生きづらさとか自由とか | Colors on the Street

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撮影した写真とか、音楽活動の事とか、考え事とか、日々の事とか。






Camera: Canon EOS 5D MarkⅣ
Lens: Carl Zeiss Planar T* 50mm f1.4 (MMJ)



 


最近僕に巡ってきたピンチやチャンス、それに加えてここ最近出会った人達の話を聞いて、
今一度今まで僕が感じてきた生き辛さについて振り返って考える機会が増えた。


何処からどう考えても現代の社会に馴染める気がしないという確信めいたものを抱えたままここまで生きてきたが、今までそのモヤモヤの正体を明確に出来ないままがむしゃらに過ごしてきた。

が、30代に突入してからそのモヤモヤの化けの皮が剥がれてきたというか、なんというか…





 












僕の友人や知人たちの多くは、子供の頃から「何か目的に対してフォーカスして行動する」という事を日常的にこなしてきた事に対して、自分は圧倒的に意思表示をする事に対して非常に消極的だった。

これに関しては、幼少の頃から周りの人間が言うことがすべて正しいと信じて、物事の判断の大部分を他人(家族、友人や周りの大人など)に委ねてしまった結果、自分の意思を優先する事=悪であるという思考回路のまま成長してしまったためでもある。
(当然それだけではない。)

なので、若いうちは生きづらい原因を自分以外の物や人に対して探りがちではあったが、結局それは自分の中で自らが育み続けた要素の一つだったという訳だ。
その思考回路をマイナーチェンジせずに突っ走ってきたのは他でもない、僕自身だ。

















人は元来もっと自由な生き物だ。
何に重きを置いて生きてもいいし、人と違う事を選択してもいいし、貧乏でも裕福でもいい。

しかし、自分の様な言語化できないモヤモヤを抱えた者にとって、自分と一般社会を比較してしまうと殆どの場合「自分は人間としての責務を果たせていないダメ人間なのではないか」という思考に陥り、精神的に後ろ向きになってしまう。
今の社会でいう「ダメ人間」でも、全く問題ないという事に気付くことが出来ないのだ。

その状態にある人間というのは、他人が勝手に貼ったレッテルをさも事実である様に受け入れてしまう。

「社会不適合者」「甲斐性なし」「頭悪い」「醜い、ブサイク、キモい」
自分もこの言葉に散々翻弄されてきた。けどこれは他人の感性で感じた感想でしかないのだ。
ひろゆきで言う所の、「それってあなたの感想ですよね?」ってやつだ。

他人の顔色が常に気になる、という人は僕達が思っているよりも多く存在している。
そういった人達もまた、他人からのレッテルを恐れて自分の意思を主張しにくいのかもしれない。 


そういった自分の中の軋轢のアウトプット手段として、人は表現活動というのは必要なことなのだ。
僕だったら音楽や写真…
アート分野だけではなく、遊んだり、得意分野の仕事で成果を上げるなどというのも自己表現の手段だろう。

基本的に人間は表現せずにはいられないのだ。















さて、つらつらグダグダと色々書いたが、そんな物を抱えながらも色んな人と関わっていく中で少しずつ解ってきた事は、

案外誰も自分に興味なんかない事、
少しわがままになった所で最悪の結果にはならない事、
利他的な言動は必ず自分に帰ってくるという事、
社会に馴染めなくても意外と生きていける事、
好きな事をとことん突き詰めて取り組むと人が寄ってくる事、
想いは常に口にした方がチャンスは増えるという事、
稼ぎで人間性は測れないという事、
人間関係の断捨離は必要だという事、
ここまで来たら節操なく生きる位が幸せになれるという事、

他にも色々あるが、こんな感じだ。
生きづらさで苦しいのは、人との出会いと思索で大体は何とかなるのかもしれないね、というお話。




























さて、また岐路に立たされている。新しい選択肢がやってきた。

生きづらさを少しでも減らす事が出来るように、自分がもっとスムーズになれる選択をしたいもんだね。