寛和年間の「打毬」~ドラマの場合
第七回で登場した、
「打毬」のシーンではF4(行成除く)と直秀が1チームとなり、カッコよかったですね
まるで若者のホンモノの競技を見ているようでした
これを観覧していたのは、女子会の面々
それから、まひろ、ききょう
御簾もかけない簡素なテントのような観覧席には、疑問の声がたくさんあがりました
それに、そもそも、ここはどこ?って思いました(ネコが自力で東三条邸に帰れるくらいの距離感のグラウンドってどこよ?)
寛和年間の「打毬」~史料にもあった!
史料で「打毬」ということばは、寛和2年(986)に見つけることができました
この年、2回打毬が催されています
ただし、大河ドラマで打毬が行われたのは、寛和元年(985)の設定でしたので、
史料とは1年ズレています
まず
東大史料編纂所編纂
『史料綜覧』巻1(東大出版会)
『史料綜覧』は、日付と出来事、その出来事が書かれている史料名が網羅されています
↓『史料綜覧』の寛和2年4月から6月までのページには、
「打毬」ということばが、下段の黄色い線のところ(2か所)にありました
ここから読み取れるのは、①②の内容です
①寛和2年5月30日「(花山天皇が)紫宸殿に於て打毬をご覧あらせらる」
②寛和2年6月6日「(円融)法皇が、仁和寺に於て競馬・打毬等をご覧あらせらる」
史料からは、打毬という競技が、紫宸殿(御所)や仁和寺(門跡寺院、「御室御所」)で開催され、天皇や法皇がご覧になる「天覧試合」であることがわかります
ドラマとは設定がかなり違いますが、史料に残らない「草野球」のような打毬試合もあったのかもしれません(史料で裏付けできなければ、憶測になりますが)
また、上の黄色い線の部分には、それぞれ小さな字で
「日本紀略」とあります
つまり、「日本紀略」を見てくださいということです
そこで、次は『日本紀略』を見てみます
『日本紀略』(新訂増補『国史大系』第11巻、吉川弘文館)
『日本紀略』は、天皇ごとに記事が収められていますので、「華山院」のページを探します
『華山院』のページ↓
ページをめくっていくと、
「華山院」の寛和2年5月30日、6月6日の記事に「打毬」が出てきます
それぞれの記事を書き出すと、
①寛和2年5月30日「天皇出御南殿。有打毬之興。番長以上各十人。左右近衛。左右兵衛官人并廿人為二番。皆著狛冠。騎馬立南階前。左勝。奏音楽。此事希代之勝事也。」とあり、
ざっくり訳すと、
「花山天皇が南殿にお出になられ、打毬があった。番長以上それぞれ十人、左右近衛、左右兵衛官人併せて二十人が二試合行った。
皆、狛の形の冠を着け、騎馬で南の階段の前に立った。左が勝った。音楽が奏でられた。このことは希代の素晴らしいことだ」
というような内容です
もう一つの記事は、
②寛和2年6月6日「後太上法皇(円融)於仁和寺覧競馬八番。云々。左右近衛舎人各三人。射五寸的。次近衛兵衛等騎馬。打毬二番。」
また、ざっくり訳してみると
「6月6日、円融太上法皇(985年に出家)は仁和寺において「競馬」八試合があった(云々)。左右の近衛舎人がそれぞれ3人参加、五寸の的を射た(←的を射るなら流鏑馬?)。次に、近衛や兵衛などが騎馬し、打毬を二試合行った」
とあります(ざっくり訳なので悪しからず)
上に出てくる「番長」「官人」「近衛」「兵衛」などの言葉については、倉本一宏さんの本から引用します↓
「番長というのは官人としては最下級の地位で、兵衛や近衛などの舎人をまとめて率いる。弓馬に優れた者が多く、各衛府の長官に随身して前駆(行列の先導者)の役を務めた。近衛府生は主典の下、番長の上に位置する地位で、下級官人とはいえ、番長よりはずいぶんと上位にある。関係ない話だが、現代でも不良集団の長を「番長」と称するのは、この番長が語源である。(倉本一宏「平安朝の下級役人」(講談社現代新書)」
ありましたねー
書き出してみます
①寛和2年5月30日
「天陰小雨降、此日休日也。(……)天皇御南殿。覧打毬。番長以上各十人。左右近衛左右兵衛官人并廿人為二番。皆著狛冠。騎馬。立南階前。爰右大臣毬打出於庭中之間。皆競打之。乍二番左勝。此間。左方奏音楽。此事甚希有也。」
どうやらこの日は休日で、朝は小雨が降っていたようです
打毬についての内容は、上の『日本紀略』とよく似ていて、まるで写したみたい…と思ったら
↓この文の頭注に、「日本紀略」から「打」の字を補ったとあり、ばっちり『日本紀略』を参考にして書かれたことがわかります
「打毬天覧」の次の行に「日本紀略」の字がある↓
②寛和2年6月6日については
「天晴。休日也。是日。朱雀院太上法皇(円融)於仁和寺御覧競馬。(…)次左右近衛左右兵衛舎人等騎馬打毬二番。」
とあって、やはり上の『日本紀略』と似た内容です(やはり頭注にその旨の記載があります)
…というように、
私が見た限りでは、
寛和年間の「打毬」の記事はこの二つで、
どちらも天皇や法皇がご覧になる「天覧試合」だったようです
実際に試合をした人たちは、近衛、兵衛など下級の官人でした
他方、大河ドラマでは、打毱のためにあのF4がチームを組んでいました
この時点でのF4の身分がどのくらいのものなのかは調べないとわかりませんが(もう調べる気力がない)、
まあ、ドラマですから、身分よりはビジュアルが大事ですよねー
そもそも、直秀がいる時点で、いかに「新たに判明した道長の弟」と強弁しようが、身体検査が甘いな!って感じですよね
それに、天覧試合であれば、
女子たちが直面できゃあきゃあ言いながら見たりすることはできなかったでしょうね…
ドラマで大事だったのは、「まひろ」と「ききょう」が知り合いになること、直秀の上腕の傷を道長が見つけることだったんでしょうね
「寛和の変」の史料
ドラマでは、寛和の変に向けて、権謀術策渦巻く展開となってきたようです(私は裏読みが不得意なので、SNSでいろいろな意見を見ては「へぇ~!」と驚いてます)
↓寛和の変の主要メンバー(花山天皇、兼家、道兼)
裏読みはできませんが、寛和の変当日の史料を探してみました
寛和の変は寛和2年6月23日です(6月23日は、私の結婚記念日だわ!平成だけど…)
『史料綜覧』寛和2年6月23日(赤丸のところが、寛和の変の記録)
『史料総覧』では、『本朝世紀』『百練抄』『扶桑略記』『栄花物語』『大鏡』『古今著聞集』等々の史料が示されています
このうち、手元にある史料(『日本紀略』『本朝世紀』『大鏡(現代語訳)』の文を書き出してみますね
『日本紀略』寛和2年6月23日
「今暁丑剋許。天皇密々出禁中向東山華山寺落飾。于時蔵人左少弁藤原道兼奉従之。先于天皇密奉劔爾於東宮出宮内云々。年十九。翌日。招権僧正尋禅。剃御髪御僧名入覚。外舅中納言藤原義懐。蔵人権左中弁藤原惟成等。相次出家。義懐卿。法名悟真。惟成法名悟妙。皇太子嗣祚」(…)「諸人掩涙嗚咽。」
内容をざっと見ると、↓このような内容です
・花山天皇が東山の華山寺で落飾(出家)し、道兼が従った
・この時、花山は19歳だった
・剃髪したのは、僧正尋禅(当時の天台座主で、兼家の兄弟に当たります。この時代、藤原摂関家と天台は密接な関係にあり、尋禅が座主になったことで、天台が貴族的になり、堕落したといわれています→ここで、源信が登場することになる)
・義懐、惟成も出家した。法名はそれぞれ、悟真、悟妙
・皇太子が天皇となった(一条天皇)
・花山院の出家に、人々が嗚咽した
『本朝世紀』寛和2年6月23日
「二十三日。(…)今暁。夜丑剋許。天皇密々出清涼殿。忽以縫殿陣有車。左少弁藤原朝臣道兼与竊相共同車。御東山花山寺出家入道。」
『大鏡 全現代語訳』(講談社学術文庫)
現代語訳でわかりやすいので、良かったら読んでみてください
花山天皇は、出家したのがかえって良かったのかもしれませんね…
『公卿補任』(新訂増補『国史大系』第53巻)
時々の貴族の身分などが記録されていますが、
ここにも、寛和の変のことが書かれています
拡大↓
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「義懐」は花山と一緒に出家したけど、
なんか憎たらしいから、ダークカラーで傍線を引いてやったわ!!