再掲・戦災の記憶~母が綴った戦争の記録 | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp



この記事は、昨年暮れに一度記事に載せたものの再掲です(2014/11/30及び12/1)

本来、終戦の日の今日こそ、載せるべきと思っていましたので、
ご一読いただければとおもいます



それから、

戦争の体験をした人の数がどんどん少なくなっている現在なので
ごく普通の庶民のこのような体験も
少しでも多くの人に知ってもらった方がいいのではないかと思い
昨夜、方法を探してみました


NHKはネットでの投稿の窓口がわからず

朝日新聞を調べたら
とりあえず投稿できるようなので同じ文をコピーしておくってみました
(反応あるかどうかわからないけどね・・)



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↓↓↓ここからは、過去記事の引用です
私の前書と本文から構成しています

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(前書)
私の母は現在80歳(注、今日時点で81歳になりました)ですが、
小学生の頃に戦争の体験をしています
母が自分の記憶を残すために文章を書きました


当時母は、千葉県銚子市に住んでおり、母の父(私の祖父)は戦争に駆り出され、母 の母(祖母)一人で七人(だったかな?)の子どもを抱えて暮らしていました
私の母は、上から4番目の子です
終戦の年に小学校5年生でした
1945年7月29日、東京大空襲の日、米軍が帰る途中に銚子市に爆弾を落として行き
銚子市は被災したのだそうです

戦争 の記憶を持つ人 は、かなり少なくなってきているのだと思います
少しでも、悲惨な実体験の記憶を次世代に残すために綴られた 文章を
原則そのまま、ここに載せてみました


よかったら読んでみてください

以下、母の綴った文章です。


仮名遣い等、原則、原文のまま掲載します 



    

「戦災 の記憶」

   昭和二十年七月十九日、木曜日、この夜のことは八十歳になった今も、鮮明に覚えている。翌日の金曜日は、五年生になって始まった裁縫の授業のある日、新しく買ってもらったセルロイドの裁縫箱がとても気に入って、裁縫のある金曜日が嬉しく、待ち遠しく、前の晩は、枕元に置いて寝たので、七月十九日が木曜日だったと云うことは、しっかりと記憶にあった。(近年、孫にインターネットで調べてもらったら、間違ってなかった!)  

   その夜、寝てまもなくだったと思う。いつもの様に、敵機襲来の警戒警報、当時はいつでも逃げ出せる様に、服を着たまま寝ていた。すぐに空襲警報のサイレン(警戒警報より間かくが短く、けたたましい) しかし、なれっこになっていて、特にあわてもしなかった。しばらくたった頃、「今晩はいつもと様子が違う。逃げる用意をしよう。」と云う母の声。当時、父親は応召していて、家にはいない。母は四十才、十八才の兄は秋田の学校にいっていて、これも家にはいない。家には、女学校四年の長姉(十五才)、女学校二年の次姉(十三才)、五年生 の私(十才)、二年生の妹(七才)、四才の妹、二歳の弟。寝ていた部屋から玄関の方向を見ると、その方向の空が赤い。逃げる時には、一番上等な革靴をはいていこうと玄関に揃えてあったのに、怖くて玄関へ行けない。寝室の廊下から、庭下駄をはいて逃げることになった。

   逃げる時の役割は、日ごろから決めてあった。
私は、位牌のはいったリュックを背負って逃げた。裁縫箱は持ち出せなかった。次姉は四才の妹を背負い、母は乳飲み児の弟を背負った。長姉は気丈に箪笥の引き出しを庭の防空ごうにほうり込んだり、全員の指揮をした。たった十五才の少女が!

   駄目かも知れないが、出来るだけ衣類等を防空ごうに入れ、家が焼けても残る様にと云う気持からだった。その作業に少し時間 がかかり、母は私達にお隣の一家と先に逃げなさいと云った。が、私達はそうする気にならなかった。無意識のうちに血のつながった家族一緒に行動したかったのか、しかもこれが私達家族の幸運につながった。逃げる途中、隣家の人達は曲がり角をまがった。私達 の一家は直進した。隣家のおばさんは、焼夷弾で のど を破られ重傷、娘二人は焼夷弾の破片で、身体に傷を負った。(しかし、おばさんは戦後かなり高齢まで生きられた。のどの傷はいたいたしかったけれど)  直進した私達にも焼夷弾はおそいかかった。

    長さ四、五十センチ、直径七、八十センチで、六角形の物を、三十五、六ケ束ねたものが空中でさく裂、降ってくるさまは花火のようだった。その夜、敵はまず銚子の市街地をかこむ様に円形に焼夷弾や爆弾をおとした。私達は、その中に入ってしまったのだ。いつも家族で、いざという時は西の方向に逃げようと決めていた。西の方向にはヤマサ(注、醤油会社)の第五工場があり、周りは畑や空地だったからだ。しかし、門を出て西の方向を見た時、そこはすでに火の海だった。北も東も火がせまっている。南は少し離れた所に丘陵があった。しかし、丘陵の上には、飛行場があり、敵に一番ねらわれる所であり、一番逃げていってはいけない所であった。しかし、火に追われ、私達はそちらに行かざるを得なかった。近所 の数家族が一緒だった。お隣の家族と別れて直進した直後、登記所の前の道で焼夷弾 が降ってきた。道は、直径十センチ位、高さ三十センチ位、五十センチ位の間隔で火柱が続いている。あれは何だったのか。後に敵は、はじめにガソリンをまいていたのだと云ううわさが流れた。私達は泣き声をあげながら、ピョンピョン火柱を飛びこえて行った。そこに上から焼夷弾の嵐。とっさに、私は道の左側のやぶに身をかくした。身体の右側すれすれに焼夷弾が落ちた。その時は夢中で気がつかなかったが、翌朝、落ち着いてから頭を手でなでると、頭の右側の髪の毛がこげてなくなっていた。防空頭巾のすき間から火がはいったと思われる。あと五センチずれていたら、今の私はなかっただろう。

   火の海を走っているうちに、はきものは脱げ、はだし、位牌を入れたリュックの上に首に巻く様にしていた掛布団は、すでにどこかに失っていた。市街地の火の海をやっと脱した私達は丘陵地帯の裾を廻り込んだ。そこに防空ごうがあった。ほっとしてそのごうに入った。母は三才の弟に乳を含ませた。二年生の妹が別のごうに入ってしまい、泣き声をあげている。その上 は飛行場ですでに火の海になっている。まだ少年の兵隊さんが妹をこちらのごうに連れてきてくれた。そして云った。上はもう火の海だ。ここにいては危ない。別の所に云った方がいい。

 

   火はいたる所でくすぶっていたし、水は当時は水道ではなく、井戸だったので、問題なかった。ヤマサ関係の人が醤油をもってきて醤油の味だけのすいとんを食べた。とてもおいしかった。三軒先に銚子市長の加瀬道之助さんの屋敷があったが、それも全焼。普段はこわいおじさんと思っていた市長も、みんな一緒にすいとんを食べた。一晩中寝ていなかったので眠気がおそってきた。

   七月二十日は、強烈な夏の陽が降りそそいでいた。日陰はない。機銃掃射ですき間のないほど穴のあいたトタン板の上で深く眠った。

 

    近所の行方不明者の捜索が始まった。近所の私より二つ年上のみどりちゃんがいなかった。やがて男の人達が戸板にみどりちゃんを乗せて帰ってきた。その後をみどりちゃんのお母さんがふりしぼる様な声で「みどりーーー!みどりーーー!」と泣き叫びながらついてきた。その時の光景、お母さんの声を思い出すと今でも涙が出る。

 

   東の方向に、小さな小川が流れていた。そこに火に追われて逃げこんだ人達が機銃掃射で死んでいるといううわさが流れてきた。母が 見に行くな、と云ったので、私は見にいかなかった。よかった。一生、その光景を思い出さなくてすんだ。同じ様に、利根川の岸壁にとび込んだ人たちも機銃掃射で死んだと云う話が伝わった。

後年、飛行機に乗る機会があるようになり、飛行機からは川が光ってよく見え、敵の飛行機のターゲットになったことが納得出来た。

 

   その夜は、清川町一丁目の母の知り合いの大木さんの家に泊めてもらった。(燃えたのは、清川町では二丁目、三丁目、四丁目で、一丁目の一部は焼け残った)

 

   夕食の時刻迄には、多分、市によると思われる炊き出しが始まっていた。もらってきたのは、もち米のおにぎりだった。真夏にいたみ易い、もち米で作ったおにぎりは案の定、いたんでいた。子供だったので気付かずに食べてしまった。夜中、吐き気におそわれ、大木さんの家の廊下から庭へ全部吐いてしまった。

   翌日、父、母の故郷茨城の神栖へ汽車で向かった。銚子駅での姿の、なんとみじめなこと!

焼け残った鉄びん、なべ等を持ち、大木さんからもらった占いげたをはき、着のみ着のままの姿、昨今、外国の紛争地帯で逃げまどう孤児達の姿さながらである。


   その時から、二年八か月余りの、神栖村字賀での、本家の庭先に祖母の為に建てられた隠居所での生活が始まった。

   以降は、後に機会があれば後述するものとする。

以上、十才の少女の見たもの、感じたものを書いてみた。

 

平成二十六年 秋



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