『四畳半神話体系』最終回           ~2010: Yojohan Odyssey~ | リュウセイグン

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原作越えた。




原作が『八十日間四畳半一周』でアニメが『四畳半紀の終わり』、更には前回エントリが

『オズの異常な愛情』
(本当は語呂も良いし副題「または心配するのをやめて四畳半を愛するようになったか」だったんだけど、お話的&テーマ的に四畳半から脱出する話なのでああなりました。あと正確には『オヅ』だったわ)

なので対抗してやりたくなったのですが、なかなかコレという物がない。
ヴェルヌの作品って結構タイトルシンプルなんだなー。

あ、『気球に乗って四畳半』とかは行けるかもしんない。
飛行船出てきたし。

最終的にアニメ版の感想なので、アニメのタイトルとも前回のタイトルとも関わりのある方向で一つ。
聊かヒネリが無さ過ぎるかも分からんね。

ある程度原作との対比をさせながら語っていきたいと思います。
まず大きな流れで違うのは、原作だとどの人生でも明石さんとくっついておきながら主人公は不満だってこと。正直、これだと全国の純潔なアニメ男子諸君からは

リア充爆発しろ!!!!!

もとい


改心しろ!!! 改心しろ!!!


のシュプレヒコールが上がることだろう。
で、アニメに於いてはどれも結ばれないと言う形になっている。
「いつどうやったら結ばれんの?」という興味を長持ちさせる効能も果たしていたと思う。

また、前回エントリでも少し触れたように原作では「不可能性」という部分が強く出て、自身の人生を受け入れるという意味合いが大きい。
『八十日間四畳半一周』も福猫飯店の人生から分岐していてサークル活動バリエーションの一つに過ぎず、ある程度は小津などの交流があり、その上で不満を残しつつも人生に納得する形で終わる。

しかしアニメではそれをもう一歩進めて、殆ど人間関係そのものが絶えた主人公として描き、その視点から他の人生に於ける「私」の人生や人間関係を俯瞰する形に変わっている。

つまり引き籠もり四畳半地獄の人生は、他の人生の下位互換として描かれているのだ。
もちろん、他の如何なる人生に於いても不満たらたらなのだが、少なくとも他人と交流し、いがみ合い、恨んだり喜んだりという交流をしているのに対して引き籠もり人生ではそれすら殆ど存在していなかったことになっている。

手を伸ばせばどのような形であれ一緒になれた人々すら、見過ごしてしまった。
特に小津の事を考えて涙が畳に落ちるシーン、敢えて顔を見せずに落ちた跡だけで表現するのが上手い。
今まで妖怪だの疫病神だのとして扱ってきた男の重要さ。
「妖怪という人は根性がねじ曲がっているのであろう」という言葉は相島を指すと同時に、今までの人生に於ける「私」の事にも繋がっていて意味深だ。

ただ、重要なのはここで「私」が彼らから離れた(というかそもそも交流を持たなかった)からこそ、その重要性を再確認出来たという点である。
普通に関わりを持っていたら、やはり文句を言うだけの存在であっただろう。
自分事ではなく他人事として人生を俯瞰したから、初めてその素晴らしさが分かるのだ。

これは『素晴らしき哉、人生!』 にも通じるテーマかもしれない。

その小津に危険が迫っているという危機感。

また明石さんに関しても従来とは明確なスタンスの違いを見せている。
それまで「私」は明石さんに対しては、明らかに気があったにも関わらず距離を置いてきた
あの饒舌な地の文ですら、一言も「好きだ」とか「惚れた」に類することは言っていなかった。
けれど、この私は四畳半世界に迷い込んだせいか、ハッキリとその言葉を口にしてアプローチすると決意する。

するともちぐまが、各四畳半の壁を越えて重なる

蛾が出現して終われるように外へ出れたのは原作と同様ではあるが、重要なのは「私」の意志が介在しているかどうかだ。原作では占い婆からのキーワード「コロッセオ」に似た状態の歯を見付けて、その後脱出に成功する。けれどアニメでは自身の決断と蛾の出現→脱出が噛み合っている。
これはやはりアニメとして重要な部分だ。

外に出て、並行世界が重なるように町の人の衣服が替わる。
思えば四畳半の背景はほぼモノトーンで構成されていた。
きちんと色が付いているのは恐らくだけどカステラ、モチグマンのマント、香織さんや『海底2万マイル』と言った「外部に繋がっている小道具」だったように記憶している(魚肉ソーセージとか色ついてたか?)
脱出した今、極彩色に広がる光景がまた感慨深い。

更に遠眼鏡で川向こうに小津達を見付ける「私」
その表情の変化が、本当にグッと来る。
この人生では全く手を伸ばして来なかったあの人々が、此処にいる。

小津の名を呼びながら走る「私」
それぞれの世界の「私」の服装に替わりながら走り続ける。
彼らもサークル運動はしていたけれども、肝心なところでいつも間違ったり躊躇ったり失敗してきた。
原因の大部分は私の中にある見栄やプライドからくる躊躇い・勘違いだ。
でも、今は躊躇なんてもう必要がない。
四畳半地獄から帰ってきた「私」には分かっている。
躊躇って手を伸ばさないことの愚かさを
どの人生でも一緒だった人々のことを。

ヒゲは無くなる、
服も破れる、
衒いも自尊心もカッコつけも、
全部無くなっても走る。


みんなを見付けて走るシーンは、小津を思ってカステラの脇に落ちる涙、壁越しに重なるモチグマンと並んで最終回の見所であり、アニメ作品という枠組みから観ても名シーンの一つとして良いのではないかと思う。
正直、本当に泣きそうになったよ俺は

「私」は小津に会えて大喜びだが、相手は意味が分からない。
当たり前だ、この世界の小津はゴキブリ発生の謝罪にカステラを運んだだけの仲なのだけだ。
けれども私には関係がない。他の人生で、他の四畳半でずっと一緒だったのだから。
きっと「私」は滑稽だったろう。
全裸で橋の欄干に登り、お世辞にもカッコイイとは言えない女装青年に喜んで抱きついているのだ。
あまつさえ女装青年自身もてんで面識がないときている。

でもやっぱり「私」には関係がない。そんな物を気にしていたらキリがない。
今重要なのは小津を離さないこと。それだけだ。
結局川に落ちるだけにしても。

師匠はキチンと羽貫さんを連れて行って貰う。
男としてのケジメは必要。
自分自身もまた。
モチグマンを渡して猫ラーメンに誘う。
それだけで良かったのに、適当な言い訳をしてずっと約束を果たさなかった。

「私」は彼女のモチグマンを。
彼女は「私」の愛用してきた灰色のボクサーパンツを持っている


それで充分じゃないか。

原作は、「私」の不可能性をかなり意識して書いてあるであろうことは何度か述べた。
アニメはどうだったか。もちろんそういう部分もキチンと描いた。
けれどそれに収まらず

「手を伸ばさないまま得られない可能性、
手を伸ばせば得られる可能性」


もまた存在するのだ、という所まで書き込んだ。
これは当たり前のテーマだけど、物語にはとても大切なことだ。

もちろん得られる物は僅かかもしれない。
でも、それはこの上なく大切なのだ。

最期に小津の見舞いに行く「私」だが、橋に到達してからのやり取り含めて今までの「私」と小津が完全に逆転している。また小津の表情も、今までのように妖怪じみたそれではなく、変わった顔だが普通の青年のように表現されている。逆にラストシーンで「私なりの愛だ」と語る主人公の表情は今までの小津そのものだ。

原作を読んだ時にも思ったが、ひょっとすると

他の世界の小津もまた四畳半地獄のような場所に迷い込んだのではないか。
だからこそ主人公にあれほど付きまとったのではないか。

思わずそんなことを深読みさせるような終わり方も素晴らしい。

またやや寂しげな曲調で部屋が延々と繰り返されるEDを最終回ではOPとして使い、ループを思わせるような内容を歌詞に盛り込みながらもあっけらかんとして前向きなアジカンのOPをEDに回す……という逆転の構図も「私」と小津の逆転と相まって面白い。

ラストシーンは原作準拠だったものの、一つ一つのサークル人生を緻密に描き、特に「ほんわか」では原作で殆ど語られていなかった部分を思いっ切り描きギャグとして昇華したり、モチグマンと明石さんの因縁も「私」を絡めて描いたり、最期の四畳半地獄も作品のテーマをより突っ込んでアニメ作品らしい盛り上げを作りつつ見事に落ちを付けた。

青春物語としても(私にとっては)原作以上に素晴らしいし、ミステリ的な伏線の貼り方も巧みで、アニメーションとしても動き、構図、演出など様々な部分で独創的にして飽きることがなかった。

これこそ

アニメの醍醐味にして真骨頂!

 と、掛け値なしに称賛の声を送りたい。