母校第一中学 | 三和町を語り継ぐ会のブログ

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三和町を語り継ぐ会 - 住宅営団がつくり、住民たちが育てた町

は開校から68年 あと2年で70周年を迎えるそうです。蕨は一中ができるまで中学校はなかったことから、旧制時代は、浦和中や川口中、川口工業中、浦和第一女学校、浦和市立女学校、川口市立女学校(このほか私立もありましたがが割愛します)に進学したという大先輩もおられるかと思います。

蕨に中学を設置することは、戦前からの念願であった可能性が高く、それを当時の町長 高橋庄次郎さんが頑張って設置にこぎつけ、校長先生には、当時広くその名を知られた梅沢九十九先生を招聘して、わが母校はスタート切ることになります。

一中の土地は、三和町住宅の土地や線路を挟んで反対側の一体を所有していた東京の木村さんから蕨町が購入しています。木村さんが所有していた土地は、ご存知のように、星製薬の創業者であった星一が、新工場と工場に務める人たちのための住宅地を建設するたに所有していたものを後に買い受けたものです。ちなみに、星製薬はかなり乗り気で計画を進めていたらしく、その名残が昭和30年代までありました。それが「緑が池」です。「緑が池」がきれいだった時分は、ここで水泳をしたという人、また釣りをしたという人もいると思います。後には不法投棄場所になってしまうという苦い歴史もあります。

「緑が池」は、星製薬が線路より東側の土地に建物を設置する場所を確保するため土盛りをするに当たって開削したもので、工事は大正時代に終えていたようです。「緑が池」跡はご存知のように武南高校がある場所です。

一方、西側の一中を含む三和町住宅の部分は、これから遅れ戸田ボートコースが設置される昭和になってから、戸田ボートコースの開削で生じる土砂で土盛りがされています。改作した土砂はトロッコで運搬され、運搬には囚人が参加していたことはご存知の通りです。なお、この土盛りと三和町住宅は直接の関係はなく、木村さんが個人的にななにか計画していたことからこのような対応をしたと考えられるところです。それがなにかはわかりませんが、木村さんが住宅営団に三和町住宅の土地を売却した際は、土盛り後なんら手を加えていなかったこと、いくつかの場所は小さな山のようなっていたこと、葦が背の高さくらいまで生い茂っていたことから、当時の新聞記事にあるよう「昼寝の土地」であったわけです。これに住宅営団が白羽の矢をあて、三和町住宅は誕生することになります。

なお、一中と三和町住宅の境を走る県道蕨川口線は、以前の日記にも書きましたが、そのルートが昔と異なり(沖電気のところを塚越に抜けるものでした)現在の位置に認定されたのは戦後のことです。また、当時の道路幅が狭かったことから、昭和30年代には一中側で拡幅工事が行われ、今のような姿になっています。

ちなみに、今も県道から一中校門に至る道路脇には電話ボックスがあると思いますが、これはかなり昔からあって、拡幅工事の際に撮影された写真にもその姿が写っています。ダルマ屋さんも当時は木造平屋でお店の前に模型が飾られていました。
さて話は戻って一中となります。卒業生なら記憶の片隅にあると思いますが、年に一度、校内誌「芽生」が発行されていました。1年から3年のクラス紹介や学年歴、なかでも注目は卒業にあたる学年は生徒一人一人が卒業にあたってコメントを寄せていることです。この中身がなかなかに面白いというか、時代を表しているというか、真面目なコメント、当たり障りのないコメント、ビックなコメントと、同窓会があったら確実に笑いネタになる内容です。自分の場合は、当時、発行されていた「クリクリ新聞」という新聞に何故か載っていたことを書いています。みなさんはどのようなコメントを書きました?