まだつづく、ヴィッパーサナ体験記w 
今回は、宗教とヴィッパーサナに関する私見としての一考察。
 

 

宗教は、
自分のところの宗教に入信した者が救われるというニュアンスが
かなり強い。

たまたま行きがけ、
羽田で買った『学校では教えてくれない宗教の授業』にも
そう書いてあって、納得♪


例えば、ユダヤ、キリスト、イスラム教などは、
(まぁ宗教全般的に言えるが~)
信者が守るべき戒律がある。

それを守ることによって、その神に守ってもらえる。

信者は、
たくさんいる神の中で、
その神だけを信じるという選択をしたのだから、
守ってもらえる。


ってことで、いわば、契約一神教みたいなもの。


保険に例えるとわかりやすい。
ウチの保険に入ってくれたら
いざという時、入院、治療費など○円もらえるよ
=ウチの保険に入ってくれたら守ってあげる!

戦後の企業文化に於いては、
ウチの会社に入って忠誠を誓い、一生懸命働いてくれたら~
=終身雇用するし、企業年金あるよ!


で、話を戻すと~

ってことは…
"聖なる"宗教にも
れっきとしたギブ・アンド・テイクが存在するってことになる。


ってことは、当然
信ずる者側に、『期待する』という思い&行為が生ずる。

『御布施をはずんだから、
(おれの半分しか御布施しなかった人の倍)ご加護も
たくさんあるだろう』

『あ~、ごめんなさい、”悪い”ことしちゃったから
ちょっと御賽銭多めに/御供え物豪華に、しておこう』
(って免罪符じゃないんだからw)


その思惑が、
人を『○○さえしておけば大丈夫』と、
一種、盲目&頼り症にさせてしまう。

ロザリオ、パワーストーン、などなど、
人をそうさせてしまいがちな(必ずそうさせるとは限らないが)ものも
この世の中には、たくさん氾濫している。


そうすると、
人は、その宗教がもともと説いていた、

人がいかに生きていくかの『道』について
自ら探求・体得する行為から徐々に離れていってしまう。


教会やモスクに、どれだけ熱心に通おうが、
聖書、聖典を、そらんじて言えるまでに”勉強”してようが、
”真理の体得”には、至らない。


今回、自分自身への旅を、
ヴィッパーサナ瞑想で体験した10日間は、

生きていくのに、
(特に土壇場で!!!)
拠りどころに出来るのは、

何か宗教、宗教まがい、人、はたまた
自分がロールモデルとする人の生き方などなどでは
一切なく、

自分自身の体験以外ないことを、
ひしひしと
感じさせてくれた。


その体感がね~、
たった呼吸の観察で行えるっちゅ~のがね~、
これが、シンプルですごい。


 

第九話   舐めんじゃねぇよ、つづき ~vippasana 体験記~
第十話  こっちの水は甘いよぉ~

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ムンバイ帰りに麻薬探知犬