【ネタバレあり】魔法少女まどか☆マギカ 願いと呪いの相転移(恋と創作とアイドル) | ムッシュ速報(Theムッシュビ♂ト公式ブログ)
「魔法少女まどか☆マギカ」の作品世界に於ける論理の柱はこうだ。

①少女は「どんな願いでも一つ叶えてもらう」という条件で「魔法少女になる」契約をキュウべえ(=インキュベーター)と交わし、敵である魔女と戦う。

②魔法少女は自らに蓄積された呪い(「ソウルジェムの濁り」)が臨界点に達すると魔法少女から魔女へと堕ちてしまう。

③インキュベーターの真の目的は魔法少女が魔女へ堕ちてしまう(「願いと呪いの相転移」)ときに発する膨大なエネルギーの回収。

(インキュベーターは感情という概念自体がない存在の為、このシークエンスに於ける少女個人の喜びも苦しみも理解できない)


この論理性がゆっくり明かされる中で、そのルールに抗おうとする「個人の意志」が辿る道、それがこの作品の物語性の軸だ。

今回公開された「新編」の前作ラストは、ずっと魔法少女になるという契約を結ばなかった主人公・鹿目まどかが「この世界の過去・現在・未来から全ての魔女を失くすこと」という願いと引き換えに魔法少女になるというものだ。
しかし、その願いはこの宇宙の作りそのものを変えてしまうものであり、まどかは別の宇宙に存在する「魔法少女が魔女に堕ちてしまう前に魂を救済する為の概念」(=「円環の理」)となってしまったのだ。

このラストによって先述した①~③の論理性は改変され、

◯魔女となるべき魂は「円環の理」に導かれて救済される

というものになった。


さて、ここで話を僕の私的なものに移そう。

Theムッシュビ♂トは私小説作家であり、プライベートを切り売りする形で創作している。そしてその作品の主題は概ね「恋」である。

「願いと呪いの相転移」という考え方が最も如実に現れるものが恋愛だと個人的に思う。

誰かを好きになることはその時点で「契約」であり「願い」の始まりだ。
しかし、上手くいかない、失恋するなどの状況により「呪い」は蓄積され、「相転移」によりエネルギーを放出する。
その「エネルギーの回収」がインキュベーターの目的である「宇宙の維持の為」ではなく「創作」に使われるのが、僕のような私小説作家なのかもしれない。つまり、魔法少女(→魔女)とインキュベーターが同じ人格の中に同居しているわけだ。そう考えると作家とはつくづく残酷で冷淡なものだと思う。

さて、ご存知の方も多いと思うが、僕は昨年秋頃からBerryz工房の菅谷梨沙子に恋している。
タイミング的には「願いと呪いの相転移」を経験し、「魔女となってしまったあと」である。

「アイドル」をこの図式の中に例えると、正に「円環の理」である。
自分が知覚できない宇宙に存在し、恋(=願い)が呪いに変わる前に救済し続ける概念だ。

僕の恋愛感情はこの「改変された世界」の中で「叶うことも呪いに変わることもない」図式の中に閉じ込められたのである。



さて、話を「新編・叛逆の物語」へと移そう。
「新編」はこの「始まりも終わりもなくなった筈の世界」から始まる。
いきなり結論を話してしまうと、その世界は(「円環の理」の力が及ばないフィールド内で)既に魔女となっていた暁美ほむらが作り出していたもので、最終的にまどか(=「円環の理」)が救済の為に現れるのだが、ほむらはそれを拒絶し、まどかへの「愛」ゆえに神(=「円環の理」)と同じ力を持つ「悪魔」になるというラストだ。

このラストには賛否両論が巻き起こっているのだが、僕は賛である。

確かに演出的にはまどかがほむらを救済した方が感動的だったのかもしれないが、それだと作品世界の論理性は新編が始まる前(「後編」やTV版のラスト)と変わらないのである。

そして、ほむらが口にした「愛」は願いでも呪いでもない。「でもない」というよりは双方を包括する概念だ。

そして、少々皮肉っぽい演出ではあったけど、あのラストは前作ラストで「不特定多数を含む他者を救済する為に自己犠牲を選んだ」神まどかのアンチテーゼとして「自らの為に神と同じ力を持った」悪魔ほむらという考えを提示した時点で大きな価値を持つと思う。

わかりやすいハッピーエンドとは言えないが、思考実験として凄く刺激的なラストだったと思うのだ。

こんな長々と書いたけど、小難しい考え抜きにして、映像や演出のアイデアの豊富さ、絵としての面白さはここ数年のアニメの中でも最高峰の一つだと言えると思うので是非見て下さい。









さて、僕の物語はどこへ向かうのかね笑