日本社会は学歴社会である。
よく言われますね。
特に都市部では、子供を良い大学に行かせようというので、お受験やら中学受験やら(どちらも私は未経験なので詳しくは知らんが)をやらせる…。それでみんなそろって受験戦争に巻き込まれていく。
なるほど、確かにこうしてみると学歴社会であるようにも見えなくはない。
ですが、ちょっと待ってください。
最高学歴は、何だと思いますか?
東大?ハーバード?
うーん…東大やハーバードのどこまで?
院まで、です。
更に言うなら、博士まで、です。
ところが、現実はどうでしょう?
博士は重宝されていますか?
むしろ逆です。
博士は(旧帝大ではそうでもないようですが)基本的に就職難である、とされている。
学部卒が一番良い。
…これが、今の日本社会です。
学歴社会と言うけれども、
最高学歴は重宝されない。
奇妙ですよね?
海外であればドクターは一定の社会的リスペクトを受けますが、日本ではドクターはそこまででもない。
結局、これは、日本が学歴社会の仮面をかぶった別の社会だという事を示唆しているように思われます。
今からその仮面を剥ぎます。
まず、保護者心理に立ってみてください。
何故、あなたはお子さんを良い大学に行かせたいのですか?
あるいは何故、子供に勉強させるのですか?
「自分の将来のため」
では、その将来とは何ですか?
「良い就職先を見つけて欲しいから」
では、何故良い就職先に行って欲しいのですか?
「ある程度の高収入を得て、豊かな生活をして欲しいから」
はい、これでお分かりでしょうか?
日本は、本当は学歴社会ではありません。
どれだけ稼いだかがモノを言う、
金歴社会です。
学歴は、学部までなら、金歴と強い相関性があると信じられている。
だからある程度の段階まで、学歴社会の姿とオーバーラップする。
それだけです。
国際的に見た場合、金歴社会か学歴社会かの区別が困難なほどにまで上位学歴が重視されるケースもある(要はドクターが重視される)ので、この場合あまり両者の区別は意味を為しませんが、少なくとも日本の場合、学歴重視の仕方が奇妙であるが故に、この両者の区別は意味を為してくると考えられます。
金歴社会である事自体は必ずしも悪い事ではありません。
貨幣は一国の社会において普遍性を持つ価値基準ですから、それをどれだけ稼いだか、というのは、
どれだけあなたが社会的価値を生み出してきたか、という指標です。
その意味で、きちんと稼ぐ事が望ましいとされるのであれば、それは素晴らしい事だと思います。
問題は、金歴社会でありながら、人々がこれを学歴の仮面の下に隠して、おそらくは認める事に躊躇する事です。
金歴社会でありながら、ガッツリ稼げと教え込むのはあまり良い事ではないかのようなぼんやりした空気が流れている。
「政治とカネ」やら、利潤追求に走る企業は悪だやら、金には悪いイメージがつきまとっているかのような言葉だけが走っていく。
それで、金歴という強力な評価基準を有しながら、そしてホリエモンだの与沢翼だのといった急速に台頭した大金持ちには時々注目しながら、素直に金歴社会である事を認められなくなっている。
市場の外までも考慮としたとしても、なお十分な価値を生み出しているのであれば、それに見合うだけ稼ぐのは素晴らしい事である。そうした利潤追求は、積極的に認め、讃えられてしかるべきである。
こう言い切ってしまえば、随分すっきりすると思います。
少なくとも、本当は金歴社会なのに、学歴の仮面をかぶったりして、稼ぐ事に関して奇妙にコソコソする必要はなくなると思います。
(「汚い」イメージのカネは、そのような価値を十分に生み出していないのに集積される、という考え方で捉えると説明がつくかもしれません。逆に言えば、相応の付加価値を生み出しているならば(価値の生み出し方と努力量は単純には相関しない事に注意してください)、それはクリーンな金です。)
具体的な経済政策を掲げる以前に、この金歴的な実際と、そこに微妙に反発する心理的部分とのねじれを解消し、
稼げるだけ稼げというシンプルな教えを掲げる事の方が、経済の再活性化には効果的かもしれません、と言いつつ、今日はキーを置きます。
が、その前に…
あなたの金歴をBOOSTします。
https://j-sen.jp/c/jsap1135
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