壬生魔浪士組最終章 ~魔法少女たちの足跡~ 2022/8/11~14 武蔵野芸能劇場 vol.3 | YUのブログ

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第二章ではいなかった山崎シズクは魔力だけでなく。

可愛さも色気もみっーーーーーーーーーーーーーーーーちゃアップして帰ってきてくれました。


山崎烝。本名は林烝。身体は大きい方で色の黒いあまりハキハキと口を効かぬ人だったそうです。山崎琴尾という妻がおり新撰組入隊時には既に結婚していたようです。

入隊時の年齢は三十歳前後。林家の過去帳には『新次郎の兄にして俗名、烝と称し、中途、性を山崎と称し京都において新撰組に入り、助勤役を勤む』とあり、新撰組入隊にあたり山崎性を名乗ったとも言われます。

大坂の林五郎左衛門という針医者の息子として産まれますが刀を差して歩きたいばかりに剣術の稽古をして武士の真似を始め次第に浪人などと交際しました。と入隊までの経緯を語っています。長巻といって柄の長い薙刀のような物が上手で新撰組道場ではこれを振り回して暴れていたそうです。

入隊後は出身地大坂の地理に詳しく商人の事情にも通じていたため表舞台でなく探偵方という陰の任務を与えられます。『文筆学才あるをもって諸士調役となる』と探索活動に相応しい能力も兼ね備えていました。

探索を行う部署を新撰組では諸士調役兼監察といいます。

諸士調役は隊内同志の動向を調査し、監察は隊外情勢を探る事が目的とされます。

元治元年六月の池田屋事変。この二ヶ月前に起きた火災現場で不審な武士を捕らえた烝。尋問の結果長州人二百五十人が京都に潜入している事を自白させます。非合法に倒幕過激派を京都に送り込んでいた長州藩。

四月から探索を始めた烝らは五月下旬には古高俊太郎の情報を入手。六月五日の朝に捕縛し同夜の池田屋事変へと発展していきます。

池田屋事変は長州藩に武装上京を決意させます。長州藩兵や倒幕諸隊の第一陣は六月二十四日には山崎まで進軍します。幕府は会津藩や諸藩に出撃を命じ新撰組は敵陣近くに密偵を放ちます。この時に島田魁らと共に烝も探索活動を行っていたと伝わります。

七月十九日。禁門の変が勃発。新撰組は敗走する長州藩兵を追討すると大坂に下り残党狩りを行いますが烝はこれには同行せず、敗走した長州藩兵が残した武器を押収し大坂へ移送するため摂津国河辺郡の昆陽宿に向かいます。ここで烝は変名の山崎大三郎を名乗ります。大坂という地の利のある場所で本名の林烝を連想させるのを避けたとも言われます。


慶応元年二月二十三日。山南敬助が切腹。烝は光禄寺への埋葬依頼を担当します。

壬生村から西本願寺境内への屯所移転を計画した新撰組。西本願寺が倒幕勢力に協力的であり同寺を監視下に置くために進められた計画に反対していた山南は脱藩後切腹します。その移転交渉を担当していた烝は複雑な思いだったかもしれません。

そして屯所移転は三月十日までには完了させます。

五月末。幕府典医の松本良順が屯所を訪れその不衛生さと病人が多い事に気付きます。病室や浴場を設置し、緊急時の縫合技術を伝授します。その手解きを受けたのが烝でした。

松本良順の自伝にはこう残っています。

『隊士中、山崎烝なる者あり。もと医家の子なり。性温厚にして沈黙よく事に堪ゆるあり。勇の最も愛する者なりし。彼に救急法を口授し大いに隊中の便益をなしたり。烝、自ら笑って曰く。我は新撰組の医師なり』


長州藩の処分問題を抱える将軍家茂。長州藩は幕府の命令を無視し続けていました。

九月。幕府は長州再征の勅許を得ると長州訊問使を派遣します。これに近藤勇以下数十名の隊士が同行、烝も加わります。

近藤勇らは十一月十六日広島に到着。しかし長州入国を果たせず十二月十七日帰京しますが、烝は広島へ残り長州藩への探索活動を行います。以後烝は新撰組の周防方と称されます。ここから翌七月まで広島を本拠とし防州から長州に関する探索を継続しています。

長州藩の抵抗姿勢に幕府は長州再征戦に踏み切ります。長州再征戦は各地で幕府軍の敗戦が続き、烝は京都へ向かいます。

七月八日。近藤土方を交え語り合う烝。そして翌晩三人は善後策を講じるために大坂へ向かいます。事態への対応を委ねた烝は再び広島へ戻ります。しかし戦況は好転することなく七月二十日将軍家茂の病死により幕府は長州藩と休戦します。

その年の十二月。帰京していた烝は大和国宇陀郡松山上町に姿を見せます。

慶応二年十二月一日。大宇陀町史の出来事『新撰組伊東甲子太郎と申す方ほか士一人、松山上町へ…』との記録にあるほか士一人が烝でした。これは新撰組が介入するような事件ではない小さなトラブルでした。

しかし伊東甲子太郎はこの事件を利用して大和国へ出掛け何事かを計画していたと言われます。甲子太郎はこの時期既に新撰組からの円満な脱退を模索しており、その動きを察知していた新撰組が烝を甲子太郎の監視に置いたとも考えられます。

慶応三年三月。甲子太郎ら十数人が御陵衛士として新撰組から分離します。

慶応三年六月八日。会津藩より新撰組に対して幕臣に取り立てられる旨の達しがありました。

諸士調役兼観察として実績を重ねた烝は副長助勤に昇格します。


十一月十八日には油小路事件。十二月九日には王政復古の大号令。

十二月十二日には旧幕勢力は京都を去り新撰組は最前線の伏見奉行所に転陣を命じられます。

十六日新撰組本隊は伏見に入るがその翌々日近藤勇は御陵衛士残党に狙撃されます。治療のために大坂へ下る近藤に護衛として付き添ったのが烝でした。

副長助勤に昇格しても諸士調役兼観察の任務も継承していたとも言われる烝。烝の諸士調役兼観察としての能力は近藤勇や土方歳三から多大な評価を受けていました。


翌慶応四年一月三日に開戦する鳥羽伏見の戦い。

一月五日。新撰組は伏見の城南宮に本営を置く新政府軍に対し淀川堤で激しい斬り込みを繰り返します。

現在は京都競馬場の駐車場へ渡る高架下に史跡戊辰役東軍西軍激戦の址と書いた木柱と、戊辰役東軍戦死者埋骨地と刻んだ石碑が並び、小さな松が立っているこの地で行われた淀堤千両松の戦いと呼ばれる戦いで烝は重傷を負い大坂まで後送されます。

そして水葬されたと伝わる烝。

水葬の詳細については幾つかの伝承が残っています。

順動丸と富士山丸に乗船し江戸へ帰還した新撰組。おそらく重症の烝が乗船したのは富士山丸。

慶応四年一月十一日。兵庫から由来へ向かう途中の紀州沖で死去。水葬されたと思われます。

江戸へ帰還後、新撰組は鳥羽伏見での戦死者の墓同様に烝の墓を建立していません。

東京北区滝野川寿徳寺境外墓地。慰霊碑に刻まれた隊士名。井上源三郎、原田左之助に次ぐ三人目の位置に刻まれた山崎烝の名前。烝のお墓と呼べるのはこの慰霊碑のみとなっています。



回復魔法を使うシズク。第二章では鈴木ミツキが回復魔法を使っていたけど、史実に基づけば医師の息子でもある山崎烝が医師松本良順に医学の手ほどきを受けるのは山南敬助が切腹してから。なので最終章で回復魔法を使うシズクをすんなり受け入れる事が出来たよ。


『ホノカは誰も成敗しておりませんー!』『気を付けてください!まだ魔薩長の影は消えていません!』

オープニングから諸士調役兼観察の類い希なる能力を発揮するシズク。

シズクの魔法は回復魔法なのですがこの探索能力こそ、山崎シズクの魔法に思えたよ。


新撰組の周防方と称された烝。山崎烝の資料を探してもなかなか見つからないのは変名を使用したり自らの存在を目立たせないように活動してきたからなのかもしれません。


もしも山崎烝が鳥羽伏見以降も生きていたら、甲州勝沼で先に新政府軍に甲府城を接収される事も、御陵衛士残党に勇が撃たれる事も、流山で勇が捕縛される事もなかったかもしれません。

兵は関東に限ると話していたという近藤勇が重宝した大坂出身の山崎烝。烝を失ってから新撰組は綻び始めたように思えます。


最後はレミーを生かすために自分を犠牲にし消滅するシズク。鳥羽伏見の戦いの山崎烝も自らの命と引き替えに誰かを助けたのかも。新撰組のために。近藤勇のために。シズクを見ていてそう思いました。


昨年11月この会場で初めて拝見したにっちょく隊のみーちゃん。コミカルな立ち位置のユニットかと思っていたらライブシーンでは一転真剣に歌い出して。ツインボーカルで歌う女の子がその時から気になっていたよ。客席から少し目線を上げたステージで歌うみーちゃん。その背中が天井からの照明に照らされて眩しく輝いていました。


【源's egg】の小町ちゃんでも。またゴブさんの作品でお会い出来て嬉しかった。

お会いする事は出来ませんでしたが小町ちゃんのチェキ買って帰ったよ。



世界が落ち着いたら。今度はご挨拶させてね。


『♪会いたいよ マジで~ こんなにも♪』あの日聴いたRe:memberのように。


伝えたい思いでみっっっーーーーーーーーーーーーーーーーーーちゃ溢れてんねん。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


『綺麗にスパッと!首を斬ってやりました!』

スプラッター映画のワンシーンのような台詞も!笑顔のリオンが言うと微笑ましく聞こえたよー!

またスパッと殺りたくなったら!いつでも言ってください!僕の首を差し出します!


居合の腕は新撰組随一。小野派一刀流と天然理心流の二流派を会得し人斬りの肩書を持つ隊士。

文政十一年。神田一橋に剣術家の次男として生まれた小野派一刀流の剣士、石山孫六の元で剣術を学んだ大石鍬次郎。

新撰組入隊時自己申告した流派は小野派一刀流。近藤勇と同じ天然理心流も会得していたのは間違いないと言われるが少年時代から学んだ小野派一刀流は、鍬次郎にとって重いものだったと言われます。

慶応二年二月の夜。西本願寺の新撰組屯所で今井という隊士の会話を偶然耳にした鍬次郎。会話の内容から今井が弟の蔵酒蔵を斬ったのでは?と感じた鍬次郎は今井に決闘を申し込みます。

原田左之助と土方から私闘を禁ずる隊規を守るよう諭される鍬次郎。土方からは近藤勇からの預かり物を一緒に守って欲しい。それは今井の命。と言われその場は収めますが今井を終生許せなかったといいます。


慶応三年六月。幕臣に取り立てられる新撰組。近藤勇から重宝された鍬次郎は諸士調役に任命されます。

その後坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられた紀州藩士護衛のため同宿していた油小路通りの旅宿天満屋では、紀州藩士を追ってきた二十名近い土佐藩士達と戦闘になります。紀州藩士の護衛にはなんとか成功しますが土佐藩士を一名斬っただけで二名の新撰組隊士を失ってしまいます。

慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗戦し新撰組も江戸に撤退します。この戦いで隊士の死亡が相次ぎ諸士調役は鍬次郎一人になってしまいます。

この年の二月二十七日。甲州街道の要となる甲府城を押さえに大石鍬次郎隊が先陣。三月四日。甲陽鎮撫隊と名を改めた新撰組に合流します。

この甲府城接収作戦は敵に先制されてしまい甲陽鎮撫隊は勝沼柏尾山にて宿陣、観音坂に備えた大砲を原田左之助が守り間道には斎藤一、山中には永倉新八が指揮官としてつき、大石鍬次郎は相馬主計らと本陣で近藤勇に付き添います。

三月六日。土方歳三が援軍を求め江戸に向かい、勝沼では土佐藩の指揮する敵軍との戦争が始まります。三方向からの攻撃を受けた甲陽鎮撫隊は笹子峠を抜けて八王子方面に敗走します。

新撰組は再起を図るため三月十三日から五兵衛新田に移り四月一日下総流山に転陣します。

その僅かな間に大石鍬次郎は新撰組を脱走してしまいます。


その後妻と子供と東京に潜伏していた鍬次郎は新政府軍に降っていた元新撰組隊士により捕縛されます。明治三年二月二十一日に身柄が兵部省より刑部省に送られている事から鍬次郎が捕縛されたのは二月中と考えられています。

坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられ薩摩藩からの拷問に近い尋問に始めは暗殺を認めますが兵部省での尋問では暗殺への関与を否定します。鍬次郎への嫌疑は九月二十日に晴れますがその後も拘束され続けます。

鍬次郎の妻たかは六歳の息子雷太郎を連れて親戚縁者を頼りますが、土佐藩の祟りが恐ろしいと何処の家でも寄せ付けてもらえず武州板橋の岡葛という遊女家へ子供連れで住み込み生計を立てます。

明治三年十月十日。大石鍬次郎斬首の判決が下ります。

明治三年十二月二十六日。囚獄とも呼ばれた伝馬町牢屋敷で処刑された鍬次郎。最後まで公務により殺害した伊東甲子太郎の件は罪ではないと訴え続けたそうです。


妻のたかは遊郭岡葛で雷太郎を十二歳まで育てました。その頃大石雷太郎では詮議が厳しいため本間歌吉と改名させます。本間はたかの旧姓なのかもしれません。

その後雷太郎は東京でも指折りの鼈甲職人となりささやかなお店を下谷稲荷町に開きます。たかは大正三年八月に亡くなるまで雷太郎の元で幸せな晩年を過ごしたと言われます。

たかの遺品からは鍬次郎の述懐が出てきました。

『十五夜に窓より月の入りしを見て 思ひきや屍は野辺にさらすとも ひとやのまどの月を見んとは』守親

父の述懐に雷太郎が続けます。

『父落命の日は明治三年十月十日 戒名は速成院宗心日明信士 詩にも記され候通り壮年三十二歳 守親の守は大石家の偉名にして余に在り候節は 大石鍬次郎源守親 と申し候』

本間家のお墓のある東京文京区日蓮宗蓮光寺。鍬次郎の戒名にある日明は日号と言い日蓮宗独自のもの。

大石鍬次郎は本間家の一族とともに。この蓮光寺で供養されたのかもしれません。



桐野ちゃんとミツキに襲われるマキナを助けに来たレミーとリオン。

しかし病で動くことの出来ないレミー隊長に代わり桐野ちゃんに立ち向かうリオン。

『私がやります!』

リオンの棒術!かめちゃんめっちゃ練習したでしょう!!

使い慣れた魔具を操るような巧みな棒術捌き。見事だったよー!!


次々襲い来る魔薩長の影達。最初は笑顔で戦うリオン。

でもまだ続くのー!!?ってハアハア言いながらも戦うリオンも可愛かったよー!!


『死にたくないよ…』泣きながら絞首台へ上がるリオン。

最後まで伊東甲子太郎殺害の罪に反発し刑死した大石鍬次郎のように。

ミツキの西洋銃で命を奪われる瞬間まで生に執着していました。

リオンの処刑のシーン。何度観ても切なくて切なくて…胸が苦しくなったよ…

稽古中彼女たちは何度涙を流したんだろう…


大石鍬次郎が処刑された伝馬町牢屋敷跡地は現在公園になっています。

江戸伝馬町処刑場跡の石碑、江戸伝馬町牢井戸跡として石垣の一部も置かれています。

その向かいにある日蓮宗の身延別院には油かけ大黒天様がいらっしゃいます。

その由来の書かれた案内板の最後にはこう書かれています。

『祭日 甲子の日 殊に年の初めと終りの甲子を大切にして参詣すべし』

大石鍬次郎が命を落としたその地にある甲子の日を殊に大切にと書かれた日蓮宗のお寺。

お互いの運命を分け合った大石鍬次郎と伊東甲子太郎。

新しい時代を見る事なく若くして散った二人は、今頃雲の上から公園を走り回る子供たちを笑顔で見守っているのかもしれません。

子供たちの笑い声を聞きながら…そんな想像をしていました。


東京おかわり女子旗揚げ公演。稽古場で誕生日を祝われていた女の子。

あの時からずっと気になっていたよ。

延期公演では残念ながらお名前がなくて【たともの】【ミラボク】も観劇出来ずご縁がないのかな…と思っていました。


みぶまほ最終章。出演キャストに亀田彩香の名前を見つけて本当にうれしかったよ。

このご縁。もしかしたら大石鍬次郎と伊東甲子太郎が紡いでくれたのかも。

そんな事を考えながら近々油かけ大黒天様に御礼参りに行きます。


そして願いも奏でるよ。


世界が落ち着いたら。かめちゃんにご挨拶出来ますように。


みぶまほで魅せてくれた満面の笑顔に。


会える日を楽しみにしています。


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稽古中Twitterに上がるケイカの写真がどれも格好よくて!!

中井杏奈ちゃんが気になって気になって公演が待ち遠しかったよー!!


『なかなか怜悧な男でかつ容貌万端の美男。また目上の物にも傲慢で大人しく言うことを聞かない性格』

幼い頃の左之助を知る松山藩士の言葉。

慶応三年六月。左之助は幕府直参に取り立てられ見回組格の格式を与えられます。この頃左之助の新撰組での序列は五指に入る程になっていました。

しかし慶応三年十二月。王政復古の政変により幕府も京都守護職も廃止されます。長州藩が入京し新撰組に転陣の命が下ります。元治二年三月に妻まさと祝言を挙げその年の暮れには長男が生まれた左之助ですが二人の結婚生活は三年弱で終止符を打ちます。十二月十一日妻の待つ自宅へ戻り息子の行く末をまさに託します。これが二人の最後の別れとなりました。

十二月十六日。伏見奉行所に入る新撰組。その二日後、伏見街道で近藤勇が御陵衛士残党に狙撃されます。

慶応四年一月三日。鳥羽伏見の戦いが開戦。伏見奉行所に駐屯する新撰組は薩摩藩砲兵陣地を狙いますが薩摩藩からの小銃射撃を受け苦戦します。伏見奉行所も炎上の被害を受けます。翌四日は伏見街道で戦い、五日の淀堤千両松の戦いで多数の死傷者を出し、六日には津藩の寝返りにより旧幕府軍は総崩れ。大坂へ退却します。土方歳三の副官として戦った左之助ですが旧幕府軍の鉄砲は旧式のため刀鎗による斬り込みで多くの犠牲者を出してしまいました。

その後甲陽鎮撫隊として甲府城接収に向かい、この作戦に成功すれば左之助にも三万石が分配される約束になっていました。

三月四日。甲府入りした甲陽鎮撫隊ですが板垣退助率いる軍が既に甲府城に入場していました。三方向から攻められ、鶴瀬と勝沼の間にある観音坂に大砲二門を据え左之助はここを守ります。しかし甲陽鎮撫隊は敗走。三月八日。八王子で甲陽鎮撫隊は解兵されます。

三月十一日。江戸へ戻った左之助は近藤勇との意見の相違から永倉新八と共に新撰組を離れます。そして永倉の旧友の幕臣と図り靖共隊を結成します。

江戸城引き渡しを明日に控えた四月十日。靖共隊は現在の東京墨田区横川の霊山寺に転陣。翌十二日。同寺を出発します。行徳宿を経て山崎の宿まで来たとき左之助は突然『余儀ない用事により行徳宿に戻る。済ませ次第後を追う』と言い永倉達も了承。しかし左之助は靖共隊に戻りませんでした。靖共隊を離れたはっきりとした理由は今も分かりません。

その後江戸に潜伏した左之助は東京上野東叡山に本拠を置く彰義隊に加入します。彰義隊は一橋家以来、前将軍の恩顧を受けた人々によって結成された徳川家のお墨付き。反薩摩、反長州の二千人を超える人々で結成されていました。

彰義隊討伐の命が出され始まる上野戦争は五月十五日に勃発しました。この戦いで銃弾を受けた左之助は五月十七日、息を引き取ったと言われます。享年二十七歳でした。

永倉新八は回想録の中で『官軍は江戸を囲んで靖共隊に帰ることが能きず、彰義隊に投じて上野戦争に戦死を遂げた』と語っています。

しかし彰義隊戦没者の遺骨を葬った東京三ノ輪の円通寺には左之助のものが含まれているといった記述はありません。妻まさも知ることが出来ず左之助の遺骸の行方は未だに分かっていません。それ故左之助生存説が語られることもありました。

日露戦争終結後の明治四十年。左之助は故郷松山に現れ弟の半次を訪ねこう語ります。

『自分は明治元年志那へ渡り馬賊に入り、のち頭目になり日露戦争では皇国の為に尽くした。出征軍人将校の中には自分を認めてくれた人がある。これが最後の別れと思い会いに来た』と。

しかし半次は左之助が坂本龍馬暗殺の下手人と聞いていた為に報復を恐れ余所余所しく接します。

そして『長く居るのも気兼ねだ。鉄嶺へ帰る』と言い松山を去ったそうです。

鉄嶺は旧満州に属する中国遼寧省北東部の都市。左之助を顕彰する石碑を立てる話しもあったが、坂本龍馬暗殺犯とされる左之助の存在は血縁者にとっては厄介なもので立ち消えになりました。

この話しが本当であれば左之助は当時六十八歳。

新撰組隊士として暴れまくった男らしい話として語り継がれました。



今年は観劇に行けなくて。この作品が今年初観劇でした。

初観劇にあたり強く心に誓った事。

《推し増しをしない》

局中魔法度に対抗して僕の頭の中に存在する〖ゴブ中法度〗は初日が近づくにつれ警戒アラームを鳴らし続けていました。

万全の心構えで挑んだ初日公演。

ケイカの赤い瞳に対抗し!僕の瞳にはハートマークが浮かび上がりました!

結果…軽率に推し増しをしてしまいました。


『ちょっと前まで俺たちはヒーローだったじゃねえか!!!』

男気溢れ魔薩長相手に立ち回り勝ち続けるケイカ。しかし徐々に追い詰められ敗戦を重ね京から東へと追い詰められる魔浪士組。自分たちの信じた生き方を進みながら気付くと朝敵の側に立場が変わり、それでも自らが消滅する瞬間まで仲間のために戦い続けたケイカ。

ケイカのあの叫びは。散っていった新撰組隊士たちの叫びに聞こえました。


最期には格好よく死ぬより格好よく生きたいと願うケイカ。

史実では靖共隊を離れてから出会う事のなかった永倉と左之助。

自らの最後をヒナノに見届けてもらえるケイカ。

彰義隊士として戦死した原田左之助も最後は永倉新八への感謝の言葉を口にしていたのかもしれません。


魔具を肩に掛けた立ち姿。言葉がなくとも動きがなくともゾクゾクッとさせる美しき色気。

ホノカには『末番の隊長になんかなーんも言われたくないですよ!』なんて言われるけど。

新撰組でも殿を務める事の多かった原田左之助。

中井杏奈の演じる原田ケイカは!!めっっっっっっちゃ最高の!!四番隊隊長でした!!


東京三ノ輪の円通寺。彰義隊士のお墓を見守るように地上遥か高い位置から見守る大観音様。

鉄嶺へ帰ると言い松山を去った左之助は、大観音様になって彰義隊士とこの街を見守ってくれているのかもしれない。

杏奈ちゃんの原田ケイカを思い出しながら…そんなことを思ったよ。



世界が落ち着いたら。ご挨拶させてね。


杏奈ちゃんにお会いした瞬間


僕はきっと恋に落ちます。


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182cm150kg。五斗俵三俵持つ程の腕力と伝わる島田魁。

アイドル業もこなすみきちゃんはその巨漢を魔法で隠していたのでしょう。


文久十一年。美濃厚美郡に近藤伊右衛門の次男として生まれた島田魁。

江戸へ出て心形刀流を学び同門の永倉新八と出会います。二十九歳の時に名古屋城内の御前試合で優勝。腕を見込まれ大垣藩士島田才の養子となります。

文久三年五月までには浪士組に入隊する魁。その時点の壬生浪士組は総員三十五人。壬生浪士結成メンバーが十五人。残り二十人の新人隊士のうち唯一明治二年の函館戦争まで参加し、函館戦争を生き抜く事になる最古参隊士。

諸士調役兼監察という役職につき、元治元年四月には火災現場に向かった際に不審な人物を捉え、京都を追われた長州藩士が潜伏している事を突き止め、結果池田屋事件へ繋がる活躍も見せるも、御陵衛士の残党に近藤が狙撃された際に護衛についていたが近藤を護ることが出来ず、戊辰戦争では弁天台場でも土方を護ることが出来なかった魁。

戊辰戦争後は降伏人としての禁錮が解かれ家族と美濃へ帰りその後京都で雑貨屋を開くが上手くいかず、西本願寺の裏手に剣術道場を開き生計を立てていた魁のもとへ、明治政府へ出仕した友人から新政府に仕えてみてはと誘われるがこう断ったそうです。

『若くして死に。地下に眠っている友人はどうするのだ』

その他に岐阜県の県令に推されても、爵位を授けられる話も断り続けた魁。会いたいので訪ねてきてほしいとの榎本武揚からの誘いには『行く必要はない。先方から出向くのが礼儀』と拒否したエピソードなど。

池田屋事件から三条大橋制札事件、油小路事件、鳥羽伏見の戦い、江戸から甲州勝沼、流山、宇都宮、会津、函館戦争までを生き抜いた新撰組隊士としての意地は、明治の時代になっても島田魁の中に生き続けていたのかもしれません。

長男を二十五歳、長女を十七歳、三男を十七歳、妻も長女と同じ年に亡くした魁は、肉親の縁には恵まれなかったのかもしれません。

最後は西本願寺の境内で倒れ七十三歳の生涯を閉じた魁は、函館戦争降伏後からは近藤や土方、散っていった仲間たちへの念仏を欠かさなかったそうです。

特に『実に古今無双の人傑なり』と称した近藤、戒名を書いた紙を常に身に着けていた土方への思いは、魁に責めがなくとも二人を護り通す事の出来なかった無念を持ち続けていたのかもしれません。



『ちょっとあなたたち!アタシはひとつ年上よ!』

そんな台詞も。座組はみな先輩ばかりで少し前まではしっくりこなかったよ。

今はなき聖地Kホールでのミニシアターからゴブさんの作品にたくさん関わってきたみきちゃん。

カリィとサリィへのそんな台詞も、ゴブさんファミリーに新しく加わった菜々ちゃんとおちよちゃんに言っているようで可笑しかったよ。


『隊長が死んでもわたしは死にません!』

ヒナノに言い切るホノカ。恐るべきB級魔法少女。


ホノカの魔具。ガス欠のように魔法が発動しないB級の魔具。

もはや五斗俵三俵持つ程の腕力を持つ島田魁のように!!

ホノカは王子が作成した魔具ではなく魔薩長に白兵戦を挑んだのでしょう!!

桐野ちゃんが締めあげられヒイヒイ言ってる姿が目に浮かびます!!

その事実は魔浪士組顚末記で語られる事はなかったのかも。

どこまでも恐るべきB級魔法少女。


ヒナノ、ネリッサと共に最後までマキナの密命としてB級魔法少女として生き抜いたホノカ。

『誰かを守るためには生き抜かなければならない』

ケイカの最後の言葉を忠実に守ったホノカ。

『末番の隊長』と称したケイカの後を継ぐように…

魔浪士組の殿を務めたのかもしれません。


劇団新劇団旗揚げ公演にはスタッフとして参加されていたみきちゃん。

その他の公演にも、何度もゴブさんの作品を助けに来てくれたみきちゃん。

みぶまほ2から島田ホノカとして続投。

そして初めてのシングルキャストでの出演。

嬉しかったと思うよ。



ソメイヨシノでのアイドル役も新鮮に感じたよ。

と、思ったら本物のアイドルまで始めていました。


七年前。初めて観劇したゴブさんの作品で客入りの会場内で流れていた曲。

あの曲が大好きで。未だに特攻のマクベスCDのカップリングで聴いているよ。


世界が落ち着いたら。アイドルの雨宮みきにも会えたらいいな。


そして僕の大好きな〖桜メモリーズ〗


アイドル雨宮みきの歌うこの曲も。いつか聴けたらいいな。



島田魁は新撰組の歴史を後世に残そうとあらゆる物を大切に保管し残していました。

遺品の中には〖誠〗の文字が書かれた肩章や各年代の在隊士を記した隊士名簿。

そして新撰組の歴史を書き記した〖島田魁日記〗


この先は僕の勝手な想像だけど

初めて観劇をした日の思い出。

学生時代に初めて舞台に立った日の思い出。

初めてきららちゃんに会った日の思い出。

初めてゴブさんに会った日の思い出。

初めてKホールでお稽古をした日の思い出。

初めて劇団新劇団に出演した日の思い出。

仲間を大切にする彼女の思い出を記した〖雨宮みき日記〗

そんな日記も

この世界の何処かに存在していると思っているよ。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


大友ちゃんが一枚一枚手作りで作成してくれた魔浪士組の衣装。

いつから作ってたの!!?どれもそれぞれの人物イメージに合わせた見事すぎる出来栄えでした。

こんなご時世でなければ。魔浪士組ファッションショーが見たかった。


慶応四年。永倉新八と原田左之助が新撰組を去り唯一の副長助勤となった斎藤一は負傷者を連れ会津へ向かいます。負傷者を先発させるという事は会津藩に彼等の世話を願う事であり、それにはそれに応じた人物でなければ礼を失します。この段階で近藤土方に次ぐ新撰組第三の地位にあった一がその任を受けます。

近藤勇も新撰組の次なる戦場は会津と考えており再起した新撰組として会津へ向かう事を考えていました。

そのため五兵衛新田を選択しここで新撰組の隊士数を増大させます。

官軍が屯しているとの情報を得た一は陸路を断念し海路利根川を古川宿へ向かいます。そこから日光街道を宇都宮へ向かい宇都宮から奥州街道を北上し白河宿に至ります。白河から白川街道を通り猪苗代湖の南岸に出て若松城下に向かいます。到着したのは三月二十三日以降と思われます。

五兵衛新田の新撰組は流山に転陣後、新政府軍により近藤勇が捕縛され四月二十五日斬首されます。

流山で武装解除された新撰組は伍長の安富才助を隊長に百人程が会津を目指し四月下旬には会津へ入り一らの先発隊と合流。四月二十九日には土方が島田魁ら六人の隊士と共に合流します。

この頃一らは近藤勇の墓が建立された天寧寺を屯所としたと考えられています。

慶応四年四月二十五日。土方が怪我のため一を隊長とする新撰組は会津藩により落とされた白河城の守備を命じられます。ここでは勝利を収める新撰組ですが五月一日の新政府軍の攻撃により敗走します。

五月二十六日。新撰組は会津藩と共に白河奪還へ兵を進めますがまたも敗走。その後も白河奪還には至らず敗走を重ねます。七月一日の攻撃に敗れこれが新撰組最後の白河への攻撃になりました。

七月十五日。会津藩は奥羽越列藩同盟軍で再度攻撃をかけますが敗れ白河奪還を諦めます。新政府軍は白河を拠点として奥羽越列藩同盟に加盟する諸藩を下し会津への侵攻の機会を伺います。

八月十八日。母成峠の守備を命じられた新撰組は出陣しますが、この時も一が新撰組を率います。怪我が癒え戦線に戻った土方は新撰組と共に出陣した伝習第一大隊と回天隊の総督としての地位にありました。

母成峠は二本松方面からの敵に備える要所の一つ。山頂に本陣が置かれ、下った中軍山と八幡山の台場、中腹の萩岡の台場と三段の守備陣が構築されています。

新撰組は山頂からニキロ程下がった勝岩という渓谷の守備にあたります。

八月二十一日午前九時。新政府軍の砲声が響き戦いが始まりました。新政府軍の砲撃により火災が発生するなど母成峠の守備陣は混乱します。正午には新撰組以下全軍が敗走します。

大滝山の山中に逃げ込んだ一は猪苗代城下を目指します。

その頃土方歳三も母成峠に向かっていましたが母成峠が落ちたため猪苗代へ向かい二人は再会します。

土方は援軍要請に走り、一方の一は若松城下へ走り母成峠の敗戦を伝えます。

母成峠の敗戦は新政府軍の若松城下への侵攻を許し八月二十三日より会津藩は籠城戦を余儀なくされます。


母成峠での敗戦後新政府軍が迫る会津ではなく庄内地方へ逃れようとする土方や旧幕臣らと反目する一。

『ひとたび会津へ来たりたれば、今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず』

落城しようとする時に見捨てるのは志に反すると会津藩兵に加勢します。

一にとって京都時代に新撰組を実質的に統括する立場だった会津藩士達とは何年も苦楽を共にした仲間であり藩主の松平容保は面倒を見てくれた大恩ある主君に等しい存在でした。


慶応四年は九月八日に明治元年となりました。

その九月二十二日。会津藩降伏。松平容保と喜徳の親子は妙国寺に謹慎。

会津藩兵として降伏した一は塩川へ送られます。一は変名の一瀬伝八を名乗り高田藩預かりで静養していましたが会津藩が斗南に移封されると聞き脱走しています。


明治三年。松平容保から藤田五郎という名前を与えられ斗南藩五戸村の倉沢家に寄宿します。のちに一の妻となる高木時尾が倉沢家の養女となり倉沢家で同居を始めます。

明治四年二月。一は倉沢家の長女やそと結婚。しかし明治七年六月十日。一はやそを残して上京してしまいます。明治九年七月。やそは五戸村の倉沢家へ戻ったとも伝えられますが以後の消息は伝わっていません。

上京した一は松平容保仲人のもと元新撰組隊士である事は隠し元会津藩士の娘である高木時尾と結婚。警官への道を歩きます。

明治十年五月十八日。九州地方へ出張。西南戦争への従軍が決まります。

警視庁徴募隊半隊長、抜刀隊の一員として戦場へ向かいますが被弾し戦地を離れます。

帰京した一には妻の時尾と生まれたばかりの長男が待っていました。明治十二年十月には次男が、十九年七月には三男が誕生。次男は会津藩家老の孫娘と結婚、三男は会津藩家老格である沼沢家へ養子に入ります。戊辰戦争で一家揃って自害を遂げた沼沢家の跡継ぎとして養子として貰われました。

そして明治二十四年まで警察官の職務を全うします。

その後文京区湯島一丁目にある湯島聖堂構内に新築される東京教育博物館の看守を勤めます。

退職後は剣術指導もしていた斎藤。警察官時代の剣術査定では平凡な四級の成績しか残せなかった斎藤はこの頃五十際前後でありながら有段者の生徒が束になり掛かっていっても小手をかすらせる事すら許しませんでした。警察官時代には新撰組としての過去を悟られたくなかったのかもしれません。


大正元年二月。長男に子供が産まれます。一の初孫でした。

このころ一は終焉の地となる本郷区真砂町の借家に住んでいました。自宅には地方出身の女学生を寄宿させていました。その寄宿生の一人だった西野みどりが長男の妻となりました。


大正二年九月二十八日。一の次男が元会津藩家老の孫娘と結婚式を挙げた際に撮影された家族写真。

そこに写る髪も髭も白髪の老人。藤田五郎。

それは近藤勇も土方歳三も沖田総司も見ることの出来なかった、斎藤一が見た世界でした。


大正四年九月二十八日。その最後を西野みどりは一風変わった臨終だったと伝えています。

『もう駄目だと悟ったのか自分の身体を床の間へ運ばせました。そしてその上へ座りました。ひっきりなしにたんが出て喉がぜいぜいとなり、座ったまま亡くなりました』


若松城下七日町の阿弥陀寺には会津戦争で戦死した千二百八十一人の遺体が埋葬されました。

一の妻時尾はいつまでも会津戦争で散った人々を忘れる事なく晩年は阿弥陀寺に眠る霊を祀ることに尽力しました。

一が死去して二年後。長男が阿弥陀寺へ墓所の建立を申し入れ認められます。会津で眠りたいという母時尾の願いがあったとも言われます。

その三年後。大正九年十二月二十四日。高木時尾が生涯を閉じます。

一と時尾。二人は阿弥陀寺の墓所に納められたと言われます。

阿弥陀寺の過去帳に二人の名前は記されていませんが、墓誌には二人の名前が刻まれています。

高木時尾は生まれ育った地に戻り。

斎藤一はかけがえのない地に戻り。

今も一緒に眠っています。



いつもクールなネリッサ。甘味屋へ行く時に始めるウォーミングアップがシリーズ通して可笑しかったよ。

甘味について熱く語るネリッサ。今回全通して気付いたけど日替わりで語っていました。

甘味についても大友ちゃん自ら調べてきたのでしょう。

軽く流されてしまうのが勿体ないくらい毎回詳しく語っていました。

『みんなで甘味屋へいこー!』レミーのかけ声に軽く右手をつきあげるミリカ。

鬼の副長さえ魅了する魔浪士組行きつけの甘味屋さん。いったいどこにあんねん!!行きたいねん!!

Twitterに書いてくれた衣装解説のように!甘味屋の詳細も知りたかったよー!


『私たちの団結の証』とマキナが称した魔浪士組のマントをミリカへ渡すネリッサ。

魔法学園を守るために松平セントを守り抜くことを選択するネリッサ。

大千穐楽。わたしの魔浪士組はここで終わりとマントを外すネリッサは、魔浪士組とも舞台とも終わりを告げる大友沙季と斎藤ネリッサの誠義に見えました。


三年振りの全通。公演が行われるかも不安定なこの御時世。どうしてもこの作品だけは観たかった。

斎藤一が貫いた誠義。それが正しいか悪いかは他人には判別出来ないもの。

この作品で無期限の舞台俳優業休演に入る大友ちゃんの決断も。他人が口を出せない大友沙季の誠義。

見守ることしか出来なかったけれど。

大友沙季がいた歴史を僕はこれからも笑顔で思い出します。


ヒナノの頰を張るネリッサ。それでもヒナノは魔浪士組から離れてしまいます。

大千穐楽。ヒナノとケイカが魔浪士組から抜けるシーン。

二人が去ったあと、ネリッサは舞台上で何かを拾いました。

それが何かは見えませんでしたが、ただそれをとても愛おしそうに胸に押しあてるネリッサ。

あれは…演出には見えませんでした。

もしかしたらヒナノかケイカの魔具の一部か衣装の一部だったのかもしれません。

でもネリッサはそれをとても大切なもののように抱きしめていました。

あんな素敵なキャスト全員分の衣装を作ってくれた大友ちゃんへの、舞台の神様が与えた魔法のような奇跡の偶然であったように思えました。



魔浪士組の団結を示すマントの模様。


魔浪士組が整列し背中を向けた時に綺麗に並ぶ花柄模様。


マントが靡き揺れる花柄模様。


僕はあのデザインが大好きでした。




世界が落ち着いたら。


劇団新劇団の新作フライヤーに衣装担当大友沙季の名前を探します。


もしもどこかでお会いする機会があったら…笑顔でお会い出来ますように。


どうぞこれからもお元気でいてね。