『チャッピー』問題。失われた2秒の意味とその重さ。 | まじさんの映画自由研究帳

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※コメント歓迎ですが、内容に一切触れないコピペコメントは、貼らないでください。

今回は、ネタバレ全開で書いてるので、未見の方はお願いだから読まないで欲しい。


ネタバレなしのレビューはこちら
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・経緯
2015年4月半ば、ソニー・ピクチャーズ.jpが、『チャッピー』の日本公開に於いてR-18のレーティングをPG-12に落とす発表をしたのは、ご承知の事であろう。ソニーはカットした理由や長さや箇所を一切公表しないとし、「監督の賛同を得た上で、作風を損なわない形で…米国で編集を加え…」と発表した。

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しかし、オイラが監督本人に、Twitter上で「カットして欲しくない」とのファンレターを送ったら「知らない」と返信が来て、配給会社が勝手にカットしていた事が発覚。Twitterで拡散され、世間をお騒がせする事になってしまった。そして「配給会社が勝手な編集をした映画は見ない!」と言い出す者も現れ、オリジナル版の公開を求める署名運動まで始まってしまい、その声は大きくなっていった。
オイラがうっかり監督に投げた石が、オイラの思いとは全く違う方向に波紋が広がっていった。

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詳しくは以下の記事で


その間、『チャッピー』の編集された部分を調べたり、試写でごらんになっている映画評論家の先生にお話を聞いたりしていた。そして、人体破壊描写を含む、2秒程度のシーンがカットされているだけだとの情報を得る事が出来た。
カットされたシーンが分かれば脳内で補完できる。映画はどんな形であれ、批判するにしろ、評価するにしろ観なければ判断は出来ないと言う結論に至り、鑑賞する事にした。

そしてオイラは、公開初日に『チャッピー』をIMAXで鑑賞。とても感動した。

だが、2秒足らずの残酷描写に、何が写っていたのか?オイラは、それが気になってしまった。2秒だけなら、切っても本当に本編に影響はないのか?


今回はその失われた2秒の意味を、推察してみたいと思う。

※ここからは、本当にネタバレだから、未見の人は読んじゃダメだぞ。


・考察
クライマックスで、チャッピー破壊命令を受けたヴィンセントは、自ら開発した戦闘ロボットMOOSEを起動し、追撃に向かわせる。
MOOSEが、ニンジャたちのアジトで暴れまわり、クラスターミサイルの絨毯爆撃で、一台の戦闘マシンが一瞬にしてその場を戦場にしてしまった。
ここで、チャッピーの理解者であり、ニンジャの仲間であるアメリカが逃げ遅れ、MOOSEの脚の下敷きになり身動きが取れなくなった。そして突然、投げ飛ばされて飛んでくシーンに切り替わる。違和感のあるシーンだ。ここに何かがあったのは明白だ。2秒のカットは、ここだと気付いた。

ここには、アメリカがMOOSEの巨大なハサミで胴体を引きちぎられる残酷なシーンがあった。今ならネットを探せば該当の画像を探す事は出来るが、ここではそれを、あえて掲載せずにおく。

この人体切断シーンは、日本公開版においてバッサリとカットされた。
生きたまま上半身と下半身を引き千切られ、切断部分から内臓が見えていたという、かなりの残酷描写だったようだ。
驚いたのは、名もない兵士や敵の手下とかではなく、残酷表現で仲間の死を描いている所だ。ハッキリ言って重要なシーンだ。
確かにこのカットは、全体の大筋には関係ないように見えるが、クライマックスへと盛り上がって行く大きな山場のひとつが、スッポリと抜き去ってしまった。
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コレにより、アメリカは投げ飛ばされただけで、死んでないと誤解した方もいるようだ。

下手クソな編集…と言うより、ただ切り抜いただけなので、このシーンのテンポがとても悪くなった事が、一番先に目が付くだろう。映画の編集には観客の感情をコントロールするリズムがある。特にアクションシーンでは、緩急をつけながらテンションを上げてゆく。主人公に近しいキャラクターの死は、圧倒的な敵の力を見せつけるシークエンスのラストを飾り、我々の感情を揺さぶるり、更には人公の成長に関わる重要なシーンだ。俳優にとっては最もやり甲斐があり、スタッフにとっても、リアルさを追求するこだわりの見せ場である。

前回の『チャッピー』のレビューでは、この作品自体が『ロボコップ』へのオマージュとなっていると指摘した。よって残酷描写自体が、『ロボコップ』へのオマージュ的な意味もあったに違いない。『ロボコップ』で言えばとろける溶解人間の描写がカットされたようなものだ!本編には関係ないが、我々の記憶に鮮明に残るインパクトを残している。
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また、『ロボコップ』は残酷描写が多く、当時R指定を受けた作品である。各国で公開されたが、多くの国で残酷描写がカットた。ドイツでは約20分もカットされて上映されたという記録もある。『チャッピー』のカットされたゴア描写が『ロボコップ』にオマージュを捧げたシーンの一つであるとは、なんとも皮肉な話である。

それだけではない。このシーンは、作品のラストとも大きく関わっていた。破壊されてもパーツを交換できる機械との対比として、人体破壊描写を見せる事は、この映画にとって重要な意味があった。人間は壊れたら戻らない。そのテーマがあるからこそ、あのラストシーンがあった。賛否の別れるあのラストに抵抗があった人が、もしもカットされていないバージョンを見ていたら、きっと受け入れる事が出来たのかも知れない。

ブロムカンプ監督は、ゴア表現を作品に取り入れる監督だ。『第9地区』では、ヴィカスの片腕切断指切断シーンやその他諸々『エリジウム』でも、爆破された人の顔など、残酷描写が多く出てくる。もはや、ゴア描写は、ブロムカンプ監督の作風と言っても過言ではない。『チャッピー』でゴア表現をカットするという事はソニーが言う「作風をを損なわない形で」という部分に抵触するのではないだろうか?
確かにこのゴア描写が無くとも、大筋に影響はなかったとの意見もある。だが、クライマックスでのリズムとテーマ性を犠牲にした影響は大きい。幅広い年齢層に見せたいとの意図もわかるが、作品の是非を変える程の大きな犠牲を払ってまでR-18をPG-12に下げたのに、吹替版の公開がない事の矛盾に、疑問を感じずにはいられない。この件でソニー・ピクチャーズの窓口へ、質問メールを出したが、その返事はいまだに来ていない。


・検証
さて、ここまでは初見の時の印象で語ってみたが、未編集版を見る事で、見た後の印象に変化がないかを検証してみたいと思う。
実際に未編集版を見る事は出来ないが、記憶と想像を駆使して脳内編集し、
オイラの記憶の宮殿にあるシアタールームIMAX対応)で再鑑賞してみる事にした。

ここで、オイラは想像を増幅する為に、一枚の絵を描いてみた。アメリカの胴体がMOOSEに引き千切られる、リアルで残虐シーンを描かねばならない。心が痛んだが、失われた2秒にどんな意味を持っていたのかを考察する為、可能な限り写実的に描き上げた。この絵から増幅されたイメージで2秒のシーンを妄想し、切り取られた箇所に、インサートしてみる。







そして、再鑑賞…。
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イメージ画






……………………

チャッピー破壊命令が下り、ついにヴィンセントがMOOSEを起動させ追撃に向かう。
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ニンジャのアジトがクラスターミサイルで絨毯爆撃を受け、その場は一瞬で戦場に変わった。
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逃げ遅れたアメリカが、MOOSEの脚の下敷きになり、身動きが取れなくなる…。

MOOSEがアームでアメリカの胴体がを挟む。
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不敵に笑うヴィンセントの顔!
苦悶の表情に歪むアメリカの顔!
そしてMOOSEのアームに胴体が切断され、必死にに抵抗していたアメリカの腕が、力を失って垂れる…絶命。

ゴミのように投げ捨てられるアメリカの上半身…。
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(チャッピーとゲンコツをぶつけ合った挨拶のシーンが走馬灯のようによぎる。)


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ニンジャがキレて「オレに同じ事をやってみろ!」と挑発し、銃を乱射する。

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MOOSEに立ち向かうチャッピーの抵抗…。

そして、ヨーランディが撃たれる…。

……………………………。
(以上は、イメージです。)

クライマックスでのアメリカの死は、想像以上に衝撃的だった。

まず、ニンジャの言った「同じ事」は、アメリカの胴体切断を指す事がわかった。
その後にチャッピーが、ヴィンセントを追い詰めた時の怒りの動機も、この2秒のシーンに回帰する事が分かった。2人の怒りは、目の前で仲間を残酷に殺された怒りなだったのだ。
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失われた2秒の重要性はそこだけではない。ヒュー・ジャックマンが演じるヴィンセントを保守的なクリスチャンとして描写している。恐らくは米国で最も多い、プロテスタント系のバプテストだろう。彼がAIの話をする時に十字を切る事は、多くのレビューでも指摘されている。神への冒涜だとの信仰心から、人の形をした自立型ロボットや、意志を持つ人工知能は認めない。ロボットは人間が操作するべきだとのプロテスタントの思想から、あのMOOSEは作られているのである。
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安全な場所から、遠隔操作のドローンで、顔が見えない敵を相手にゲーム感覚の殺戮を楽しむという、残忍な罪でもクリスチャンなら「神を信ずれば、あらゆる罪が赦される」との都合のいい信仰によって、全てが正当化されてしまうのだ。これは、まさに現在の米国そのものではないか!ここで、ブロムカンプ監督は、今の米国を揶揄しているのである。MOOSEに無残に殺される彼の名前を考えれば、物凄い皮肉を見せている事に気付く筈だ。
(以下、ややこしいので、国家のアメリカは「米国」、人名のアメリカは「アメリカ」と表記する)

ギャングのアメリカは、米国が大好きだったからこそ、アメリカと名乗り、米国に憧れていた。
かつては米国は夢が叶う国と呼ばれた時代もあった。だが今の米国はどうだ?格差が広がり、管理層は安全圏から遠隔操作して、現場に行かずに別の者を送り込む。労働者や兵士をコストと呼び、ロボットと同じで使い捨てだという思想だ。ツライ仕事は機械に任せれば楽になると言い続け、機械化で企業は利益を上げつつ「人件費=コスト」を減らした。機械化が進み失業者は増え、貧富の差が開き犯罪が増えた。コレが今の米国だ。昔良き米国に憧れてアメリカと名乗ったギャングは、現代の米国を揶揄したキャラクターに、無残に殺されたのである。
多くのレビューでは、ヴィンセントはアメリカに対する揶揄と読解しているが、失われた2秒を加える事で、それが単なる揶揄ではなく、作品のテーマへと繋がっている事がハッキリと判る。

そして.クリスチャンのヴィンセントは皮肉にも、神にではなく、チャッピーの慈悲により赦しを受ける事になる。
この赦しも、初見では正確に意味を捉える事ができなかった。チャッピーには既に自分と「創造主」を救うミッションがあり、成功すれば、ヨーランディも救える可能性もあると、それを優先させる為に、打算的に「赦した」と誤解していた。しかし、チャッピーは、ヨーランディだけでなく友達をも無残に殺した者を赦したのだ。ここで、死には死をという報復を否定しているのである。
ブロムカンプ監督は、矛盾した米国の姿を、最もショッキングな形で見せたかったのである。ただのグロシーンではなかったのだ。
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結論
この作品は、ロボットの目線で機械化へのアンチテーゼを送った、極めてユニークな作品だった。失業者が多くなれば、生活困窮者が増えて犯罪も増える。ギャングはその代表だ。それは遠い未来の話ではない。この映画では来年の2016年に設定している。そして、尊い犠牲を払って得た未来に、少しだけ明るい希望が差す。警察は100体導入する予定のスカウトをキャンセルし、新たに10万人の警官を増員すると発表する。雇用が増える事で、治安が改善に向かう未来世界を予感させている。

かくしてチャッピーとその家族は、世界初の意識を移植したロボットの家族となった。ニンジャも、きっと羨ましくなって「俺もロボットになりたい」と言い出すに違いない。この辺りをアッサリと処理し、一切葛藤などを描いていないのも、実に潔い。それは、今までの映画で散々やって来た事なので、今更それを見せるつもりはないとの姿勢だが、ここでそれを描いていないのは、保守派のクリスチャンたちが拒絶反応を示すテーマだったからだ。彼らは、どんなに説明しても、絶対にそれを認めない。肉体を離れた精神が存在出来るのは、神のみだと信じているからだ。科学にそんな事が出来てはならない。それこそ、最上級の冒涜なのだ。と、倫理感を持ち出すのは、決まってクリスチャンだった。かつての映画は、そのクリスチャンを説得する為の説明をしていたと言っても過言ではない。よってこの映画のテーマから考えれば、彼らに説明する必要がない事がわかる筈だ。

この映画の真のテーマは、キリスト教の名の下に米国の自己の幸福のみを追求する保守派のクリスチャンが作って来た利己的な機械化(=合理化)を批判し、それを捨てれば平和な世界を創る事が可能であると、この映画は言っているのである。ブロムカンプ監督は『第9地区』人種差別を、『エリジウム』では格差社会に対して怒り持っていた。『チャッピー』では、何に対して怒りがあるのか、初見では分かりにくかった。だが、失われた2秒を足した事で、全てが繋がり理解できた。彼は遠隔操作で無残に切り取られる命を見せる事で、米国社会が行った他国での残虐行為、引いては原因となる保守派のプロテスタントの合理主義に怒りをぶつけていたのだった。


・課題
カットされたシーンがあるのとないのでは、僅か2秒であっても作品の見え方を大きく変えてしまう事がわかった。
今回は、カットされた部分がどんなシーンかの情報を得る事ができ、このように脳内補完して検証をし、本来の作品のメッセージを推測する事ができた。

カットされる事で、作品本来のメッセージが掴みにくくなる事がある。あらゆる作品は、カットされずに公開されるべきであるとの思いは、更に強くなった。
確かに、洋画をかける映画館も減少している中でR18作品は、TVCMができなくなるなどの広告的リスクが多い。宣伝されない作品は、劇場が上映したがらない。上映されなければ、動員数も更に減少する。R18のまま公開しても、動員が見込めるのなら良いのだが、残念ながら現状そうではない。今の日本は、この程度なのだ。

このような市場で、R18作品のレーティングを下げ、動員数の向上を図ろうとする配給会社の戦略もわからなくはない。だが、まるで本国で監督の賛同のもとに編集したかのような文言で、どこを編集したのかを公表しない。また、オリジナルは公開しない。質問も受け付けない。など、聞く耳持たない姿勢は、映画芸術を冒涜し、消費者をバカにし過ぎている。その上、謝罪どころか言い訳もない。ソニー・ピクチャーズjpの態度は、許し難いものである。
今後も残酷表現のカットはあるだろう。規制と言われているが、コレは自粛である事を間違えてはいけない。映倫が判断するのは、視聴に好ましい年齢であり、カットを指示するものではない。その判断の基に、カットするかしないかは、配給会社の判断である。監督が契約を交わしていれば、最終編集権は監督の手にはなく配給会社にあり、監督の承諾なく、カットされて上映される事も理解している。今後も多くの映画がカットされて上映されるだろう。そしてオイラは、カットする事自体を赦す事にした。映画は娯楽であり産業だ。企業の利益追求を否定はしない。だが、許し難いのは、配給会社の不誠実さである英国などでは、カットされたシーンの告知をする。カットされた理由、その場所と時間などが、配給会社から発表される。それにより消費者は、鑑賞の選択材料ができる。

だが、我が国に於いては、慣習としてそれは一切行わない。リスクを回避する事で、観客に不都合な真実を隠している。この業界の体質が、『ぼくのエリ/200歳の少女』で、無いモノにボカシを入れて、去勢された少年を少女にしてしまい、観客の判断を大いに狂わせ、ミスリードさせるサブタイトルを付ける悪質な配給をしたり、『ベイマックス』ではレーティングとは関係なくのラストを意図的に、キャラクターのイメージを販売に繋げるため、ロゴとセリフの改変を行い作品価値を貶めたりするような、惨状を生んでいる。
社会的な事情で、カットや修正がされるのは仕方ないが、垂れ流しのTVとは違い、映画館とは、対価を払い、それを観る覚悟が出来ている人が行く場所であるという事を考えるべきである。
それでも、修正せざるを得ない事があろうとも、映画の内容やメッセージ性を修正してはいけない。

昨今の我が国での映画事情は、リスク回避だけを優先し、都合のいい事しか言わない。今回の件を通し、映画のシーンの重要性を再認識する事が出来たのは、とても為になった。
我が国に於いても、配給会社の運営が健全化され、まず、カットや修正シーンの公表をするようになればと、強く願っている。