大河ドラマ「光る君へ」がはじまりましたね | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp

 

 

 

どうやら、視聴率的には厳しい滑り出しとなってしまったようですが、

個人的にはとても楽しみにしていた大河ドラマ「光る君へ」がはじまりました

 

 

(当記事の画像は、NHK大河ドラマのHP,『NHK大河ドラマガイド光る君へ前編』からお借りしました)

 

大河ドラマで平安時代をやるなんて、意欲的だなあと思います

この勢いで、ぜひとも奈良時代の大河ドラマもやってほしいなあ…

 

一年間、ドラマの内容をブログで詳しく追うことはできないと思いますが、時々、気が向いたら何か書いてみたいと思います

 

で、初回を観た感想は、びっくり!です

ご覧になった方、皆さん、同じような感想をお持ちじゃないかと思いますが、

エンディング近くで、道兼がまひるのお母さんを背後から刺し殺してしまいましたね(文字にするだけでも、背筋が寒いわ)

 

こんなことを言うと、興ざめかもしれませんが、

平安時代はまだ、鎌倉や江戸時代などに比べると史料が少ないため、

ドラマ、小説、漫画などには、虚構が多く含まれると思います

史料にない行間を埋める作業が、ドラマの脚本家や、小説・漫画家の仕事なので、

作者の力量により、面白くなったり、つまらなくなったりするわけです

ドラマの場合は、脚本家だけでなく、演出家や役者の力量もあるだろうから、

「歴史もの」って相当多くの労力がかかっているのでしょうね

そういう意味でも、今年の大河が面白くなりますように!

 

 

紫式部について  

 

ところで、主役の紫式部ですが、「紫式部」という名は当時は使われていなかったようです

しかし、実在の人物であったことは確かなようで、

一次史料である藤原実資『小右記』には「藤原為時の女(むすめ)」として登場しています

 

↓『小右記』の作者、藤原実資を演ずるのは、なんと、ロバート秋山

実資は、藤原実頼(↓後に系図あり)の養子で、

「賢人右府」(『十訓抄』)と呼ばれる才人でした

 

 

紫式部は、『栄花物語』等に「藤式部」という名があるそうで、そっちのほうが本来はしっくりくる名だったのかもしれません

 

一般的に女性の名が史料に残ることはほとんどないようですが、紫式部の娘の「賢子(大弐三位)」は位が高かったためその名が確認できるそうです

(紫式部の娘の賢子は、のちに道兼の次男である兼隆と結婚(のち離婚)しますが、前回のドラマでは、紫式部(まひる)のお母さんを道兼が刺し殺していますよね…そこのところ、大丈夫なんでしょうか?賢子からみたら、おばあさんを殺した人の息子と結婚するわけでしょ?心配だー)

 

↓ドラマでは、まひるのお母さんを刺し殺した道兼😱

 

 

 

両親について

紫式部のお父さん藤原為時は、もともと藤原北家の出身で越前守を務めた受領(ずりょう)でした

 

 

式部は漢文ができたため、越前に同行したようです(その後、結婚するのを機に、お父さんを置いて京都に戻ったらしい)

 

 

お母さんも、藤原北家出身で、兄弟が受領だったため、同じ階層に属する者同士の結婚だったようです

 

 

将来のまひろの結婚相手

藤原宣孝(親子くらい年が離れていて、数年で死別)

 

 

 

ドラマが始まった貞元2年(977)のできごと

ドラマは、まひろがまだ子どものころの貞元2年から始まりましたが(子役の演技力がすごかった)

この年のできごとを調べると、関白藤原兼通が重病になっています

 

ところで

関白藤原兼通って誰?藤原氏ばかり多すぎ問題

 

…ということで

私が個人的に作った系図を載せてみます(兄弟姉妹は必ずしも年齢順になっていません)

 

藤原氏と天皇家の系図

 

 

藤原氏と天皇家は、ご存じのとおり、関係がぐちゃぐちゃです

現在、世間をにぎわす某J事務所や、某Y興業などの比ではない、乱倫?(当時はもちろんそんな意識ななかったんだろうけど)で、系図も一筋縄ではいきません

 

そのため、私は色で天皇や藤原氏の中にある「系統」のようなものを区別することにしています


例えば、上の系図では、村上天皇以降2系統に分かれる天皇家(71代後三条天皇で統合)を黄色水色で区別し、藤原氏も忠平以降分かれる、師輔以下の九条流を赤実頼以下の小野宮流を青兼通以下を茶色道隆以下の中関白家を紫で識別しています

 

そこまでしても、一つの系図では書ききれないほど、マジで乱倫な天皇家と藤原家なので、モビールみたいに系図を立体化して天井から吊り下げたい気分にさせられます

 

ーーーーー

ところで、ちょっとここで、一言叫んでもいいでしょうか?

 

「文春砲を藤原氏に!ピリピリ

 

…ほんと、藤原氏と天皇家の婚姻関係が無茶苦茶すぎて、世が世なら、

文春砲ものだと思いますよ(上の系図にすべて書けているわけではない)

これ、ドラマでどうやって表現するのでしょう?

 

ーーーーーー

 

で、上の系図の一部を拡大すると、

兼通は、道長の父兼家のお兄さんであることがわかります

 

 

何が言いたかったかというと、

 

ドラマの始まりの年である貞元2年(977)のできごとは、

この兼通が重病になったということです

 

キラキラキラキラキラキラ

 

では、この重病人の兼通はこれ以前にどのような経緯で関白になったのでしょうか?

そして、重病以降の「政局」はどのように動いたのでしょうか?

977年前後を少したどってみたいと思います

 

・安和2年(969)、安和の変からの円融天皇即位

安和の変により、守平親王がたった9歳で円融天皇として即位します(安和の変はややこしいので省略)

円融天皇

 

 

円融天皇の即位により、

・藤原実頼(小野宮流)が摂政となりますが、翌970年に死去してしまいます

 

続いて

伊尹(これまさ、これただ)(九条流)が摂政になりますが、972年に死去

 

そこで、次の関白職を巡って兼通(兄)と兼家(弟)が争うことになります

 

兼家(64代円融天皇の一代前の63代冷泉天皇で頭角をあらわした)

 

 

この時点で官職は弟・兼通の方が、兄・兼家よりも上だったのですが、円融天皇の母で兼家たちのきょうだいである安子が「摂関の順は兄弟の順に」という遺訓をのこした(『大鏡』)ため、

・972年、兄の兼通が内覧という職に就きます

 

・973年には、兼通は娘の媓子を入内させ中宮にします

 

ここで、円融天皇兼通主導で新たな皇統形成が図られました

 

このままいけば、兼通はブイブイグッだったはずですが、

ここで、ドラマの始まりの年977年を迎えます

なんと、

兼通は重病になってしまいました絶望

 

一方、ここまで我慢してきたのが、弟の兼家

だって、もともとの官職はお兄ちゃん兼通より上だったんですもん

それなのに、女のきょうだいの安子の一言で、(自分よりも劣る)お兄ちゃんに摂関の地位を譲ったわけで、

「こんどこそ関白にしてもらおう!」と思って円融天皇もとへ参内するため、行列を作って出かけました

 

その道中には、病気予防の兄兼通の家がありました

 

兼通は、「ま、いろいろあっても、弟がお見舞いに来てくれた♡」と勘違いして、(病気ネガティブの身でありながら)弟兼家を迎えようとしますが、

なんとなんと、弟は自分の家の前を素通りしてしまいました(だって弟は円融天皇のところに向かっていただけですから)

 

ムキースルーされた(と思った)お兄ちゃんオエーは、激おこ💢ムキー

 

病気にもかかわらずネガティブ自ら参内して、最後の除目で、「関白を(憎たらしい弟兼家ではなく)外戚関係のない藤原頼忠(小野宮流)にしてください!」とお願いし(命がけのいじわる)、

それだけでなく、兼家の職掌までほかの人に与え、死んでいったそうです(ひどい兄

 

↓『大鏡』第三巻兼通から抜粋

 

 

 

 

 

↓外戚関係のない小野宮流藤原頼忠

 

この話は、『大鏡』に載せられていますが、どうやら脚色と考えられているようです

 

 

 

その後、

・978年には、兼家の次女詮子が入内

 

 

・980年には、懐仁親王(64代一条天皇)を出産しています

知らない俳優さん…

 

 

…とまあ、ドラマの筋から離れてしまいましたが、

藤原氏内部では、大人たちがこのような争いを繰り広げていた時代から

ドラマが始まったようです

 

 

 

宗教的な状況では、元三大師良源が、摂関家の支持の元、比叡山の中興を行っていたころかと思われますが、その話はまた別の機会に