~天地明察~
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やはり冲方丁の実力は確かだ。
従来SF~ライトノベル分野でしかも設定や文体が難解な部類に入る彼が、時代小説とは!
しかしそこは冲方丁。
思えば『ピルグリム・イェーガー』や『シュヴァリエ』は時代伝奇物とも呼べるジャンルだった。
そういった素養に加えて本物の風格漂うエンターテイナーの才覚。
それは如何なるジャンルの文芸作品についても同じであることを認識させられた思いだ。
話は、江戸時代の棋士にして貞享暦 の製作者、渋川春海 の一代記。
時代小説の面白さというのは、まず第一にキャラクタとその行蹟の面白さ(これは完全なフィクションにも共通するだろう)そしてそれ以上に重要なのが一つ一つの事実を埋める発想力だ。
歴史人物というのはピンキリあれども記録の中にしか残っていない。
つまり人物の情報が欠損していると言うことでもある。
その人物の情報を歴史的事実や情勢と繋ぎ合わせて、あたかもそれが真実であるかのように思わせ、物語やテーマに深み、面白味を与えることこそが時代小説の魅力だと思う。
飯嶋和一の『雷電本紀』や浅田次郎の『壬生義士伝』などは非常に面白い時代小説だが、正直読んでいて「こりゃねーだろwwwww」というほど鮮烈でドラマティックな場面に遭遇する。
実際、浅田次郎に至っては壬生義士伝の虚構性について自らカミングアウトしているし、他の作品でも明らかに無理矢理な解釈をしている部分が見受けられる。『蒼穹の昴』に至っては西太后が悲劇のヒロインみたいに描かれている。
だが、史実など二の次だ。
(もちろん土台として参照しているのは前提、調べた上での虚構性こそが面白い)
その解釈の面白さ、本当ッぽさこそがエンターテイメントとしては重要なのだ。
それがリアルとリアリティの違いでもあると思う。
冲方丁はまさにその肝心な部分を掌に収め、渋川春海という風変わりな男の人生を構築せしめている。
まず春海は天才ではない。
客観的には才気煥発で英明な男なのだが、どうもパッとしないのらりくらりとしたキャラとして描かれる。
侍のような立場にもなじめず、棋士としても迷いがあり、しばしば己を恥じたり情けなく思ったりする。
頭がいいけどちょっと抜けてる憎めない男だ。
それに対するのが関孝和で、こちらは後半まで直接登場しないにも関わらず圧倒的な凄味と存在感を持ったキャラとして描かれる。
彼らは間接的に交流し、後には直接対面することになるのだが、史実に載りにくい(公的な場ではない)エピソードが主流になっているので恐らくこの辺りも大半は創作であろう。
春海の碁に対する迷い、関孝和への尊敬と劣等感などは冲方が考え出した春海像なのだ。
『天地明察』の春海にとって関孝和はなくてはならない存在で、天に輝く太陽の如き男としてある。ここに登場人物のドラマ性が非常に強く出ており、関孝和に対する憧れも畏れも、読者は我が事のように感じられ、心を打たれる。
春海という名前の由来にしても、恐らく種々の資料を参考にしてはいる。
けれどもその裏にある感情は冲方丁が文献を読み込んで眼光紙背に徹した上でその心を汲み取ったものだろう。
だからこそ春海の心情は切実で、その一喜一憂は我々の心にも染みる。
碁打ちとしての初手天元という打ち方に関する逸話の解釈からもそれは分かる。
暦というものに関する特殊性、様々な時代の鼓動、それに関わる男達を重ね合わせ織り交ぜて、『天地明察』は創られているのだ。
登場人物がまたいちいち男らしくて泣ける。
時には優しく、時には厳しく春海に接し、春海もまた彼らに感銘を受けて成長していく。
ここには誠意がある。
冲方丁の作家としての誠意であり、江戸草創期の一大事業に懸けた男達の誠意が。
こんな作品が面白くない訳がない。
作中で、春海が柏手を打つシーンがある。
左手は火足すなわち陽にして霊。
右手は水極すなわち陰にして身。
柏手とは、陰陽の調和、太陽と月の交錯、霊と肉体との一体化を意味し、火と水が交わり火水(引用者注・ふりがなは「かみ」)となる。柏手は身たる右手を下げ、霊たる左手へと打つ。己の根本原理を霊主に定め身従う。このとき火水は神に通じ、神性開顕となって神意が降りる。
手を鋭く打ち鳴らす音は天地開闢の音霊、無に宇宙が生まれる音である。それは天照大御神の再臨たる天磐戸開きの音に通じる。
柏手をもって祈念するとき、そこに天地が開く。そして磐戸が開き、光明が溢れ出る。
関孝和の稿本を前にしての柏手である。春海の孝和に対する敬意が伺える名シーンだ。
この解釈は神道の文献によっているだろうが、ここにはもう一段入った意図もあるのではないだろうか。
冲方丁の名の由来は「冲」は氷が割れること、「方」は職業、「丁」は火がはぜる意との由。
つまりこの柏手は冲方丁自身でもあるのではないだろうか。
彼はその名に引っ掛けて、
霊性を作品という形に宿し、
小説という名の天地を開闢することを職と為す
……という自負を込めてこの部分を書いたのではないか。
私が思うに、それは決して傲慢などではない。
彼は実際に自身の世界を開闢し、今なお広げ続けているのだ。