今年を少し振り返る | DNA of DeNA

今年を少し振り返る

2012年までは社長を勤め上げようと決めていた。
正直、今でも、あと1年はやりたかったと思う。そしてそのあとも社長ではない立場でやっぱり全力でDeNAの仕事をしたかった。
株主や各方面でお世話になった方々は勿論だが、誰よりも、経営陣と社員に申し訳無い気持ちが強い。
大きな目標を定めて1合目を登りかけたところで、沢山の課題を残したままの退任となった。

人生とは思うようには行かないものだ。
でもその分、家族の絆とでも言うのだろうか、私はとても大事な拾い物をした。

家族と言っても子供ができなかった私たちはたった二人の小さな家族だ。
20年前に結婚してからずっと互いに苦楽を共にし、と言いたいところだが、実際は互いに全く干渉せず、もっぱら仕事最優先で、旦那の洗濯物は結婚以来一度も触ったことがない。10年ほど前、旦那が鯖にあたって朝方救急車で運ばれたときなどは、沙汰に気づかず爆睡を続け、その後パジャマと下着を持って来るように病院から指示されたものの、ありかがわからず途方にくれたこともあった。

そんな私には当然多くは期待されず、自由にさせてもらっていた。会社を起こすときも、借入金の個人保証はしないという約束だけさせられたが、それ以外に家族の約束ごともない。
次に生まれたときは三つ指ついてお帰りなさいと迎えてくれる妻と結婚しようか、とは時々言っていたが、指などその気になればいつでもつける、と気楽にやって来た。

ところが今年4月30日。どこも痛くないというのに怖い病名を告知され、「放っておいたら6ヶ月後には痛くなるのですか?」と尋ねると「それどころか、ご存命かどうかわかりません」と言われたその瞬間に、私の優先順位はDeNAから家族の命にバッシャンと切り替わってしまった。

アタマが真っ白になっている旦那を引き連れてその日のうちにセカンドオピニオンの段取りをつけ、お世話になる病院を決めた。写真が挿入できるマグカップを買って、二人と一匹の写真を印刷して家族マグをつくり、犬を眺められるように家中に何台かWebカメラを設置して入院。5月10日に手術を行った。
ーー

多くの方にご心配をかけてしまったが、術後は良好な経過をたどり、今ではほぼ普通通りの生活をすることができるようになった。再発が怖い病気なため、病院の治療から半分民間療法のようなことまで含め、できることは全部やろうとふたりで前向きに取り組んでいる。沢山の方々のご支援のお陰でここまで再発なく、明るい気持ちで年を越すことができそうだ。

このブログは長らく更新していなかったが、ご心配をおかけした皆さんに近況のご報告とこれまでの顛末を自分の言葉でお話させていただきたいという気持ちから、久々のエントリーをすることにした。
ーー

告知をされてから「アタマが真っ白になっている旦那を引き連れ」などと上に書いたが、実際は自分も動転しきってしまい、とても社業どころではない状態になった。社長がこれではまずいな、と思ってはいたが、はっきりと退任を決意したのは5月10日の手術の日だ。

長い長い待ち時間に考えた。なんで病気にしちゃったのか、これからどうするか。
手術が成功しても5年間は再発防止のバトルがある。簡単には治ったと言えない病気だ。

親御さんの介護をしながら仕事を続けている社員、障害を持つ子供さんをケアしながら頑張っている社員のことを思うと頑張れない自分は情け無いが、でもやっぱり社長は無理なんじゃないだろうか。刻々と変化する状況の中で舵取りをする社長はいつなんどきでも社業を最優先できないとまずいだろう。事実、告知を受けてからの10日間はすでにお粗末な状態ではなかったか。少し休業する、というのもある。でも来年には若い世代にバトンタッチしようと自分の中で決めていた。こればかりはズルズルしたくない。

いろいろ考えた結果、ここで退任し、今まで甘えて好き勝手にやって来た分、これから5年は旦那を最優先にしようと決意した。そうしたかった、ということだ。

ユニクロに行くと言うからヒートテックを買って来てと頼んだら数ある色の中からババシャツ色を選んで買って来た旦那に失望を超えて衝撃を受け、あと何年この人と一緒に暮らすんだろう、なんて思ったのは数年前。そのワタスがこんなふうに決めるなんて、人はずいぶんと変わるものだ。。

守安と春田に切り出す前に旦那の了解をとろうと、意識がしっかりするのを待った。

術後2-3日後に旦那に話すと、そうか、悪いな、とだけ言って受け入れてくれた。そこからまず春田と守安それぞれに伝えた。二人ともとにかく驚いた。それでも理解してくれて、あとは発表や次の体制の準備に取り組んでくれた。取締役の川崎と小林、アシスタントの原、それから一緒に起業した川田に伝えた。

4月下旬にCTOの新任を決め、CEO,CFO,COO,CTOを改めて世間に発表したばかりというのに突然のCEOの退任ということになり、やはり退任理由をある程度具体的に公表せざるを得ないということになった。病気の本人も気持ちよく了解してくれた。

入院中はできるだけ病院で付き添いながら退任の準備と最低限の挨拶回りをした。それから私は国内外の専門家に術後の治療法について相談してまわった。問題は病気や治療法の勉強が追いつかないことだった。先生方に相談しても、専門用語についていけない。
「樹状細胞を成熟させ、抗原を提示してT細胞を活性化させ」って。。。すみません、成熟も提示も活性化も全くイメージがつかめません。。。
本を読みあさっても体系がないので理解が遅く、アタマに残らない。退院するころには化学療法が始まるが、本当にそれだけでいいのか、このまま国内にいて良いのか、まともな意思決定をするためには早急に体系的な知識を身につけなければならない。

焦りと疲労が私を悲観的にし、ロンドンで起業したばかりのDeNA創業メンバーのナベに電話で文字通り泣きついた。医者か医学部生でプロジェクトチームを作りたいが誰か知らないかと尋ねる私に、「ぼくがやります」と言って立ち上げたばかりの会社をロンドンにおいて東京に飛んで来てくれた。ちなみにナベは「思想、社会、文化の3方面から現代の人間を系統的に学ぶ」総合人間学部出身で、医学部ではないが「人間」がつくからまあいいや、と藁をもつかむとはまさにこのことである。

しかしマッキンゼーでも卓越していたナベのリサーチ力はやはりスゴかった。東京に着陸するころにはすでに数十冊の書籍と膨大な論文を読み込んで来たナベがもう一人の北大医学部phDの友人と組んで私のアタマに検討するべき治療法の基礎を叩き込んでくれた。

お陰で情報収集力が格段に向上し、落ち着いてまっとうな判断を行えるようになって来た。並行して病院の先生との信頼関係が築けて来た。検討の結果、まずは国内でいくつかの治療法を試してみようということになった。
ーー

そう、私のすったもんだばかり書いているが、一番大変なのは当の本人である。

不安や恐怖はいかばかりだろうか。

告知されてから今日に至るまで旦那は一度もヒステリックになったり声を荒げたことはない。
穏やかに、静かに戦っている。

了解済みとは言え、公表されて有名な病人になってしまった旦那は、退院して3週間後のマッキンゼーのアルムナイパーティにはどうしても皆に元気な顔を見せたいと言った。あの人死ぬんだ、と思われたくない、だって生きるから、と毎日ベランダで日焼けして真っ黒な顔で出席した。

治療方針がある程度決まったあと私たちは免疫力と生活に関わる本を読みあさり、大学の先生のご指導も受け、生活改善に取り組んだ。
食事は数ある書籍の中で故シュレベール博士の本をバイブルと決めた。水や調味料も一新した。
空気の奇麗な葉山を拠点とし、あとは睡眠、運動、整体、瞑想などなど、それから大事なのが笑い。
♪水のトラブルくらーしあん♪のコマーシャルを手本に、とんでもないトラブルでも笑い飛ばす訓練を重ねている。
ーー

DeNAの仕事はというと、週に1回出勤、あとは月に何回か長い会議に出る。それ以外はビデオ会議で家から仕事。

守安と春田を中心とする新体制には最初から全く不安がなかったが、次々と新しい意思決定をし、予想通り伸び伸びしっかりと舵取りをしている。野球の件は今年も追いかけていると聞いて驚いた。なぜか同じインターネット業界内から反対者が出てすったもんだの大騒ぎになったが、周囲の喧噪とは対照的に春田も守安も真摯かつ冷静に対処し、心から誇らしかった。

20-30億の赤字の会社を95億で買うことについては勿論厳しい議論があった。でも良いことだと思う。これまで、生き残って、黒字化して、成長して、と自社のことだけに一生懸命だった私たちが、ファンや他の球団と力を合わせてプロ野球というひとつの劇場を盛り上げる努力をして行くことになる。DeNAがまた一回り成長する経験を与えてくれるだろう。

私はDeNAが大好きだ。正直で、一生懸命で、いつも新しいことに挑戦していて、若いメンバーにどんどん大きな舞台が用意されるそんなDeNAが大好きだ。この会社が世界で大きなうねりを起こすためには、もっともっと世の中に愛される会社にならなければと思う。そのために私にできることは何かと考える。以前より仕事に使える時間はずいぶんと限られてしまったけれど、家族の大切さも病気の人の気持ちも少し分かるようになった今の私だからこそ出来ることもあるのではないだろうか。

計画より早く、また希望とはずいぶん違った形の退任となってしまったが、この顛末によって拾った物を大切に、新しい自分にできることを地道にやって行こうと思う。

DeNAの皆と、力を貸してくれた方々、温かく見守ってくださったすべての皆様、そして夫に心から感謝し、この年を越す。