気が重くなってしまう。
それは、忘れられない事があったから。
「それではいけない!」と思いつつも
気が滅入る。
「それでは、いけない!」と改めて
気を取り直している。
今日3.22は弟の命日だ。
あれから丸16年の月日が流れたのだ。
その間僕は結婚し子供が産まれマイホームを購入し仕事を変えた。
長男は春から中学生。
次男は5年生だ。
いろんなことがあった16年間だった。
弟が亡くなった経緯は、初めて2013年3月14日にブログに書いた。
それまで長期にわたり一切書けなかった。
当時、スノーボードで同じような死亡事故は無くしたいという気持ちで書いた。
ここから
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25歳会社員◯◯◯ スノーボードで転倒 頭蓋骨骨折、脳挫傷で死亡。(新聞の記事)
そのある人間、25歳会社員とは、僕の「弟」である。
かわいい「弟」である。もうこの世にはいない。
当時の経緯
(今までこの事実はネット上では書かなかったし書けなかった。
しかし、あと一週間後に控えるこの時期、何故か書く気持ちに
自然となった。僕の気持ちの中で整理がついたのか?何なのか?は
よく分からない。言葉で話したことはあっても、こうして
文字として残すのはこのブログが初めてである。
読みたくなかったら飛ばして頂いて結構である。
僕が言いたいのはただひとつだけ。
時計の針は戻せないからヘルメットを被って欲しい。それだけだから。)
僕の弟は春の三連休を使って友人達と一緒にスノーボードを楽しんでいた。
山形県の有名な某スキー場である。
金曜日の夜遅くまでの仕事を終え、土曜日の朝から北へ向かったのだった。
実はこの三連休は春の嵐で、天候が優れていなかった。
事故があった日曜日も吹雪いていたと言う。
日曜日の夕方、そろそろ上がろうか!と最後の1本を滑り終えて「お疲れ~!」と
ハイタッチするはずだった。
がしかし、何故か弟が降りてこなかったらしい。
おかしいなと思ったメンバーは、コースを間違えたのかもと思い
他のコースを探した。いない。クルマにも戻っていない。
おかしい、場内アナウンスで呼び出すも応答もないし来る気配一切ない。
結局のところ、スキー場の懸命な捜索のおかげで見つかったのは22:00過ぎだった。
コース脇の窪みに倒れている弟が発見されたのだった。
当時転勤先の長野市にいた僕は、一部始終を実家の両親を通じて
電話連絡をもらっていた。
「見つかったか!やった!」と小躍りして喜んだ。
がしかし、搬送先の病院で翌日0:46に死亡が確認された。
人って簡単に死ぬんだな。。。と僕の脳裏にはっきりと深く刻まれた瞬間だった。
悔しくて悔しくて。以上が事故の経緯。
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ここまで
生きていたら現在41歳。
どんな夢を描いていたのだろう?
どんな人生を歩んでいたのだろう?
「今日と言う一日は、亡くなった方が夢見た明日。」
ある本を呼んで、この言葉には胸を打たれた。
ところで、
3年程前頃になるだろうか、、
前田秀文さん率いる雪山仲間<イナズマ会>のみんなが、
僕をその現場に連れて行ってくれた。
そして亡くなったゲレンデのコースでお線香を手向けてくれた。
そんな仲間とご縁があって僕は幸せだ。
またあのコースを滑りたい。何度も滑りたい。
生きている限り滑りたい。
事故当日、長野から茨城の実家まで搬送してくれた
武井厚さん。
僕の命の恩人である。
涙で前が見えず、あの日に自分ひとりでの運転では帰って来れなかった。
そう、僕は生かされている
好きなことをして生きる人生を生かされている。
スポーツアロマトレーナーとして、アウトドアライフクリエイターとして、
まずは「今」できることをやっていく。
「気持ちよかったわ~、スッキリしたわ~、」
「楽しかったよ~、また行きたい!」
「ニコッ]
お客様が喜んでる笑顔が見たくて、大企業サラリーマンを辞めたのだ。
それが僕の人生だと、弟が道を開いてくれた。
だからその人生を、自分の人生を思いっきり楽しむ。
これが、弟の遺志に報いることなんだ。
そう思う3.22である。