ヒミズ | リュウセイグン

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映画系ブロガーからはあまり芳しい話を聞かない『ヒミズ』

けれど僕にとっては正直『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』よりも遙かに心を刺す作品となった。

従って、やはり僕がこの映画の良いところを言わずに何とする……と思ったのでやや時間は経っているが書こうと思う。

では本題に入る前に。
『ヒミズ』が映画ブロガーなどからあまり褒められないのもある意味では仕方ないかもしれない。

例えばそれは原作物という要素があったり、また茶沢さんの家族や夜野さんの強盗エピソードの結末が曖昧だったりする点から言えば仕方ないかもしれない。僕は映画を先に見て、直後に漫画を読んだから、映画が中心に捉えていることは否めない。原作ファンの方からすれば不服かもしれないな、とも思う。


それでも僕がこの映画に打たれたのは、恐らく僕が東北で大震災に遭遇した被災者であり、尚且つその被災地の映画館で観たことが大きいと思う。

基本的に自分のポジションで映画評を正当化するのはあまり良いことではないと考えるが、この映画に関してはそれがまさに中核にあり、実際に他者との評価の違いの理由がそこにあると思う。


更には、この映画自体の内容が、実際大震災によって大きく変えられている部分がある。故に僕はこの特殊な立場で『ヒミズ』を語る。


あと、この映画作品について二つ。
漫画の『ヒミズ』と映画の『ヒミズ』は展開こそ似てはいるが、根本的に全く異なる作品だ。
しかも、この映画版『ヒミズ』結果として青春や思春期といったものから結構乖離した映画となっている。



つまり、僕が語る「中核」は、この二点に関する物で、これを中心に漫画版と映画版の違いを語ることが即ち僕の観た『ヒミズ』に通じる。


2作品の決定的な違いは冒頭で既に現れている。
漫画版ヒミズの最初は学校の授業中、日本に於ける死者数を語る教師と、それに関して普通と特別を意識する住田君のシーンだ。
映画版では津波の廃墟で茶沢さんが佇み、詩を暗唱するシーンになっている。

漫画版では人間の事故などで死ぬ確率を「特別」の基準に持ってきているが、それが文字通りに成立しないのは既に明らかだろう。

実際に、それ以上の人が一気に死んだ事実を僕らはもう知っている

確率は所詮、確率でしかない。
本当は、特別も普通もない
あるのは現実だけだ。



漫画・特別←→普通


映画・特別・普通←→現実




これが『ヒミズ』という作品の、漫画と映画による違いだ。

漫画の住田君は「普通」というカテゴリに自分を置き、それでいいとしながらも実は「特別」に心惹かれている部分がある。それを示すのが漫画家青年との会話であり、怪物の存在でもある。


一方で、映画の住田君は大震災という通過儀礼で普通も特別も、等しく「幻想」でしかない事を既に悟っている。しかし彼自身「幻想」に縋りたいという部分を持っている。「幻想」と知りながらそこに留まる為の普通、なのである。


ヒミズ=モグラに喩えよう。

普通も特別も、共に地中(幻想)でしかない。
漫画の住田君は特別は地上のように考えているが、その後母親が消えたり父親を殺して「特別」に近付いたように、特別だからといって必ずしも陽は差さない。
だから幻想に拘る住田君は、陽を見ることがない

映画では、住田君は地中も地上も、大して変わらないと薄々勘付きつつも、敢えて地中に潜ろうとする
だから最後には茶沢さんに引っ張り出されてしまったのだ。



映画の住田君がやたらと叫ぶのは(もちろん園子温作品だからというのもあるが)、そして茶沢さんに抵抗するのは、「現実」に引っ張られないように抵抗する為である。一種の洗脳だ。
映画では「特別」ではなく、「現実」というそれより圧倒的に強力なものが見え隠れしているので、住田君は全力で抵抗しなければならないのだ。

漫画でも本来的に普通も特別も等しく幻想であり、住田君の自意識の為せるカテゴリ分けでしかない、というのを原作者は意識して描いているが、住田君はその中にいるのであまり幻想や自意識を客観視出来ない。
だからテンションも基本的に低い。


これは漫画に登場する「怪物」に関しても同じだ。
漫画の怪物とは何か。
それは住田君の中にある「特別」さであり、自意識の塊である。
だからヤクザに頬を切られ、スティグマ(聖痕)を受けた直後やラストの決断時に接近してくる。
怪物が住田君以外の人間に見えたシーンもある。
夜野君と一緒に強盗を働いたチンピラだ。
泥棒に失敗し、居直り強盗→殺人を犯してしまう彼の自意識は肥大化する。
その結果、住田君と同じ怪物が出現するのだ。
更に夜野君を口封じで殺そうとした瞬間、夜野君が怪物と化して見えてしまう。
ここからも、怪物が自意識の象徴であることが分かる。


映画では怪物は出現しない。出てくるのは津波で廃墟になった街である。
これは自意識ではない。現実であり、単なる現象でしかない。
誰の思い込みとか誰の考え違いとか、そういうものは全く関係なくただ起きて、ただ破壊する、そういう現象だ。そこに人為を求める事自体が不可能なのである。



そういうものだ




カート・ヴォネガットは『スローターハウス5』で繰り返しこのフレーズを用いた。
人が死ぬたびに、である。
人はそこに意味やドラマを見出しがちだが、実際には人が死ぬという現象があるだけ。



そういうものだ



そして、父親殺しにも漫画と映画の差が顕著に現れている。
漫画では、客観的に見る限り父親はそれほど異常な人物ではない
恐らく定職には就いてないし、借金をこしらえているのは間違いないから褒められた人物ではないが、かといって悪逆ではない。ただフラッと来てフラッと帰る。それだけの存在だ。


住田君は父親を諸悪の根源のように憎悪するが、その憎悪の核は読者に対して「600万円の借金」という深刻そうだけれども何とかなりそうなレベルのアイコンでしか示されない。
「ダメそうな父親」ではあるけれども「死ぬべきクズ」というほど酷くは見えない。
そう、「死ぬべきクズ」は住田君の内面に投影された「俺が普通になれない原因としての父親」でしかないのだ。
だから、アッサリ殺してしまう。

映画版では、父親のクズッぷりが克明に描かれる、暴力は日常茶飯事、金を勝手に持ち出し、さしたる罪悪感も自覚もなく住田君を根本から否定する。

ところが、その父親に対しても映画の住田君は殺すのを躊躇うのだ。

これは恐らく彼が「父親」という幻想に縋りたかったからだと思われる。
しかし現実の父親はそんな妥協を許さず、素面で住田君の「父親」に対する幻想を徹底的に破壊する。その結果、殺人が起きる。


ここから住田君の内面は「普通」ではなく「特別」を基準として行動するようになる。
町中を彷徨する住田君は両者に共通するが、絵の具を塗りたくるのは映画版だけの行為だ。
これには当然宗教的な要素が含まれているだろう。
映画は取り分け「幻想」に対峙する「現実」からの逃避であるので、こういう暗示的な要素が盛り込まれているのではないだろうか。


更に漫画と映画のスタンスはバス車内の通り魔エピソードでも明確に隔てられている。
漫画だとバス通り魔を刺し殺し、茶沢さんに喜び勇んで「特別」さを強調しながら報告し、それが夢であると悟る幻想だった)

映画ではバスの通り魔も路上通り魔と同じく殺せずに捕まる(現実を見せつけられる)
路上通り魔は、人を刺してはいなかった。しかしバス通り魔は既に人を刺した。にも関わらず住田君の制裁を人々は防ごうとする。
当たり前だ、現実とは「そういうもの」だからだ。



このような根本的な認識の違いが、要するにラストの違いとなって現れてくるのである。



もちろん古谷実自身は、住田君の普通も特別も思春期にありがちな自意識の為せる業であるとして描いている
だからこそ漫画家や怪物、そして特別になった夢が出てくる。

そして終盤で茶沢さんと将来を話し合った後に「特別も普通もない」と自分に言い聞かせる
しかし、漫画の住田君が戦っているのは自意識そのものであり、この言い聞かせも実感に基づいている訳ではない。住田君の頭で考えた「現実」は結局幻想に振り回されるしかなく、それで自ら命を絶つことになる。
怪物は言う。



「決まっているんだ」



実際は全く何も決まっていない、住田君の自意識が勝手に決めてしまったのである。
だから茶沢さんはそれを見て、「なにそれ」(コミックでは削除されてるんだけど)と嘆息する。



一方映画は、大震災によって「特別・普通」などいう幻想はとうに破壊され、それでも幻想に縋ろうとする住田君の物語だった。

故に、最後の最後で「幻想を諦めてしまう」のだ。

殺したって償えば死ぬことはない。
つまらない日常をつまらなく過ごす。
何も特別でもない、普通でもない。散文的な現実がそこにはある。

住田君の人生は、殆ど何も決まっていない

認めてしまえば、それだけの話である。



しかし同時に、それは無意味な物語の開始だ。
「普通」ではないからいつ死ぬかなんて分からないし、「特別」ではないから自分の存在に劇的な意味がある訳でもない


死ぬ時は死ぬし、生きる時は生きる


そういうものだ


ただ、その「現実」の悲しさは時として幻想を上回るものだ。
だから、誰かが居てくれることがありがたい。



住田ぁ、ガンバレ!



この言葉は大変に虚しい。空虚な応援だ。
それは茶沢さんや住田君が最初の方で先生に指摘したことでも分かる。


自分は世界にたった一つの花かもしれないが、その花が綺麗だったりいい匂いだったりするとは限らない。
「世界に一つだけの花」であること自体は、現実的に何の意味もないのだ。


けれど、叫んでくれる人がいる、走ってくれる人がいる。
それもまた確かなことである。



僕が観ていた映画館ですすり泣きが聞こえたのは、単に被災地の映像が出たからではない。単に「ガンバレ」と応援されたからではない。



あの言葉の虚しさを知っているからこそ、意味がないと知りつつ叫ばざるを得ない。
現実の無情さを悟っているからこそ、無駄だと知りつつ共に走らざるを得ない。
その、哀しくも現実的な人間の在り方に僕らは涙を流したのだ。



だからこれは原作のような思春期の自意識を描いた作品ではなく、冷徹な現実を受け入れ、自意識という幻想を諦めた少年の映画である。


それが故に。

僕らの……被災者達の心に刺さる映画になったのだ。

そして、僕の中での傑作映画にもなったのである。