩いて社会的に殺そうとする。

「不倫行為」を批判することと、その過ちをおかした人を社会的に殺すことと、別の軸だとおもうのに、「正義」っていうものに一括りにされていっしょくたになってしまう。

「正義」は人殺しの凶器ではないはず。

存在を許せない感情を抱く人の存在を受け容れる、というのは、ほんとにどれだけむずかしいことなんだろ。

殺したいけど殺さない、その理由を見つけようとすることに、どんな意味があるだろう。
その意味を明確にできないから、人は人を殺してしまう。

「人を殺していい理由にはならない」
って、新一はなんども言う。

その先には、
「人を殺さないでいい理由」を見つける必要がある。

そこまで辿りつかないと、「殺人」は法律でしか縛れない。
法律は、それを無視する意思でカンタンにやぶられる。
法律の限界だよねー。


なんて、なんのとりとめもないままにかんがえたことをただ書いただけ。

たーくさんの「殺人犯人の殺した理由語り」を聞いてると、ほんと、いろいろかんがえちゃう。





なんかちがうことも書きたかったけど、もうこんな時間だから今夜はおしまいまい。