幼少期.2 【気が強いったら、もう】 | 舞踊家 菊地尚子のブログ

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つれづれつらつら。

子供時代の私は、それはもう負けん気が強すぎて大変でした。
(今もでしょ?と思われてる方、多いとおもいますが。。。)

男、男、女の3番目に産まれたせいか、なんなのか。
家のすぐ近く50mぐらいの場所に通っていた幼稚園があったのですが、
そこまで近所の子達と競走だ!となれば、それはもう最高潮にスイッチが入り走りだし、
隣の家のおばあちゃんが「ちゃんと左右見るのよ!」と大声で注意してくれても、ゴール直前で左しか見ず右から車にひかれる。。

なんとか命は大丈夫だったものの、病院で検査のため髪の毛を一部剃られ、ハゲができ、
よりによってそんなタイミングで、子供達から大人気の「おかあさんと一緒」にいとこが抽選あたったとのことで、一緒に出演することになっていたので、ハゲ頭で参加。
途中ぬいぐるみ達の劇が始まるので、お姉さんお兄さん達が、「みんな好きな所に座りましょう!」と言われた瞬間には即ダッシュで1番前の席を陣取り、劇を夢中で見ていてふと周りを見たら、みーんなお兄さんお姉さんの周りに固まって座っていました。
後日録画してくれてた映像を見たら、やはりお姉さんお兄さんの周りは良く映っていて、私はというとハゲ頭がちょいちょい映る程度でした。

小1~2の時に、父の転勤で高崎に引っ越し、そこでは気の強さ故か、東京もんという雰囲気で見られたのか、馴染むことができませんでした。
学校でもガキ大将に「お前の大切なもんはなんだ!?」と急に聞かれ、
「んーー、女は髪が命かな」など、どーしょうもない気取った答えをし、その1時間後には髪にノリをたっぷり塗られるという最悪なことも。
ある日は帰りに1人で帰っていたら、クラスメイトの一人に通りすがりに頬にキスされたり。
家に帰っても母になんだかそれらのことは言えず、ゴシゴシ洗面所で1人で洗っていました。
高崎時代は、本当にいい思い出がないのですが、唯一救いだったのが、今の師匠に出会ったことです。
もともと東京では近所のスタジオに通っていたのですが、高崎に引っ越すとなった際に、その先生が「高崎には立派な先生がいらっしゃる」とのことで今の師匠を紹介してくださりました。

高崎では家から車で30分はかかりましたが、母が送り迎えをしてくれて、通いました。

そこで、私が「心のライバル」と名付けるすごい上手な子に出会うのです。

その子のおかげで、まず鼻の先っぽの方が折れました。

それはまた後日。