聖書を理解する 11号 | イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡自分は本当に救われるのか

●考察➡世界最大の問題と自分の人生の問題はイエス様を信じるかどうかなのですが、まるで関心の無い人もいますし、イエス様は身代わりの「いけにえ」だと信じて救われたと思い込んでいる人もいます、聖書によればイエス様は2000年ほど前にユダヤの指導者にメシアでは無いと否定され、ねたまれ、呪われて殺されました、間違い無く殺されたのですが、パウロと言うパリサイ派の秀才が初期のキリスト教会に現われて指導者になりました、パウロに反対する人もたくさんいましたがパウロの聖書知識を越える人がいなかったので、パウロの知恵に「まるめこまれて」しまったのです、今の時代でもパウロの書いた手紙は難解で何を言っているのか分からない内容なのです、ハッキリしていることはイエス様は「いけにえ」だったと宣べ伝えていることです、旧約聖書の「救い」をそのままイエス様の十字架に当てはめたのです、確かに旧約聖書では「いけにえ」は罪人の代価を払う「あがない」の方法なのですが、イエス様の救いは代価を払わない「あわれみ」による救いなのです、メシアのいない時代には自分で代価を払うことをしたのですが、本当のメシアが登場したので「あわれみによって救われる」という業が完成したのです、新約聖書のイエス様の活動を理解すれば無償で罪を許して癒していたことが分かります、旧約聖書の時代では罪の代価を払っていたのですから、大きく救いの方法が違うのは理解出来ます、イエス様の救いは無償のあわれみの救いであると理解出来ればパウロの教えは間違いであることが分かります、イエス様は十字架に架からなくても人の罪を許すことが出来るのです、十字架に架けたということはイエス様を否定し呪ったことなのです、イエス様の十字架は自分の罪の身代わりだと信じて最後の審判まで行けばどうなるか、イエス様の言葉を聞けば分かることです、キリスト教会のパウロの教えが正しいと信じて生きれるのは最後の審判までです、審判までは自分は正しい信仰をしていると自信満々の様子は理解出来ますが、イエス様の裁きではウソ(偽証)は通用しません、イエス様殺しは殺しと罪を認めて「おわび」をするのが聖書のポイントなのです、聖書とは自分の罪を認めて改心してイエス様の言葉に従うことなのです、最後の審判まで自分の罪を認めること、最後の審判までイエス様の言葉に従えないのが「人」なのです、どうして最後の審判があるのか、それは最後の審判まで人は反抗するからです、最初のアダムエバから最後の審判まで人は神様の言うことを聞かないということが聖書に書かれているのです、神様の言うことを聞かない罪人を救うのがイエス様(メシア)なのです、自分はイエス様の言うことを聞いていますと言う人は救われないということになります、イエス様の言葉を聞いても従えないと理解することが聖書の理解です、自分はイエス様に従っていると思い込んでいるのが「高慢」です、聖書の構造は神様の言葉を聞いても、次に悪魔が来て誘惑される、次に自分の生活で信仰が薄くなるのです、ですから自分は悪魔にだまされて、生活に追われてイエス様信仰が「ダメ」だと言う人を救うのです。