壬生魔浪士組最終章 ~魔法少女たちの足跡~ 2022/8/11~14 武蔵野芸能劇場 vol.4 | YUのブログ

YUのブログ

ブログの説明を入力します。

すっかりゴブさん作品の常連になった菜々ちゃんとおちよちゃん。

みぶまほ最終章でも会えてうれしかったよー!!


新撰組への入隊時期は定かではない相馬主計。慶応三年六月の名簿に名前がないことからそれ以後の加入と見られています。

慶応四年三月一日。甲陽鎮撫隊として甲府へ向かう際には『大石鍬次郎、隊長附組頭相馬主計組残らず大久保剛に附居る』とあり相馬主計組総員が大久保剛こと近藤勇に付き添っていたとされます。

甲陽鎮撫隊での敗戦後五兵衛新田に駐屯していた新撰組は迫る新政府軍を避ける為に流山に転陣します。しかし四月三日本陣は新政府軍に包囲され近藤勇は新政府軍に捕縛されます。

近藤を連行した新政府軍が流山を出発。その行く先が板橋と知り土方歳三は二人の隊士と共に江戸へ向かいます。その一人が相馬主計。江戸で勝海舟と面会し近藤勇の助命工作を依頼します。江戸城引き渡しを数日後に控えた時期でもあり土方が勝海舟から旧幕脱走軍の何らかの指示を受けたらしく土方はこのあと榎本武揚とも面会します。この面会にも相馬主計の姿があり勝海舟や榎本武揚からは特別な存在と認識されたとも言われます。


四月五日。相馬主計は近藤勇宛の書簡を手に板橋宿の東山道総督府を訪れます。土方から近藤勇救出の依頼を受けた勝海舟が歩兵頭格の松濤権之丞に指示し土方の潜伏先に届けさせる近藤勇救出の切り札を、土方は主計に託しました。

しかし総督府に到着した主計は近藤勇との面会も出来ず捕縛されます。四月二十五日近藤勇は斬首されますが同時に斬首が決まっていた主計は助命され笠間藩に預けられます。その後主計がどのように過ごしていたかは伝わっていませんが、五月二十五日に勃発した上野戦争。ここで開陽艦に乗り込んでいた幕臣が砲声聞こえる上野の街について記した記録に、近藤勇手の卒二人と共にいたと記しておりこれが相馬主計だったのかもしれません。榎本武揚は後に上野戦争で敗れた彰義隊を匿っており土方歳三と共にいた相馬主計を自らの開陽艦に保護していたのかもしれません。


慶応四年六月。江戸から海路奥州へ脱走する旧幕陸軍隊がありました。本来の計画では隊を増員後海路奥州への予定が新政府軍の急襲を受け急遽江戸を脱出する事になりました。この隊に相馬主計の名前があります。ここまでは相馬肇を名乗っていた主計。この脱走を機して主計へと改名します。

急遽行われた脱走の為に事前準備した船が使えず品川沖に停泊する旧幕艦隊の力を借りたと言われ、この事からも先の開陽艦に乗り込んでいたのは主計だったとも思われます。

磐城久ノ浜に上陸した隊は陸軍隊と称し庄内藩から誘いを受けていましたが、磐城方面に新政府軍が進出し始めたため仙台藩への支援を命じられます。

八月五日。白石城での奥羽越列藩同盟公議府で陸軍隊幹部が奥羽越列藩同盟の盟主となった輪王寺宮にお目見えしたことが記されています。日記には『左衛門組下の内、相馬主計は殊に器量の者』と記され、江戸を脱走してから一月程で既に殊に器量の者と言われる活躍を見せていました。

九月三日。仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議が開かれ八月下旬に旧幕艦隊を率い仙台に到着した榎本武揚、会津から仙台入りした土方歳三も出席しています。おそらくはここで主計は土方歳三と流山以来の再会を果たしたと思われます。この軍議で仙台藩は新政府軍への恭順を示し奥羽越列藩同盟は崩壊します。


十月十二日。折浜を出航した旧幕艦隊は十九日から蝦夷地沖に姿を表します。蝦夷地に上陸した旧幕軍は二十二日から本堂と間道二手に別れ五稜郭を目指します。

蝦夷地上陸時の新撰組隊長は安富才輔。安富が隊長の新撰組に主計は軍監として付属したと言われます。

十一月十七日。旧幕軍が松前藩に降伏の申し入れを行い二十四日には軍監人見勝太郎と共に松前藩兵を引き渡された主計は正式な和議のため松前へ向かい終戦処理をしていたと思われます。

年が明け函館に姿を見せる主計。函館市民が書き記した函館戦争の記録【函館軍記】には主計の名前が多く記されています。主計は軍事民事の執行官として旧幕軍の顔と認識されていました。

新撰組は土方歳三の函館市中取締就任により函館警備を命じられます。主計は陸軍奉行添役のまま新撰組に属して事実上の新撰組隊長となっていました。函館市中の取締は土方歳三、相馬主計、新撰組というラインで行われていました。


明治二年三月。旧幕軍では蝦夷地に向け北上する新政府軍艦隊の甲鉄を奪取する作戦が立案されます。その指揮艦である回天に土方歳三と共に主計も乗り込みます。作戦は失敗、主計も負傷します。

四月九日。新政府軍が蝦夷地に上陸。そして五月十一日の函館総攻撃を前に旧幕軍幹部は武蔵野という妓楼で別杯を交わします。これが主計と土方の最後の別れになりました。

夜明け前。新政府軍の攻撃が始まります。主計は弁天台場にて籠城します。十一日の函館総攻撃でほぼ勝利を確定させた新政府軍でしたが五稜郭と弁天台場の旧幕軍は抵抗を続けていました。弁天台場には艦砲射撃による攻撃が加えられました。これを見ていた函館市民は函館軍記に『弁天台場には相馬主計罷在。なかなか落申さず』と書き記しています。

十三日。本営である五稜郭との協議を求める旧幕軍。新政府軍は弁天台場への攻撃を一時中断します。翌十四日に主計は五稜郭へ向かいます。主計は榎本武揚の意思が徹底抗戦であることを確認し弁天台場へ戻りますがその道中、土方歳三戦死の報を聞かされます。

五月十五日。新政府軍からの恭順の誘いに弁天台場の旧幕兵二百七十名は帯刀を条件に決します。六年間にわたる新撰組の歴史が幕を閉じました。

五稜郭に伝える弁天台場恭順の書簡の末尾にある添え書きには名実共に主計が新撰組隊長に就任した旨が記載されていました。これを機に主計は主殿と改名しています。


五月十八日。五稜郭開城。五月二十二日には主計に榎本武揚以下七名函館を出発し青森へ送られます。その後東京軍務官糾問所へ護送され六月三十日到着後投獄されます。

主計は旧幕軍首謀者としてだけでなく坂本龍馬暗殺容疑でも取り調べを受けます。

明治三年二月。大石鍬次郎と共に兵部省から刑部省へ移送され伊東甲子太郎殺害をも追求され十月十日に大石鍬次郎は斬首。同日主計は流刑終身が言い渡されます。

十一月十八日。伊豆諸島新島に到着した主計は大工棟梁の植村甚兵衛に引き取られます。植村家の空き隠居所が住まいとしてあてがわれ甚兵衛の次女十八歳のマツが生活の世話をすることになりました。

主計は島民に読み書きを教え生業としていました。また無法者が現れた時には風呂炊き用の薪を刀代わりに立ち回り無法者を追い払ったと言います。しかし歓声を上げる島の子供達にはこれからの時代は武術でなく学問とたしなめたそうです。

この年の十月。主計に赦免が言い渡されます。新島在島二年の間に主計は世話をしてくれたマツと夫婦の間柄になっていました。離島する流人は島で持った妻子を残す事が多かったのですが主計はマツを伴い島に別れを告げます。


東京に戻り蔵前に住んだ主計。ある日マツが家に帰ると障子が真っ赤に染まり割腹自殺を図った主計の姿がありました。日頃から『私のことは一切他言無用』とマツに伝えていた主計。マツが最後まで主計の願いを守ったため真相が伝わる事はありませんでした。

切腹の理由は分かりませんがこんな話しが残されています。

蔵前に住む主計に榎本武揚から鳥取県令推薦の話しがありました。しかし主計は苦しい生活を続ける元隊士達を前に自分だけが楽な道は選べないと辞退します。

出仕は士道に背く行為でした。

蔵前には多くの元隊士達が住んでいました。主計の元には嫌みや中傷もあったと言います。生活に困窮する彼等の中には主計が明治政府に出仕しそれによる救済に期待していた者もいたと。それを辞退した主計を非難したとも。悲しくも新撰組隊士であった事実を忘れなければ生きられない現実。

相馬主計はかつては死をも賭すに値した士道が消えゆくことを感じたのかもしれません。

最後の隊長である自らの死をもって。

相馬主計は新撰組の士道を不朽のものにしたのかもしれません。


東京オリンピックを翌年に控えた2019年築地でのマチコ先生。あの日初めて拝見した空手少女。空手の型を披露しふでさんや藍さん達と並んでいた女の子。またゴブさんの作品で会いたいと思っていました。

昨年四月の【ソメイヨシノ】当初のキャストにお名前はなかったけれど延期振替公演となり新たに発表された中におちよちゃんの名前を見つけて嬉しかったよ。

【Ager】【源's egg】にも!おちよちゃんの笑顔が観られる機会が増えてうれしかったよ!

【ソメイヨシノ】でのおちよちゃんの台詞。

『未来が変わったんちゃうん?』確かこんな台詞があったと思うけど…

あのとき公演が延期にならなければこんなに沢山ゴブさんの作品でお会いする事はなかったかも。

そんな事を時々思いながら!最終章でも可愛いおちよちゃんを観ていたよー!!


菜々ちゃんを初めて拝見したのはふでさんと市原さんも出演したコントユニットTOO。あの日言葉で表すのも危険な着ぐるみを着たふでさんの姿が強烈で!とても今作で真面目感しか感じられないナレーションを務めるなんて想像もしなかった!最終章のナレーション!言われなきゃふでさんって気付かないよねー!

『これより換気休憩に入ります』ふでさんのナレーションが!真面目一辺倒のまま終わる訳がない!そう感じて僕は天井からタライが落ちてこないか常に気を付けていました!

サリィのテレパシーでふでさんへ伝えてください。

『今月のふでばこ!グランドピアノ抱えて伺います!タケ○○ピアノより高価買取お願いします!』

ガラガラ担当市原さんも!ガラガラに魔法掛けたの菜々ちゃんでしょー!初日は誘惑に打ち勝ったのに二日目に突然!ガラガラの魔力に捕らわれました!

非売品のツーショにソロブロマイド!どれもみんなかっこよく写ってたよー!!

そして遂に!諦めず回し続けた千穐楽マチネ!市原さんを…もとい、サイン入りTシャツを引きました!

似てるスタッフさんだなと思いゴブさんに訪ねました。

『市原さんですよね?』『そうです!市原くんは役者を諦めこちらで働いています!』

サリィのテレパシーで市原さんへ伝えてください。

『ガラガラの市原さんも好き!でも役者の市原ユウイチが僕は大好きです!役者を諦めないでください!』


あともう一人。サリィとカリィにテレパシーで伝えて欲しい子がいます。

『最終章のダンスも!!めっっっっっっっっちゃ高まったよ!!!!鈴木彩乃ちゃんの振り付け!!僕は大好きです!!』


マキナ局長に襲いかかる桐野カナヲと鈴木ミツキ。

ここでカリィが桐野ちゃんを討ち取っていれば!歴史は変わっていたのに!!

次々かわされるカリィの魔法。ムーンライトセイバーセカンドもかわされたカリィは呟きます。

『サードまで出すべきだったか…』

果たしてサードを出していれば!歴史は変わっていたのか!?

いや!サードを出しても!桐野ちゃんに余裕でかわされたでしょう!!だって桐野ちゃんは最強!!

でも僕は!『何でサード出さへんねん!!』なんて!可愛いおちよちゃんを責めるなんて出来ません!!

サードを出したければ!僕にかけてください!いつでも受けに参ります!!


母親のいない総司にとっては母代わりの大切な二人の姉。しかし史実では二人とも総司が亡くなるその場に立ち会えず孤独に死んでいった沖田総司。

せめて沖田レミーの最後だけは、魔浪士組の仲間として、姉代わりの肉親として、傍にサリィを置いてあげたかったのかも。

その為にゴブさんが考えたのが相馬主計双子設定だったのかも。

その大切なポジションを、ゴブさんの作品で主演を重ねてきた信頼する菜々ちゃんに託したのかも。

史実通り先に消滅する山崎シズクの後を次いだ回復系魔法のサリィ。

最後まで沖田レミーに寄り添い回復を信じたサリィ。

助からないのは分かっていても…心の中でサリィの魔法に願いを込めたよ。


『私たちにまかせてください!』

オープニング。魔薩長の大きな影を切り払うサリィとカリィ。

あの登場シーン!二人かっこよかったよー!!


『なんすか?センパイ!?やるんすか!?』

史実通り入隊の遅い二人にとっては大先輩にあたるホノカを揶揄う姿も可笑しかったー!


『マキナ局長に憧れているんです!マキナ局長の次の局長になります!』

それはサリィとカリィ二人の願いだったと思います。

マキナ局長に憧れたサリィとカリィ。

マキナの最後はホノカから聞いたのかもしれません。

《魔法少女をも守る魔法少女》

マキナが残した士道を守るため

二人は最後の魔浪士組局長になったのでしょう。


最後は二人で。お互いの身体を魔具で貫いたのかもしれません。

消滅する最後の瞬間まで

二人は尊敬するマキナ局長のように

笑顔で旅立ったと思っているよ。


ゴブさんの作品観劇後。初めてご挨拶出来る女の子たちに会えるのも楽しみだったよ。

変わってしまった日常。菜々ちゃんにもおちよちゃんにも未だにご挨拶出来ていません。

最近は映画を観た感覚になり、ご挨拶出来なくてもしょうがないかなって思うようにもなるけど。

でもやっぱりお二人にも。いつかお会いしたいと思っているよ。


世界が落ち着いたら。ご挨拶させてね。


立派なゴブさんファミリーになったお二人に。はやくお会いしたいよ。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


沖田総司の三段突き!魔薩長との戦いではレミーも必殺技にしてたねー!!

最終章の沖田レミー!めっちゃ可愛くて大好きでした!!


天保十三年。陸奥白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれた沖田総司。

母の名はわかっていません。生きているのか死んだのか末路がいっさい不明。沖田家の菩提寺麻布専称寺の過去帳には三代前からの記録が残されていますが母にあたる人物の記載はありません。

複雑な生い立ちに生まれた総司はその三年後父の勝次郎も病気で失い総司は四歳で両親を失いました。

その後長姉のみつが婿を取り沖田家を相続。総司は内弟子として試衛館に預けられます。ここで総司の剣技は飛躍的に上昇します。近藤勇土方歳三と出会うのもこの頃でした。

試衛館塾頭になった総司は実力は抜群であったが他人に教えるのはあまり上手とは言えませんでした。

『敵を刀で斬るな。からだで斬れ』門弟達に総司が言っていた言葉。小手先だけの剣ではなく全身全霊をもって敵にぶつかれと教えていました。

『やっ!と言って一度イナズマのように突いていって、手応えがあってもなくても、石火の早業で糸を引くように刀を再び手許に引くと、間一髪を容れずにまた突く。これを引くともう一度突く。この三つの業が全く擬身一体ひとつになって、即ちこの三本で完全な突の一本となる』

三本の突きが一本にしか見えなかったという総司の三段突き。天然理心流を学んでいた総司ですが、実戦を重視していた天然理心流は相打ちになりやすい突き技を嫌っていました。

総司は流儀の教えとは別に独自の技を稽古していたと言われます。


その後近藤らと浪士組を結成。乱暴で粗暴、酒を飲むと手がつけられないと浪士組の評判を貶めていた初代局長の芹沢鴨を討ちます。

芹沢鴨襲撃事件翌日。襲撃場の八木家の勇之介という少年が足に怪我を負っているのを見掛けた総司は、主人の八木源之丞に勇坊にまで怪我を負わせ申し訳ないと詫びをいれます。勇之介の兄の為三郎は『沖田はあれでなかなか正直なところがあり気のいい人物でした。罪科のない子供にまで怪我をさせ気の毒に思ったのでしょう』と語り継いでいます。

非番の時の沖田はよく壬生寺境内で為三郎と勇之介の兄弟や近所の子供と鬼ごっこをして遊んでいたとも伝わっています。子供好きで明るく穏やかな性格であったそうです。

美男として伝わる総司ですが史実でそれを裏付けるものはありません。背が高く肩幅の広い色黒の青年だったと伝わるのみです。しかしこんな言い伝えが、沖田総司美男説を作りあげたのかもしれません。


慶応元年六月の池田屋事件。総司は敵を一人倒した所で激しく咳き込み戦場から離脱。肺結核に犯されていました。その後の禁門の変には参加せず療養に努めていた総司。体力は少しずつ回復していました。

慶応元年夏の隊の再編成では変わらず一番隊隊長の地位に就く総司。永倉新八や斎藤一もいたが近藤勇の総司に対する信頼は揺るぎませんでした。

慶応三年六月。新撰組は屯所を西本願寺から不動堂村へ移します。この頃から総司の病状は悪化。

十二月十八日伏見で近藤勇が御陵衛士残党に狙撃された際も動けず、永倉新八が二番隊と一番隊を引き連れ出動しています。

慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いにも参戦出来ず負傷した近藤と共に大坂城内で療養を余儀なくされます。

鳥羽伏見の戦いで旧幕軍は惨敗。鉄砲大砲などの最新兵器で武装した新政府軍には刀槍で戦う新撰組は手も足も出ませんでした。

剣一筋に生きてきた総司は現実を思い知らされます。それでも持ち前の明るさを忘れず敗戦後江戸へ引き揚げる軍艦の中でも冗談を言い周囲を笑わせていました。


三月。甲陽鎮撫隊として出陣する新撰組に総司も加わります。この頃の総司は戦力どころか見ているだけでも痛々しい程に衰弱していました。

三月二日。多摩の日野宿を通過する甲陽鎮撫隊。その辺りまでは総司も気力で付いていきます。しかしここまでが限界。離脱した総司は江戸に送られ千駄ヶ谷の平五郎という義侠心厚い植木職人の元で療養します。

病身を休めるには良い環境でしたがたった二人の身内である二人の姉は既に江戸を離れていました。

沖田の元には長姉のミツが毎日のように訪れ看病していたと伝わりますが、夫の沖田林太郎が属する新徴組は支配の庄内藩の帰国に従い二月二十六日に江戸を発っています。次姉のキンも夫の三根山藩士の中野伝之丞と共に二月二十五日に帰国の途についていました。

二人の姉も新撰組も江戸を離れ一人江戸に残された総司。四月二十五日に近藤勇が板橋で斬首された事は総司には伏せられていました。

『先生はどうされたのだろう…お便りは来ませんか』といつも気にしていたと言います。

五月三十日。剣一筋に生きた沖田総司は二十七歳で生涯を閉じます。その夜。麻布の専称寺に葬られたと伝わります。



シアワセサンカのきよちゃん。二月のおやっとさあは観劇出来ず、一期一会の言葉通りもうお会いする事はないのかも…そんな事も考えていました。


最終章で再会出来た宇塚さんのレミーちゃんが!とにかく可愛くて!!

『ヒナノちゃんー!そんなんじゃいつまでもアタシに勝てないよー!』なんてヒナノを揶揄う声も!

『こんなに元気だよー!へへー!』なんて健在をアピールする声も!

『今日もみんなで甘味屋へ行こー!』なんて遠足に行くような楽しそうな声も!

『今無理しないでいつ無理するんだ!』なんて強がる声も!

『あたしの気持ちも分かったでしょ!大人しくしてなさい!』肩を射貫かれたマキナにかける声も!

病に冒されている事なんて忘れさせてくれる存在感たっぷりで魅力的なレミーちゃん!

三日目。ガラガラで当たった音声チェキ。

そんな可愛らしい声を手元に残したくて!レミーちゃんの音声チェキを選んだよ。


換気休憩後。怒りをくれよに乗り踊る魔法少女達。

丁度、沖田レミーが目の前に来る席に七公演とも座っていたよ。

咳払いも倒れる事もなく踊り続けるレミー。あの姿を見てからの後半戦は…常に涙を堪えていたよ。


『ねえ。あれしよう。魔法少女らしく生きる約束』

レミーとミリカとマキナの指切りからのキミトイウヒカリ。

もう…あれ反則だよ…前奏から泣くやん………

魔法少女達の指切り。人間出身の魔法少女らしい約束。それでも三人の命は消えます。

約束事は守られなくとも、あの指切りのシーンが大好きで。

《魔法少女よりも魔法少女らしく》

人間出身の魔法少女たちが交わす指切りは人間の儚い人生を映し出しているようでした。


史実では最後二人の姉に看取られることが叶わなかった沖田総司。

サリィの結界の中。サリィに看取られ、マキナやミリカの幻影を見ながら力尽きるレミー。

それだけでも。幸せだったかもしれません。


最終章バージョンのキミトイウヒカリ。

初めて聴く宇塚さんと品川さんの歌声が新鮮で。

最終章のキミトイウヒカリには魔法少女達の愛に包まれた哀しみが込められているように聞こえました。


マキナは魔浪士組のトップとして。ミリカは鬼の副長としてなら。

レミーは人間出身の魔法少女らしい人間の弱さと優しさを見せてくれたように思えます。

常にレミーを思い傍らに回復魔法が使えるシズクとサリィを付けるマキナ。

レミーの体調が思わしくないのが分かっていてもレミーに全幅の信頼を寄せるマキナ。

無理をするなと言いながらも。最後までマキナはレミーの強さに期待していたように思えました。



『ミリカちゃん!』

魔浪士組も恐れる鬼の副長もちゃん付けで呼ぶレミー。

表情は崩さなくとも。ちゃん付けで呼ばれる鬼の副長は嬉しそうに感じたよ。


『マキナちゃん!』

処刑されるマキナの前に現れるレミー。

もう…あれも反則だよ…七公演毎回泣いてたよ…


世界が落ち着いたら。今度はお会い出来たらいいな。


宇塚さんの声を聞いたら。


嬉しくて泣いちゃうかも。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


マリンとジェンにより五稜郭を模した六芒星の城から戦場へと送られるミリカ。

戦場で桐野カナヲと対峙するミリカ。史実では戦場で一度も顔を合わせる事のなかった二人が顔を合わせたミリカのラストシーン。それだけで、特別な感じがしたよ。


慶応四年四月三日。近藤勇は大久保大和として新政府軍に捕縛されます。

新撰組本隊には会津行きを命じ自身は江戸へ潜行し翌日勝海舟に面会。海舟は近藤救出に動くと同時に土方に何らかの策を授けます。それは旧幕軍の扇動と沈静化だったと言われます。

江戸城開城当日の四月十一日。土方は江戸で合流した島田魁らと旧幕軍が集結する下総鴻之台に向かい、開城が穏便に行われる事が確実になったことから、旧幕軍の暴発を抑える行動をとります。

四月十二日。旧幕軍は軍議を開き土方は前中後と三軍に分割された前軍の参謀となり宇都宮へ向かいます。旧幕軍は江戸近郊での蜂起を避け結果土方は海舟との約束を果たします。

その後前軍は下総下妻両藩を屈服させ十九日には宇都宮城を攻略。しかし二十三日には新政府軍の反攻を受け今市方面へ敗走します。この戦いで土方は負傷、二十四日には島田魁らと会津へ向かいます。

二十九日。流山から会津へ向かった新撰組本隊と再会。土方はしばらく治療に専念します。

七月上旬戦線に復帰する土方。八月十八日には新撰組に猪苗代城下への転陣が命じられ十九日には母成峠に出陣。このとき土方は新撰組と行動を共にしていませんでした。

母成峠の戦いに会津藩は敗れ勝岩に布陣していた新撰組も猪苗代方面へ敗走します。土方は援軍を求め動いていました。島田魁は負傷を押して援軍を求める手紙を届けます。しかし猪苗代で新政府軍を迎え撃ち援軍と挟撃する土方の作戦は援軍が動かず失敗。猪苗代は突破され会津藩は二十三日より籠城戦を展開することとなります。その後庄内地方へ援軍要請に向かう土方。しかし奥羽越列藩同盟を支えた米沢藩は新政府軍への恭順に傾いており領内への通過もかないませんでした。

土方は白石に走り仙台へ向かいます。仙台には旧幕艦隊を率いた榎本武揚が到着していました。仙台城で開かれた奥羽越列藩同盟の会議。その席上榎本武揚は土方を同盟軍の総督に推薦し同盟諸藩の同意も得ます。しかし同盟軍の立て直しは出来ず新政府軍が北上を続ける中で仙台の藩論も新政府軍への恭順に傾きます。

九月十二日。土方と榎本は仙台藩の新参政と話し合いを持ちますが物別れに終わります。

ここに奥羽越列藩同盟は完全に崩れ去り旧幕軍は拠点を失います。もはや降伏か新たな戦場に立つかの選択肢しかありませんでした。

この頃土方は江戸を脱し会津戦争で傷病兵の看護にあたっていた医師の松本良順と再会。

その胸の内を明かします。

『この戦いに勝算はない。戦って死ぬだけだ』


九月十六日。会津から新撰組と旧幕軍が仙台に到着。彼等も選択を迫られます。

榎本率いる旧幕艦隊と共に最果ての蝦夷地へ渡るか、土方は新撰組隊士達に同行を強要しませんでした。

会津から仙台に辿り着いた新撰組隊士は二十五人。しかし桑名、唐津、備中松山の藩士、旧幕軍からの協力者を得て新撰組は再び百人規模の組織に再編成されます。

九月十九日。開陽丸を旗艦とした旧幕艦隊は蝦夷地へ向け出航。二十一日に鷲ノ木浜より蝦夷地に上陸。五稜郭を目指し進軍します。

新撰組は伝習士官隊、伝習歩兵隊、遊撃隊とともに本道を進軍。土方は数人の守衛新撰組、額兵隊、衝鋒隊、陸軍隊を率い海岸沿いの間道を進軍。二十六日に両軍は無人の五稜郭に入城します。

十一月五日。土方は松前城を攻略。さらに江差に向かいますが開陽丸の艦砲射撃により江差は既に陥落していました。しかし江差沖に停泊中の開陽丸は暴風雨で座礁。遂には沈没してしまいました。

蝦夷地唯一の松前藩を駆逐し旧幕軍は蝦夷地の平定に成功します。十二月十五日。旧幕軍は選挙により閣僚を選出。榎本武揚が総裁、土方歳三は陸軍奉行並に選任されます。


年が明け三月中旬。新政府軍艦隊の北上が伝えられます。旧幕軍は敵艦隊の甲鉄を奪取する作戦を計画。三月二十一日。回天、高雄、蟠龍の三艦が宮古湾へ出陣。土方は回天に乗船していました。しかし他二艦が暴風雨のために作戦から外れ、回天一艦で決行することになります。

この作戦は失敗。新政府軍の死者は僅か四人に対し旧幕軍は十八人の死者と六十人もの負傷者を出してしまいます。

四月六日。新政府軍来襲により土方は二股口の防衛を命じられます。十三日午後二時より始まった戦いで土方は翌朝六時まで十六時間に及び戦いを指揮し新政府軍を退けます。

五稜郭に戻った土方は市村鉄之介に肖像写真と毛髪を託し日野の佐藤家に届けさせ辞世の句を綴ります。

『よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は東の 君やまもらむ』


二股口の戦いは二十三日から二十五日の朝まで続きました。島田魁によると銃撃で熱くなった銃身を川から汲んできた水で冷やして応戦していたほどの激戦でした。

二股の陣は旧幕軍で唯一の不敗を誇りました。しかし二十九日。矢不来の陣が敗れ同方面から敵に挟撃される恐れが生じ土方は二股の陣を撤退します。

五稜郭に帰陣した土方は弁天台場の守備に就く新撰組と再会します。しかしこの頃には旧幕軍敗北は時間の問題でした。

誰に対してか、土方はこのように語ったと伝えられています。

『我、近藤勇とともに死さずは、すなわち一に故主の冤をすすがんと欲せしむのみ。万一、赦に遇う、何の面目をもって地下における昌宜にまみえんや』


五月十一日未明。新政府軍の海陸からの総攻撃が開始されます。旧幕軍幹部は前夜より市中の武蔵野楼で別杯を交わしていました。砲声により開戦を知った彼等は持ち場に戻ります。

土方は五稜郭まで戻らず千代ヶ岡陣屋にいた額兵隊を率いて出陣しようとしていたと伝わります。額兵隊を引き連れ一本木関門では敗走してくる伝習士官隊に遭遇します。そのとき函館湾に響く轟音。蟠龍の砲弾を受けた敵艦が轟沈しようとしており『この機、失するべからず』と額兵隊と伝習士官隊を突撃させます。そして関門に身構えていた土方は回天を脱した乗員の援護に向かいます。彼等を避難させ関門に戻る土方。そのとき銃弾が胸を貫いたと言われます。土方は落馬し絶命。遺体は五稜郭に運ばれ郭内に埋葬されました。

土方死去から四日後の十五日。新撰組が籠城した弁天台場は降伏。

十八日には五稜郭開城。ここに函館戦争は終結しました。



マリンに褒められるマキナを見て嬉しそうなミリカ。そこをマリンに突っ込まれ照れた顔を必死で隠そうとするミリカ。鬼の副長が見せる乙女心。

そんなに照れなくてもええやん!!って突っ込みたくなるミリカも可愛かったよー!!!


『わたしはいつも冷静よ!』

魔薩長との戦争の始まりに興奮を抑えられないミリカ。

鬼の副長と恐れられながらも。魔浪士組の誰もが信頼をおくミリカの強さを感じたよ。


『ヤマトって…』マキナが咄嗟に思いついた変名に笑いを堪えるミリカ。

意外な所にあった鬼の副長の笑いのツボ。しかしそれが最期の別れになるマキナとミリカを笑顔で別れさせることになるというのも…何とも言えず切なかったよ。


マキナの処刑が決まりレミーも消滅しいつも冷静だった自分を抑えられないミリカ。

感情露わに怒りに震える姿は鬼の副長ではなく、涙の止まらない人間の女の子に見えました。


学園を占領された時点でステッキやソードの時代は終わったと感じていたミリカ。

それでも最後の戦場でも剣を手にし魔法兵器に立ち向かうミリカ。

剣槍では太刀打ち出来ない事が分かっていても。最後まで意地を貫き通すミリカ。

『病気なんかで死なせてたまるか…』ミリカの願いは届かず病に倒れたレミーのためにも

志半ばで処刑される事が決まったマキナのためにも

たった一人の負け戦にも魔浪士組らしく魔具で立ち向かうミリカ。

土方ミリカが貫き通した魔法少女の美学に見えました。


僕の頭の中にある舞台女優番付。

【僕初】以来東の大関にあるあの子の2018年冬の主演作。品川さんを拝見したのはそれ一度きりなのですがあの子の隣に立っても全く薄れなかった存在感。その時の印象がずっと残っていて。きららちゃんもじゃこさんもいたあの日。あれから世界が一変するなんて想像もしなかったけど、まさかみぶまほ最終章で土方ミリカを演じてくれることになるとは想像もしていませんでした。

あの日から忘れられなかった凜として板の上で輝いていたお姿。初代の迫力も二代目の美しさも併せ持ち、儚く消えゆく孤高の強さを抱いた魔浪士組の副長。

最後まで魔浪士組を守り抜こうと最後の戦いに挑む最強の魔法少女。

みぶまほの土方ミリカでお会い出来てうれしかった。


千秋楽のガラガラで当たった音声チェキ。

お声を聞くのも四年振りの品川さん。とても懐かしくて!とても嬉しくて!迷わずミリカを選んだよ。

マキナとミリカが魔具を重ねるツーショットブロマイドもうれしかった!!



世界が落ち着いたら。必ず会いに行きます。


鬼の副長とは違う可愛らしいお顔の品川さんにも。


お会い出来る日を楽しみにしています。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


史実通りに哀しいシーンの続いたみぶまほシリーズ。

その中でも思わず笑ってしまう役どころの多かったヒナノの笑顔は、悲しいだけの作品にならない救いのように思えたよ。


東京台東区の松前藩の長屋で生まれた永倉新八。永倉の性は正しくは長倉と書きますが、十九歳になった永倉は藩邸を出て本所亀沢町の百合元昇三の道場に住み込み修業に入ります。家督を継ぐ者が藩邸外で暮らすことは許されなかった松前藩。永倉は特に咎められる事はありませんでしたが家人に累が及ばないようこの時から性は永倉を用いるようになります。

百合元道場には二十二歳までの三年間を過ごしその後隣国下野へ武者修行に出ます。江戸に戻った永倉は牛込御留守居町で心形刀流道場を開いている坪内主馬から師範代としての招きを受けます。ここで永倉は二十九歳で江戸に出て坪内道場に入門していた島田魁と出会います。

剣術修業として道場巡りもしていた永倉は流派を問わず達者者がいると訪ね手合わせを請うていました。そこで出会ったのが天然理心流道場、試衛館でした。

常に真剣勝負の心得で実戦での剣に重きをおいていた天然理心流に共感を覚えたと思われる永倉。ここで近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、藤堂平助、原田左之助、斎藤一らと親しく交わるようになります。

文久三年。十四代将軍徳川家茂の上洛に伴い幕府が将軍警護の浪士組を募集します。そして二月八日、小石川伝通院に集まり京へと上ります。

文久三年四月十六日。永倉は金戒光明寺に本陣を置く会津藩主松平容保に拝謁。御膳での上覧試合で剣技を披露する光栄に浴します。斎藤一との立ち会いは浪士を預かる松平容保を十分に納得させるものでした。

文久三年六月三日。大坂北新地での大坂相撲力士との乱闘騒ぎ。ここで島田魁のふるった剣が永倉の腰を傷付けてしまいます。島田魁はこの事件以前に浪士組に加入したと考えられますがそこには面識のあった永倉の誘いがあったとも言われます。

九月十六日。初代局長芹沢鴨の暗殺をもって新撰組の幹部は試衛館出身者で固められます。


慶応元年五月下旬。新撰組の組織編成が行われ永倉は二番隊隊長になり伍長として島田魁が入ります。

慶応三年六月。西本願寺より不動堂村に屯所移転し隊士総員は幕臣に取り立てられます。永倉も見廻組格七十俵三人扶持となります。この頃永倉と懇意で永倉の子供を産んだ芸妓の小常が亡くなります。屯所の引き払いがあり駆けつける事の出来なかった永倉。そこに乳母が七月六日に生まれたばかりの磯を抱いて訪れます。そこで永倉は初めて我が子の顔を見たと伝わります。


慶応四年一月三日夕刻。小枝橋で響いた轟音により開戦する鳥羽伏見の戦い。

新撰組の布陣する伏見奉行所にも高台にある御香宮から薩摩藩の撃ち出す大砲が炸裂して一帯は戦場と化します。互いに砲撃するも新撰組は下方にいて不利でした。

武術が重視された新撰組の入隊基準ですが壬生寺の調練でも大砲の試射を行っていました。だが敵である薩長は薩英戦争などを経験し欧米の火砲の威力を体験していました。その経験から装備を最新の後装式銃砲に変えていました。

対して伏見奉行所の会津藩は旧式の筒口から弾を押し込む青銅砲。会津藩砲術奉行は身に何発も小銃弾を受けながらも砲を発砲し続けました。しかし奉行所は炎上。火の海となります。

負傷療養中の近藤勇に代わり隊長を務めた土方歳三は永倉に抜刀隊として土塀を乗り越え斬り込むよう命じます。永倉は討死覚悟で隊を率い斬り込みをかけます。が、敵は火をかけ逃げ抜刀隊は空振りに終わります。

再び土塀を乗り越え戻ろうとした永倉は着込みが重くて身体が上がりませんでした。その時塀の上からこれにすがれと鉄砲を差し出す島田魁。永倉も驚く怪力で鉄砲に掴まる永倉を邸内に引き上げたと伝わります。

後年このことを回想した永倉はこう書き記します。

『島田魁の力は五戸俵三俵持つほどの力あり。永倉新八は島田魁に介けられる』


旧幕府軍は敗走を重ね新撰組も大坂へ退きます。

徳川慶喜が大坂城を出て東帰した事で新撰組も江戸へ帰還します。

三月一日。甲陽鎮撫隊として出陣。六日には勝沼で戦闘が始まるも二時間余りで敗走。この間の隊士らの不平を近藤勇に伝える永倉。近藤に隊士の取りまとめを一任された永倉と原田左之助は一部の隊士を率い江戸に戻ります。

甲州勝沼での敗戦後江戸へ戻ってきた新撰組隊士達。予め決めておいた江戸での集結地は二カ所。浅草の今戸と永倉の集結地であった本所の大久保主膳正邸。大久保は京都町奉行を勤め新撰組とは懇意にしていました。大久保邸には近藤勇は現れず永倉以下そこにいる十名程の隊士達で今後は会津藩に身を投じるかの話し合いが行われました。大久保邸を後にした永倉は吉原で酒宴中の同志達を訪ねます。彼等とも議論を重ね会津に向かう事を決めてしまいます。

近藤勇は勝沼での敗走直前永倉にいずれは共に戦い会津を枕に討ち死にすると約束していた事もあり、この決定をこの場にいない近藤土方に要請しようと決めます。

三月十一日。永倉は隊士達と近藤の元を訪れます。勝沼での約束通り近藤は同意してくれると信じていた永倉ですが、近藤の『拙者はさようなわたくしの決議には加盟いたさぬ。ただし拙者の家臣となって働くというならば同意いたそう』という返事に逆上します。永倉にはこれまでにも近藤の専制に対し切腹覚悟で抗議をしたり脱走まがいの行動を取った前科があります。近藤にとっては局長の不在中に会津行きを決定する永倉の越権行為にも似た行動に不満を感じ、例え勝沼で一度は約束したこととはいえこんな言葉を発してしまいました。

この言葉に永倉は『二君に仕えざるが武士の本懐。これまで同盟こそすれいまだおてまえの家来にはあいなりもうさぬ』と近藤と袂を分かちます。


永倉は原田左之助と新たな一隊を組織することとし深川の冬木弁天社内に住む元松前藩士で当時は幕臣となっていた永倉旧知の芳賀宜動のもとを訪れます。芳賀はこれに同意し五十人程の同志が集まります。

芳賀が隊長、永倉と原田が副長となり靖共隊を結成。江戸城和田倉門内の会津藩邸内に屯所を置きフランス式調練を行います。靖共隊は土方歳三らが身を投じる幕府脱走軍に合流し会津を目指すことになります。

江戸城明け渡し前日の四月十日。靖共隊は旧幕府陸軍諸隊が集結するという下総国府台へ向け隊を進め下総山崎宿まで隊を進めたとき副長の原田左之助が離脱。原田は妻子の愛着に惹かれたと永倉は後に語り原田が戻るのを信じていたようです。


四月十六日。靖共隊は歩兵第七聯隊と合流叶い付属の隊となります。これ以後永倉は北関東から東北へと戊辰戦争を戦い続ける事になります。翌十七日の小山戦争、宇都宮城と壬生城攻めにも加わり二十二日の壬生城の戦いでも抜刀隊を組織する永倉。その際に二の腕に負傷しています。日光より会津領田島宿に入り傷の治療を行う永倉。

ここで靖共隊は隊名を遊軍隊と改めます。日光街道高原宿へ出陣し四月二十三日には元会津藩家老の命を受け茶臼山に出撃。その後隊長の芳賀が人望を失ったという理由で隊長を辞任。永倉が隊長を務めます。

八月二十三日。新政府軍の来襲を受けた若松城下は大混乱をきたしていました。全快した受傷者を迎えに会津へ向かった永倉は引き返す事になりここで米沢藩士雲井龍雄と出会います。会津への援軍要請を行うため雲井の一行と米沢へ向かいますが既に米沢藩は降伏に決しており、永倉は雲井の世話で芳賀と共に米沢城下の華岳院に留まります。

十一月。永倉と芳賀は町人を装い江戸から改まった東京へ向かいます。偽名を使いなんとか関所越えを果たし二十九日東京へ辿り着きます。しかし東京での旧幕府脱走人の取締りは厳しいものでした。

江戸が東京と名を変えて半年以上が経った明治二年。永倉は意を決して若き頃に出奔した松前藩邸に赴きます。そこでは脱藩の罪にも問われず明治二年二月五十万石で帰参が叶います。

しかしその間に芳賀が酒の上の喧嘩が原因で惨殺されます。永倉は長年の無二の親友を失います。

明治三年十二月二十六日には再会を約束していた雲井龍雄が政府転覆を計ったとし処刑されます。


松前藩の藩医杉村介庵は函館戦争の札前の戦いで長男を亡くしています。

永倉はこの杉村家の婿養子となります。

明治四年一月三日。函館に着いた永倉は介庵の次女よねと祝言をあげ杉村義衛治備と改名します。

明治六年九月。永倉は杉村家の家督を相続。この年長男が誕生します。

明治七年本籍を小樽に移しますが明治七年八月一日介庵が亡くなると上京。東京都板橋の寿徳寺境外墓地にある新撰組慰霊碑の建立に奔走します。

明治七年八月の太政官達第八号を受け建立に尽力した永倉に、在命の新撰組隊士斎藤一も協力したと言われています。

明治九年五月。完成した慰霊碑の裏面には

『発起人 旧新撰組 長倉新八改め 杉村義衛』と刻まれています。

永倉は慰霊者のなかに芳賀宜動の名も刻み親友の霊を弔いました。


この後小樽に戻り明治十五年十月から明治十九年六月まで北海道樺戸集治監で剣術師範として従事。

再び上京する際に函館の碧血碑を訪ね土方歳三など旧同志の霊を弔い米沢に雲井龍雄の妻女を訪ねます。

上京後は東京牛込に新撰組が屯所に置いた同じ名前の剣術道場文武館を開き、東京には明治三十二年まで暮らします。その間には京都に住む島田魁を訪ねています。

そして新撰組の京都時代に小常との間に生まれた磯に再会します。永倉が京都を去ってから乳母の岡田夫妻に引き取られた磯は岡田磯子として育ち尾上小亀を名乗る女優となっていました。


小樽へ戻って間もない明治三十三年三月。島田魁が亡くなりました。

命の恩人でもあった島田魁の京都での葬儀に永倉は長男を伴い参加しています。

小樽での晩年は小樽衛生組合公宅に住んだ永倉。組合の事務局長をしていた杉村伝次は永倉の養姪になるゆきの夫でした。ゆきは永倉の妻よねの姉の三女で姉が亡くなったあと永倉夫妻が養育していました。

明治四十一年。分家した長男に代わり伝次に家督を譲り隠居した永倉は新撰組の戦いの歴史を綴ります。

『浪士文久報国記事』『同志連名控』等の手記、そして大正二年三月から六月まで小樽新聞に現在は『新撰組顚末記』として知られる回想録『永倉新八』が連載されます。



マキナとよく張り合うヒナノ。それを否定しながらマキナと相撲をとるヒナノ。

剣術修業で道場巡りをしていた永倉新八のようにヒナノは張り合いながらもマキナの強さを感じ取っていたのかもしれません。

言葉にしなくともそれがヒナノからマキナへの愛情表現に見えていたよ。


最新鋭の魔法兵器により魔薩長の攻撃を受け続ける魔浪士組。

怪我で戦線に立てないマキナを分校に向かわせたと聞き命令も出せないのか!と不満気なヒナノ。

史実でも何度か拗れる近藤勇と永倉新八の関係を思い起こさせたよ。

学園を占領された原因も。戦線に立っていないマキナにあると非難するヒナノ。

東へ下がり体制を立て直すというマキナに『戦って死ぬのでは!?』と問い詰めるヒナノ。

『戦って死にたい!』と願い魔浪士組を抜けるヒナノ。

可愛いお顔も大好きだよ。でも僕は凄みのあるまいまいのお顔も好き。

戦って死にたいと願いながら最後まで生き残るヒナノ。

マキナの決断もヒナノの決断も。どちらも間違えではなかったと思ったよ。


史実では左之助の最後にも立ち会えない永倉。最後まで左之助は戻ってくると信じていたとも言われます。

ケイカの最後。ヒナノへの感謝の言葉と共に消滅するケイカ。

哀しいシーンだけど、原田ケイカの最後を見届けられた永倉ヒナノは幸せだったのかもしれません。


『永倉さんの本読んでるんだ。難しい漢字が多いけど』

稽古中のまいまいのツイートの意味が分かったよ。新撰組顚末記をあんな風に使うとは。

史実通りに進めば近藤勇が処刑されるのは物語の前半になるはず。

大政奉還から戊辰戦争と聞いてマキナは早々と舞台を降りるの?なんて思っていたよ。

近藤勇と袂を分かちその最後も知らなかった永倉新八。永倉の中では生涯の悔いだったとも言われます。

みぶまほの語り部になったヒナノがマキナや魔浪士組への恩返しに書いた魔浪士組顚末記。

旗揚げ公演から参加してくれたまいまい。第二回本公演では主演まで務めてくれて。

番外編の僕会議にもお願いにも参加してくれて。誰よりも劇団新劇団を知り尽くしていると思うよ。

だからこそゴブさんは、この物語を語ってくれる永倉ヒナノ役をまいまいにお願いしたんだと僕は思っているよ。


この御時世。作品が中止や延期になり先の予定も不安定かつスケジュール調整も難しいと思います。

その中でも最終章まで出演してくれたまいまい。

最終章キャスト発表日。河口舞華の名前を見つけて本当にうれしかった。

三部作通して。河口舞華の永倉ヒナノもみぶまほを支えてくれたと思っているよ。



僕会議以来お会い出来ていませんが。


きっとね。もうすぐ世界は落ち着くと思います。


その時にはまた。まいまいにお会い出来ますように。


これからも元気でいてね。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


千穐楽の朝。近藤勇のお墓を訪ねました。

みぶまほが終焉する前に。近藤勇を感じたいと思いました。


慶応四年鳥羽伏見の戦いで敗れ新撰組は江戸へ帰ります。その後甲州街道を江戸へ向かい進軍してくる西軍を制圧すべく甲陽鎮撫隊を結成。その隊長として三月一日に出発。二日には佐藤彦五郎率いる日野農兵隊が援軍として加わります。しかしこの戦いでは敗戦。甲陽鎮撫隊での戦闘では幕軍、西軍ともに大きな死者は出ませんでした。しかし近藤勇としては後に流山で捕らわれ罪を問われた時に甲州勝沼と総州流山で官軍に敵対したことが斬首の理由になりました。


慶応四年三月十三日。新撰組隊士四十八人が五兵衛新田に現れます。一行は同地の名手見習い金子家に逗留しここを新撰組本陣とします。この時近藤は大久保大和を名乗っていました。これ以後近藤は死までこの名前を名乗ります。三月十五日。土方歳三到着。永倉原田の離脱はあったもののその後も新撰組加盟希望者は多く三月二十五日の時点では総数百六十九名を数え再起に備えていました。

この頃勝海舟と西郷隆盛の会談が行われ三月十五日に予定されていた江戸総攻撃は回避されます。甲陽鎮撫隊の敗走で近藤に煮え湯を飲まされた海舟は江戸付近での彼等の活動を排除しようと考えていました。そのため五兵衛新田に配下の松波権之丞を派遣し解兵の為の説得工作を連日のように行っています。

これを受けて善後策を練った近藤は月末には利根川向への移転を考えていました。海舟が松波権之丞に宛てた手紙には船橋松戸流山に脱走者が多く集結中と書かれています。利根川筋の流山は幕府脱走軍の拠点の一つでありこうしたことからも近藤は五兵衛新田からの移転を考えていたとも言われています。

四月一日。新撰組二百二十七人は五兵衛新田から流山を目指します。二日。新撰組が下総国流山に到着。味噌屋の長岡屋を本拠と定め四十七名の隊士が入ります。他百八十名の隊士は長岡屋近くの光明院に入ります。ここで新撰組は軍事調練を始めます。

その頃会津藩兵の接近で苦慮する宇都宮へ向けて新政府軍東山道軍の救援隊が四月一日江戸を出力。その一行は二日の朝には春日部に入り脱走兵多数流山に入るとの情報を掴んでいました。

四月三日早朝。新政府軍は流山を目指し進軍します。長岡屋近くまで接近した新政府軍は午前七時には長岡屋周辺を包囲します。新撰組は二里程離れた山野で調練を行っていたため長岡屋はほぼ無抵抗で新政府軍に包囲されてしまいます。この時長岡屋にいたのは近藤土方ら数名に過ぎませんでした。

新政府軍に猶予を貰い長岡屋二階で近藤は土方らと善後策を話し合います。近藤は既に切腹を覚悟していました。しかし土方はここで死ぬのは犬死にと新政府軍東山道軍板橋総督府へ出頭しあくまで鎮撫の為に流山へ来たに過ぎないと主張するよう説得します。この時の土方には近藤救出の勝算があったと思われます。

長岡屋と光明院の武器を携え姿を見せた近藤は自分を大久保大和と名乗ります。その後まもなく近藤は越谷へ連行され翌四日板橋に護送されます。

流山に残った新撰組は海路銚子から霞ヶ浦へ。その後陸路で会津へ入ります。


近藤の進退についての詮議では薩摩藩は罪を軽く考えますが土佐藩は坂本龍馬暗殺を新撰組の仕業とし斬首を求めます。結果土佐藩が強引に主張し四月二十五日板橋宿で近藤勇は斬首されました。


明治七年八月十八日。太政官達第八号が布告されます。

『戊申己巳の際、一時期旨を誤り王師に抵抗せし者の罪を許し、死者の祭祀の執行はこれ構いなく候』

戊申戦争で旧幕府軍に加担したものの法事や墓を作る事が許された為に、永倉新八らが中心となり近藤が斬首された板橋の地に墓を建てようと奔走します。

明治八年十一月。時の東京府知事に墓石建立許可の書類を申請します。府知事は採択出来ず書類を大久保利通へ送ります。ですが大久保利通も決定しかね明治九年一月太政大臣三条実美に回します。三条も決定しかね大臣クラス六名で協議し明治九年一月二十三日やっと許可が下ります。一年以上高官達の間で慎重に協議されました。

死してなお、近藤勇は存在感を放っていました。



魔薩長の勢いを止められない魔浪士組。東へ引き体制を整えるというマキナに反発するヒナノ。ヒナノに責められ謝るマキナ。史実では意地もあり永倉新八に頭を下げなかった近藤勇。局長という立場でも常に相手の気持ちを考えて行動する顔はいつものきららちゃんのようでした。

ケイカもホノカも笑顔で送り出すマキナ。

西郷どんのような圧倒的なカリスマ性とは違う人間味溢れたマキナ局長。

近藤マキナの物語は鳥居きららの物語に見えていました。


第二章のラストでは藤堂リンを討ってしまい気落ちするリオンを慰めるマキナ。そのマキナを囲むミリカ、ヒナノ、ネリッサ、ケイカ。その光景は座組のみんながきららちゃんを守っているようにも見えました。

本公演初の主演を務めたジョジョハムでは開演前衣装姿のまま受付やら場内チェックやらで走り回っていたきららちゃん。みぶまほ第二章でも衣装姿のまま寒風吹き込む受付をされていました。

ゴブさんの作品だけではなく、鳥居きららが支える劇団新劇団。

最終章公演ではそんなきららちゃんの負担を少しでも減らしてあげようと、会場入り口にぶーちゃん。ゴブさんがいて市原さんがいて受付には川邊さんも。岡田さんに白井さんに福田王子は素敵過ぎる魔具を手作りしてくれてふでさんがナレーションを担当されて。

その光景は近藤マキナを、鳥居きららを守るためにゴブさんオールスターズが集まってくれたようでした。

あの会場の空気感が僕は大好きでした。


第一章公演中。東京都内の感染者が初めて二百人を越えました。久しぶりに乗る電車が怖かった。第一章では演者さんは口元のみをフェイスガードで覆っていました。客席は一つ一つアクリル板で仕切られ、舞台上も感染対策として覆われていました。

第二章公演中。東京都内の感染者は初めて七百人を越えました。十一月の寒い季節でしたが人混みが怖くてマチソワ間は人のいない通りを探して歩き続けていました。

最終章公演直前。東京都内の感染者は初めて四万人を越えました。

正直…公演は厳しいかもと思いました。


ミリカとレミーと指切りを交わすマキナ。

『よし。絶対に負けない』

この呟きは魔薩長ではなくこの数年世界が戦っているあの敵へ向けての言葉に聞こえました。

無事に全公演を終えたきららちゃん。劇団員として初めて主演を務めたジョジョハムの千穐楽では涙を見せていましたが、今回は大千穐楽後の挨拶でも涙は見せませんでした。

あの頃とは違う日常。全公演を届けられた安心感のほうが強かったと感じました。

シリーズ三作品。一公演も中止になることなく開催出来たのは、あの指切りのおかげかも。

魔法少女達の指切りがみぶまほを守ってくれたように思えました。


八月も終わりもう九月。大丈夫。今日も元気でいるよ。

魔法少女達の指切りに。僕も守られたよ。


この公演を無事に終えるため。21人の女の子達が注ぎ込んだ努力に頭が下がるよ。

いつかみんなにお会いして、お礼を言えたらいいな。





西郷どんと大久保ちゃんからの処刑宣告。


その姿を見守る英雄になった魔法少女達。


大切な仲間たちに見送られ笑顔で消滅する近藤マキナ。


ゴブさんなら…最終章で魔法少女達を生かすのかも?

心のどこかでそう思っていました。


史実通りに消えていく魔浪士組。


それでも魔法少女達の最後を見届けたら幸せな気分になりました。


壬生魔浪士組最終章。


ゴブさんはハッピーエンドで完結させてくれました。




千穐楽マチネ。ゴブさんに声を掛けました。

『さみしいですね…』


ゴブさんは仰有いました。

『この作品は終わりますが!また新作を用意しています!!』






壬生魔浪士組を完結させたゴブさんの新作。




もちろん楽しみだよ。




でも僕はもう少しだけ…




みぶまほの余韻に浸ります。