日本男児伝 土方歳三 ① | 中杉 弘の徒然日記

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【箱館戦争】土方歳三・最期の日の足跡を辿る

 

 

日本男児伝 土方歳三 ①

 

 3月27日のフジテレビで『奇跡体験!アンビリバボー番外編 超次元能力者VS歴史ミステリー』という番組を見ました。

 それは、超次元能力者のジャッキー・デニソンが、土方歳三の埋葬地を探す番組だったのです。北海道の函館五稜郭まで行って、土方の残留思念を感じるところを捜して歩くのです。

 土方歳三の最期だったと思われる場所へ行くのですが、史実で土方が戦死したと思われる場所へ行くと、手をかざして「ここは何も感じませんから、違います」と言うのです。

 土方歳三が最期にいたのは、北海道の五稜郭です。五稜郭は、幕府の役人が造ったのです。幕府が2つに割れて、官軍と旧幕府軍で戦ったのです。旧幕府軍にはインテリが集って、五稜郭に行ってしまったのです。

 旧幕府軍は、アメリカに渡航したことのある、咸臨丸を所有していましたが、北海道の五稜郭へ行く途中、修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれてしまいます。新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となったのです。

逆賊として放置された乗組員の遺体を、清水次郎長が清水市築地町に埋葬して、山岡鉄舟の揮毫(きごう)した墓が残っています。

五稜郭は、箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造されました。しかし、1866年の完成からわずか、2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で榎本武揚率いる、旧幕府軍に占領されて、その本拠地となりました。

 旧幕府軍の戦力は、3,500人で、新政府軍は9,500人です。五稜郭にいたのは、幕府の洋行帰りのインテリの連中です。総裁が榎本武揚、陸軍奉行が大鳥圭介(おおとりけいすけ)、海軍奉行が荒井郁之助(あらいいくのすけ)、陸軍奉行並が土方歳三です。

 土方は、学もないし、剣術一本できた男です。そのような連中とは、仲良くできません。「官軍に捕まったら、俺は殺されるだろう」と思っていたのです。だから、「俺は、ここで戦って死ぬ!」と決めていたのです。

 司馬遼太郎の「燃えよ剣」では、五稜郭での最期の戦いの前、土方の枕元に新選組の隊士がみんな出てきたのです。「近藤さん、沖田君、みんな来たのか!」という感動的な場面です。それが最期の戦いの前日に見た夢です。

 いよいよ、官軍との戦いになり、土方は指揮をとります。「逃げ帰った者は、叩き斬る!」と言ったのです。「そこで土方は、鉄砲で撃たれて戦死していた」という、一般的な話です。

明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立、歳三は救出のためわずかな兵を率いて出陣したのです。箱館港にて「蟠竜丸(ばんりゅうまる)」が新政府軍艦「朝陽丸」を撃沈したのを見て「この機失するべからず!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役大野右仲(おおのうちゅう)に命じて、敗走してくる味方を押し出し、「我この柵にありて、退く者を斬らん!」と宣告したのです。歳三は、一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦して、馬上で指揮を執ったのです。

土方歳三の最期については諸説ありますが、歳三は乱戦の最中に腹部に被弾、落馬したとされています。享年34。奇しくも盟友・近藤と同じ享年でした。榎本軍が降伏したのは、その6日後の事だったのです。

土方歳三辞世の句

「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。

「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」

 

 司馬遼太郎の小説では、「土方は、腹部を撃たれて戦死した」ということになっています。

 超次元能力者のジャッキー・デニソンが、門の近くの碑に手をかざすと、「ここでは死んでいない。撃たれた時は生きていて、夜に死んだ」というのです。土方歳三の死体は見つかっていません。どこに埋めたのかもわかっていません。

 ジャッキー・デニソンは、「土方は、夜まで生きていた。昼間に撃たれて、五稜郭まで担架で運ばれて、夜に息を引き取った」と言うのですが、どこに埋められたのかわかりません。

 「ここに土方歳三を埋葬したのではないのか?」という場所が、3カ所あったのです。最初の候補地に手をかざすと、ジャッキー・デニソンは、土方の残留思念を感じません。次の場所でまた手をかざして、土方の残留思念を感じると、「ここに感じる」というのです。非常に面白い番組でした。

 土方の家は、武州三多摩にあり、土方歳三の姉が嫁に行った家が佐藤家です。佐藤彦五郎の孫娘の福子さんが番組に出ていました。佐藤家は、江戸時代は庄屋です。大きな屋敷で柱も太い柱です。土蔵はあるし、道場もあります。

 佐藤彦五郎のお孫さんの福子さんは、とても美人です。日野には、土方歳三資料館があり、そこにも美人の管長の土方愛さんという子孫がいます。歳三さんに似ています。美形の一族だったとわかります。子孫もほっそりしていて、デブは誰もいません。

 司馬遼太郎によると、「新選組の隊士は、武州三多摩の百姓だった」と、何回も言うのです。「武州三多摩の百姓が武士になりたくて、新選組に入った」というのですが、冗談ではありません!

 佐藤家は、家の中に道場があり、家の中には1メートルくらいの太い梁の柱があるのですから、佐藤家は庄屋だったのです。庄屋は、百姓ではありません。武士扱いで両刀を持っていたのです。そんなことも知らなかったでしょう。

 百姓の親方が庄屋ではありません。庄屋さんは、身分が違います。庄屋は、名字帯刀です。「土方」という苗字も使っていたのです。土方家は、代々「土方」という苗字を名乗っていたのです。近藤さんの家も、立派な武士だったのです。

 地方で言うと、郷士のようなものです。両刀差して、裃(かみしも)を着て、お城に登場する侍ではありません。地侍(じざむらい)といい、両刀を差していたのです。

 それを司馬遼太郎は、「武士になりたくて、百姓が武士になったのだ」と言って、貶めていたのです。そのような話は、佐藤家の柱一本見ても、ウソだとわかります。

 門構えも立派な家です。こんな家が百姓であるわけがありません。事実は、違います。それも面白かった点です。佐藤家の現物が見られて大変よかったと思います。(②に続く)

 

 

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