オズの異常な愛情 または私はいかに心配するのを止めて『四畳半神話体系』を愛するようになったか | リュウセイグン

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長文多し。

昨今、一部界隈では「○○は人生」といったフレーズでアニメやゲーム、または小説などを過剰に褒め称えるふりをして小馬鹿にするという日本らしい複雑な文化があることを読者諸君も知っていよう私だって知っていた。

しかし個人的な見解を述べるならば、その大半に於いて揶揄という意味でなく賛同出来るものは少ない。


私にとってそれらは殆ど「取るに足りぬ作品」であって、生暖かい目で見ようとも神の如く崇め奉る気にはなれず、少しばかり語気を強めて批判しようとも悪鬼羅刹の如く蔑如しようという思いも起きない。


だが、ここで宣言しよう。



「四畳半神話体系は人生」
だと。


考えてみても頂きたい。「○○は人生」とか「○○は人生讃歌」と言ったところで、誰がその人生に参加出来よう。

自慢ではないが私は幼少時に強盗に襲われ自分以外一家惨殺されたこともなければ深刻な夫婦喧嘩に巻き込まれて脳溢血を起こしたことも交通事故で全身不随になったこともなく、もちろん妹が病死して医者を目指したが受験当日に土砂崩れの合間に乗っていた電車がスッポリ収まって内臓を痛めつつも元気にリーダーシップを発揮しながら一週間を生き延び皆に臓器移植の崇高な精神を起こさしめた事もない。
私以外の人間だって、体験しているのはせいぜいが「妹が死んだ」「医者を目指した」「受験当日に事故にあった」「内臓を痛めたが漸く元気だった」「自らの臓器移植提供に同意した」というこの内のいずれか一つ、もしくは二つくらいであろう。

ひょっとしたらこういう現象が起きなかったのは私の幼いながらも釈迦牟尼仏もかくやと思われるほど神々しい姿が我が家を襲撃せんと舌なめずりをしていた荒くれ者のまなこに天啓の如く突き刺さってパウロもびっくりの回心をもたらし、その満面の笑みから滲み出る癒しの波動が父母の怒り猛った心に触れていい湯加減の快適さを提供せしめたせいかもしれぬ。

また日頃の行いにより神仏の加護を得て電車事故はもちろん交通事故にも巻き込まれず内臓を痛めつつも一週間病院に行かないまま元気に過ごす必要性そのものが無かったせいやもしれぬ。

だが理屈は兎も角自身の現実に起きるは盲腸や骨折ばかりで「我が人生は恐らく劇的ではない」のである。

(正直に言ってしまうと骨折や盲腸すらない)

恐らくは読者諸君も同様であろう。

平凡ではないから劇的なのであって劇的な人生が横溢していたならそれは既に倦怠期夫婦の如きマンネリであり劇とは呼べぬ。

我々の人生は概ね極めて散文的で凡庸で大草原の小さな家である。
それぞれ一時期の面白エピソードを酒宴で肴の足しに食い潰していくのが関の山だ。一方読んで字の如く当然ながら大半の物語が、我々の人生に比べて劇的である。

けれど意志による苦悩の乗り越えでもなく、それ自体を読者視聴者諸氏に問い掛けるでもなく、彼ら自身の特殊な都合と特殊な世界の構造のみでアッという間に解消されてしまう葛藤を、誰の人生に当て嵌めて考えればよいのだ。


「四畳半神話体系もまた劇的ではないか」


と、私に比肩しうる鋭敏な灰色の脳細胞を以て問われる方もいよう。
さもありなん、これもまた平行世界・ループ物として成立しているという意味に於いては特殊な作品である。しかしながらもう一歩、女子トイレの前から踏みだし扉を開けておもむろに便座へ蹲踞する気持ちで考えて頂きたい。

主人公の「私」は内在されている「薔薇色のキャンパスライフ」への可能性を追求し、様々なサークル活動にいそしんでいた。

しかしその過程で必ず悪の権化というよりも悪の煮こごりを煩悩の出汁汁で煮染めたような小津がつきまとい、自らはモチグマンを手慰みに弄ぶばかりで明石さんに渡すでもなく猫ラーメンを食すでもなく恋愛映画を撮るでもない。

無為、圧倒的無為である。


種々の可能性を轢きつぶし平面にしていく有様はあたかもロードローラーの如しであり、これがまだ耕耘機であれば掘り返せるだけ何某かの変化が生じていたであろう。


だが思い返してもみよ。


我々――すなわち私と不本意かもしれないが取り敢えず同列に置かせて頂いている読者諸氏の人生もまた限りなく近いのではないか。


人生が繰り返せば、人生がもう一度あれば。

我々の多くは何処かで(おもに苦悩している時に)そう思う。
思いもしないのは兜甲児くらいのものだ。

けれどたとえ幾十回繰り返し、もう百度あってもその時々の人生において後悔しないなどと言うことがあろうか(いや、ない)


責任者は誰か、それは私である。

運営者は誰か、それも私である。
経営者は誰か、結局は私である。

環境に左右される要素もあろう。

だが基本的に私の人生は私の物であり、またその責任も最終的には私に返ってくるのである。

ならばクレタ迷宮の如き人生の可能性が我々の現前に広がっていたとしても、実際に踏破していくのは困難を極める。


諸君は白皙美貌の黒髪の傾城(乙女でも可)が酔漢に襲われていたら颯爽と助けるだろうか。


他の好漢が憤然として割って入り、その数ヶ月後に好漢と傾城が連れ添っていたなら「あの時憤然と立ち上がっていれば」と思うであろう。けれども実際にはその場面を繰り返したとして躊躇いはしないだろうか。


私は躊躇うつもりなど毫末もないが、「あの人たちはひょっとしたら犬も喰わない痴話喧嘩をしているに過ぎず、中に入った私が逆に空気が読めない男として白眼視されるやもしれぬ」「男が銃刀法違反に触れるような飛び出しナイフなどを所持しており、やおら私の肝臓を抉り抜いて美味しそうに咀嚼するやもしれぬ」といった想定すべき可能性を明晰な頭脳で検討し対策を練っている最中に他の好漢が憤然として正義の鉄槌を下す恐れも大いに考え得る。


また明晰な頭脳で計算し尽くした挙げ句おもむろに立ち上がり、反射的に三十六計を上回る見事な計略を用いて乙女を救い出したとしよう。


そこまではいい、そこまではいいが一時的な感謝の念を利用して男女の縁を結べと言うのは清廉潔白な人生を歩んできた私には耐え難い愚行でありそんな不埒で卑劣な行為は断固反対ではあるが乙女が熱烈な思慕の念を私に向けてくるならばそれを蔑ろにするのはむしろ不誠実と言うべきであるから意気揚々と応えたい。応えたいがどう応えればいいのかは純真高潔な人生を送ってきた私にはフェルマーの最終定理よりも難解な問題であり、よって正解は薮の中である。


たとえその場で応対し始めるうちに己の隠されたジョニーの願望いや原始的本能もとい桃色遊戯の才能が覚醒し、その恐るべき手練手管によって乙女と懇ろになったとしよう。

しかしその後乙女乃至私自身が謎の奇病に伏せって息絶え、或いは道路に飛び出した仔猫乃至幼女を助けようとして死んでしまえば元の木阿弥どころか絶望の奈落へバンジージャンプし、残された方も悲哀の余り七孔噴血して他界するに違いない。

もしそんな状態になるなら凡庸に生きた方がお互いの為であり、見事なWIN―WINの関係として各界からも絶賛されよう。


ひょっとすると完璧で一切不満のない人生も存在するのかもしれない。


ただし無限の可能性からそれを見付け出すのはウナギ掬いの道具でタクラマカンの真砂乃至砂礫の中から一粒の黄金を探るに等しい行為である。

諸君は、いや人はその作業に耐えられるだろうか。
見つけたとして、その不満のない完全な人生は探し続けた労力と釣り合うだけの価値があるのだろうか。

そこで、この「八十日間四畳半一周」である。

これは原作の解説で佐藤哲也氏が指摘しているとおり、「私」の可能性・可変性の象徴であると同時に、いやそれ以上に「私」の不可能性・不可変性の結果である。
樋口師匠の

「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」

(角川文庫版『四畳半神話体系』150~151頁)

という言葉はまさにそれを指摘している(と、佐藤哲也氏は仰られている)


そしてこれは、我々自身の人生でもある。

八十日間の四畳半旅行で「私」は悉く他の可能性を羨むが、その可能性を選んだ「私」からすれば羨まれる程の物ではない……ということは我々も共に観てきた通りである。
どうあっても「凡庸で不満が募る人生」であって、そこに大きな差はない。
せいぜいが香織さんの別荘になっているか半七捕物帖があるか、悪友とどれだけ緊密に接触しているかくらいのものだ。

で、あるならば「凡庸で不満が募る人生」をどうアクションして改変していくかではなく「凡庸で不満が募る人生」にどういうリアクションを取るか、という問題足り得る。

我々の過ぎ去りし人生もまた同様である。
変わらないのならば、どう捉え、どうするか。

「八十日間四畳半一周」の「私」は小津と関わる可能性までも閉ざしつつあった。


この小津というソドムとゴモラから男女を取り寄せて息子を作り、それに「深きものども」をあてがって産ませたような男は、実はいずれの「私」の人生に於いても八面六臂の活躍で類い希な才能を発揮し、闊達自在な人生を送っており、性格と容貌以外を羨望の眼差しで焼き尽くしたくなるような人物である。


その小津が如何なる世界でも「私」を友人として認め、運命の黒い糸で結ばれる仲を自認する絆は、(本人が喜ぶかどうかは兎も角)実のところ「私」にとって非常に得がたい物であるのは間違いないであろう。


無限の可能性と不可能性がシュレーディンガーの猫よろしく存在する、この凡庸な人生をどう受け止めるか。

そこで期すと期せずと絡まってくる赤・黒・黄・桃・白といったモチグマン並に多様な運命の糸をどう捉えるか。

そのような意味に於いてまさに「四畳半神話体系は人生」と声高に主張し、この話は「あなたの人生の物語」ではなく「私達の人生の物語」なのだと断言して憚りたくない心持ちであるが、読者諸氏は如何であろうか。