ワンダフル醤油世界 | ゆらゆらダイアリ

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あたまと性格とウツをこじらせた一人暮らし女子のダメダメな日々。



メインクエストのさいごの報酬がこのガゼボ。(これは公式のエミリーのお庭の)
もしこれがとれても、置く場所つくるのがタイヘン。

グッドファーマーフェスタイベ、ものすごいたのしい。
ほかのイベとちがうのは。

ただ、指定の作物や花を植えて、それを収穫してお料理や工作してのうひん、っていうんじゃなくて。
3種類の植物植えると、3人の公式キャラが出す複数の注文の中から、どれかをじぶんが選んで応えてく。

それぞれ注文の内容はちがってて(素材何個とお料理何個とか。素材もお料理も複数種類があって組み合わせはいろいろ)、もらえるポイントもばらばら。

じぶんが用意できた素材やお料理と、あつめたいポイントと、そういうのをじぶんで計算しながら進めていくのね。
収獲した素材やつくったお料理は、専用の貯蔵庫にいれるんだけど、この容量も上限があって(わりとタイト)、たーくさんストックしておくことができない。
わたしはわかってなくて、とりあえずMAXまでいろいろ貯めてたら、ほんとにつくりたいお料理がもうつくれなくなって、どうにかしなくちゃならなくなった。

容量を空けたいときはネズミにあげちゃうか(これがおもしろいよねー)、どれかの注文にこたえるしかなくて。
いまはクエスト的にほかの注文にこたえたくないのに、お料理をネズミにあげるのも悔しいから(せっかくたーくさんの素材つかってつくったものをノーポイントにしてムダにしちゃうわけだから)、予定外の注文にこたえちゃうしかなかったり。

そういう「ちょっとあたまをつかう」ってとこが、イベントをものすごいおもしろくさせてる。
進め方も、じぶんに選択肢がある、っていうとこもポイント。

ピグはやっぱりすごいねー。
何種類もイベントがあって、おもしろさがそれぞれちがってて、カンタンにだれでもできるけど飽きないようになってるの。





いつのまにか一週間後の雨マークが消えて、木曜ぐらいから晴れマークと30度越えになってるから、この日が梅雨明けかな。

あんなに、夏来なくてていーよー、っておもってたけど。
こんなに7月いっぱいすずしかったから、機嫌がよくなって、「そろそろ、ま、いっか、来ても(ウエメセ)」って気持ちになった。

夏に騙されてるかも(V)o¥o(V)

これで10月ぐらいまでモーレツ残暑がつづいたら、おれはまた夏をキライになってやる。
季節差別してやるー。
夏ヘイトスピーチ、ブログでたくさん書いてやるー。←脅してる





ポケモンのあれ(検索除け)が、わたしの周辺でもものすっごいブームになってる。

スマホじたいぜんぜんほしくないわたしは、さいしょからじぶんと関係ないもの、っておもっていろいろニュース見てたけど。
わたしんちにもいろいろいるらしくて、夜中に大家さんがうろついてたのはびっくりした。

大家さんと「スマホゲーム」もしくは「ポケモン」がぜんぜんむすびつかなかったから。

でも、いろいろ話聞くと、スマホもってる人はわりとみんなやってるかんじ。
そういうもんなのー。

それでもわたしがぜんぜんそそられない理由。

外に出かけていかなくちゃいけないゲームだから。
それも、車の移動とかダメ、って聞いたし。

だいたい、スマホを買いに行くことがめんどくさい。
いま、ガラケーがこわれてるんだけど、とりあえずメールと通話ができるから、ショップに行くのがめんどくさくて放置してるぐらい。

わたしは一歩も動かないでやれるピグのほうがじぶんに合ってる。
車でGO、とかっていうゲームがあったら、そのときスマホの購入かんがえる。
車で移動範囲半径100kmぐらいの心霊スポットをまわって、お札あつめてこないと祟られる、ってゲームとかならやってみたい。





でも。
カメラほしくて。
フツーのデジカメ、っておもったけど、スマホだといろいろ写真系アプリがあるから、素人がカンタンにいろいろいじりたいならスマホのほうがよさそう、っておもった。

うーんうーんうーん。


どっちにしても、いまはそんなお金の余裕がぜんぜんないから、いまどれだけ悩んでも買えるのはずっと未来のお話。

カメラで撮りたいのはじぶんとかじゃなくて、自然。

このまえねー。
外でねー。
おっきなGがいろんなちいさい虫たちにおそわれて、まだ生きてるのによってたかって食べられてる地獄な光景を目撃したの。

なんで素早いGがちいさい虫たちに捕まっちゃったのか、そこは見てなかったからわかんないけど。
家の中に出ると、ニンゲンの心臓をとめかねないぐらいの恐怖をあたえるこわーいGも、大自然の中ではそんなに強者じゃないのかなー、っておもった。
殺虫剤で死なない強いのもいる、ってニュース見たけど、それはあくまでもクスリを使う卑怯なニンゲンとの闘いで強い、ってだけで。

画像が出てくるのがこわくて、Gの生態はぜんぜんググる気がしないけど。

200メートル先の森で、夜中に父子が懐中電灯もってカブトムシやクワガタ狩りに来てた。
その人たちはたぶん、地元でも緑の少ない繁華街側の住人だとおもう。

わたしの家のほうは、わざわざニンゲンが森まで出かけていかなくても、クワガタやカブトムシのほうから家によってきて、そこらへんにとまってたり転がってるから。
それもほぼ毎日、何匹も。
このまえも、わたしのてのひらよりおっきな雄のカブトムシが玄関出たすぐのとこをのしのし歩いてた。

それぐらい、ささやかだけどいろんな自然を、じぶんのごく日常的な行動範囲でたーくさん見かける。
それをいちいちカメラで撮ってブログに貼ったら、おもしろそう、っておもったの。





ふだん通って読みたくなるようなブログを、時間があれば探してるけど。
さいきん、ほんと、個性のないブログばっか目につく、っておもう。

個性のあるブログ、っていうのは、べつにものすごい人と変わってるなにかを書いてるようなブログではなくて。
「その人」のただの日常日記とか。

そういうのは、「その日記はその人にしか書けない」でしょ。
たとえばポケモンのあれをやった日記だとしても。

その人がゲットしたポケモンの話は、その人の体験でしょ。

個性がないブログ、っていうのは。
いろんな話を一般化させてるような内容のもの。

じぶんの体験談も、そのまま書かないで、じぶんが体験によってあたらしく得た価値観でもって他人を啓蒙しようとする「みんな」に語りかけるようなブログ、ものすごいおおい。

じぶんの話だけにとどまらないスタイルの「語り」をたーくさん見てると、人ってだれかにじぶんが影響をあたえたい欲望がつよい生き物なのかなー、っておもった。

淡々とじぶん語りをするだけでも、それを読んだ人になにか影響があるかもしれないけど。
そういう地味な反応じゃなくて、もっと「世の中を変える実感を得たい」規模のじぶんの影響力をかんじることがカイカン、っていう感覚もあるのかなー、って。

じぶんの体験を書くのに。
「オンナは」「オトコは」って主語がものすごいおおきくなってるブログを読んだりすると。

わたしもオンナだけど、あなたのいうオンナの中には含まれてないよねー、って違和感をいだいたりする。
だって、その人の言う「オンナ」は、あくまでもじぶん。
オンナであるじぶんが感じたことなのに、「わたしは」じゃなくて「オンナは」って語るから、その人の体験や価値観に共感しないオンナは、その人の語る「オンナ」に同化されることはない違和感が生まれる。

これって、共感する人たちにはものすごい受け容れられるけど、共感しない人たちには、いちいち反発されちゃうよねー、っておもう。
読んだ人にいちいち意見を持たせるスタイル。

個人の体験談には、わたしはいちいち意見をもって読むのはつまんないとかんがえてる。
じぶんとぜんぜんちがう価値観、じぶんが好きではない価値観。
そういうものもある他人の生き方に、じぶんの価値観で「ただしい」とか「ただしくない」とか判定するのは単なる干渉だから。

せいぜい、その価値観を好きとかキライとか、共感するとか嫌悪するとか。
そんな、あくまでも「じぶんの中の反応」にとどめておけばいいだけで、世の中の正義の基準にする必要はなくて。

だけど、個人の体験の主語が、おおくの他人を含めるおっきなものに書き換えられてたら。
それを読んだ読者は、その文章を「他人事」ではなく、じぶんも当事者のきぶんにさせられる。
そこで意見が生まれる。

「わたしはこの体験でこうおもった」っていう話を。
「オンナはこうかんじるもの」って書かれてると。

「あ、わかるー。オンナってそうだよねー」っておもうオンナもいるとおもうけど。
「えー。わたしもオンナだけどぜんぜんそんなことないよー」って反発をいだくオンナもいて。

「そういうのがオンナだと断定されるのはおかしい」っていう意見が読者の中に生まれて、議論となる。

議論するようなテーマなら、そういうのも意義があるとおもうけど。
もともとは個人の体験談にすぎない話で、「書き手の価値観」を肯定するか否定するか、を、世の中の正義にあてはめた議論、ってなーんの意味もない、ものすごい不毛なこと。

だから、じぶんの中に不毛な意見が生まれちゃうスタイルの、おっきな主語語り、のブログを読むのがわたしは苦手。

あなたの話、ならおもしろく読めるのに。
そのあなたの話に、同性であるわたしも含めないでー、っていうこと、ね。

性別の主語にかぎった話じゃなくて。

じぶんがこういう体験した。それでこうかんじた。じぶんの価値観がこうかわった。

そういう個人的な話は、わたしには個性をかんじる。

でも、じぶんの体験や価値観を教科書に仕立てて、それで他人を感化しようという積極的能動的なベクトルのあるものに仕立てられてると、個性は一般化されちゃって、なんかいちいち啓蒙書を読んでるかんじになって、わたしにとっては「読みたいもの」からははずれちゃう。

なぜ、せっかくの個性を一般化してじぶんの色をなくしてしまいたがるんだろ。
じぶんが好きだとおもったものを「これ好きなんだよねー。オススメです」って勧めることは個性の影響だけど。

「これから選ぶべき10のアイテム」みたいな形にして語ると、その人の個性をかんじなくなる。
わたしはそれをもったいないとおもうけど、そういうほうがブログはたくさんの人たちに読まれて、「たくさんの人たちに読まれるブログ」に価値があるなら、そういうスタイルが流行るのもあたりまえ、なんだろうねー。

たくさんの人に読まれる必要はなくてじぶんの好きなことだけ書いてたい、っていうごくごく個人的なブログが目立たなくなって見つけにくくなった、ってことなんだとおもう。

せっかく無名の人がお金をかけずにカンタンに好きなことを書けるブログ。
その人だけの体験、の話を、わたしはいろいろ読みたい。

じぶんや友だちの恋愛の失敗を、「恋愛論」に仕立てたりしない、「その人のコイバナ」みたいな、「いろんな個人のいろんな人生」を読めるのがブログのたのしさ、ってわたしはかんじてる。





じぶんの中にはなかった価値観や思考を知るのはたのしい。

じぶんの思考って、お醤油だよね。
じぶんの思考をどんなに広げてっても、ベースはお醤油。
それにバター足したりワイン足したり豆板醤足したりパクチーいれてみたりして、ものすごい広い世界をとりいれたつもりになっても。

でも、けっきょくのところお醤油のベースの和風でしかなくて、ほかの味付けは「創作和風」でしかなくなっちゃう。

お醤油をまったくつかわないぜんぜんちがう味、知らない味、想像もできなかった味。
そういう味付けを知ることで、やっと「世界」を知れる。

見た目塩味っぽいけど、なんで酸っぱいのー。
みたいな、じぶんではかんがえつかない味付け、じぶんの舌には合わない味付け。
そういうのも、ほかの人には「美味」としてうけいれられてて、じぶんの世界になかった価値観が世の中には普遍的にごろごろしてる、っていう現実を体感する。





バイト中のわたしは。
お客さんが断続的に来るからレジから離れられなくて。
そういうときでも、ちょっと途切れたあいまに、さっとレジの中のいろいろを補充したり拭いたり、レジの中のお金やクーポンを整理したり、いろいろ散らかりやすいものをカテゴリごとにまとめてわかりやすく収納したり。

ってことを、かならずやってる。
よっぽど脳が停止してないとき以外は、ぼーっと次のお客さんがレジに立つまで待ってる、なんてことはない。


なんでー。
そのわたしはー。
家の玄関を通り抜けたときにー。
消滅しちゃうのー。


家にいて。
数分の「なにもしない時間」ができるたびに、机をちょっと片づけたり、いろいろちょっと拭いたり、さっとお財布の中やカバンの中を整理したり、アイロンかけたり。
ってこと、すればいいのに。わたし。

家のいるわたしは、なにもしない時間が生まれるたびに、ぼーっとそこにいて、あたまの中で「あ、ピグやっちゃおうかなー。あの本読もうかなー。なんか飲みたいなー。おしっこしたい」ってかんがえるだけで、なんにもすぐに実行しないで、次のなんかの予定がせっぱつまって、「ぎゃー、時間がないー。わたしには時間が足りないー」ってバタバタするの。

それで慌てて出かけて「あ、おしっこするのわすれた」っておもいだして、トイレ探すムダな時間が必要になったりして。


「玄関」になんか呪いがかかってる気がする。
あそこで魂抜かれるんだとおもう。
ついでに玄関の神さまが、帰ってくるたびにわたしの脳みそのシワにもアイロンかけちゃうんだとおもう。







さいきん、なんでかいきなり脳にこの曲が湧いて、バイトで納品中、ずっとちいさく口ずさんでる。