福岡 共感ヒーリング ATHANAHA(あたなは) -2ページ目

やり方を公開しちゃって大丈夫なの?ということについて。

「10日間でセルフヒーリングがマスターできる無料メール講座」の内容は、【SOUマスターコース】で教えていることの一部、「マインドシフト」の手法なのです。

 

 

ある日受講生さんから、「あんなに教えちゃっていいんですか?」って心配されたのですが、まあ、結論から言うと大丈夫です。全く問題ありません。

 

「SOUマスターコース」だけでなく、他のどのセミナーであっても、その全テキストを公開して、やり方を詳しく書いたとしても、セミナーを受けた方と同じレベルでできるのか、というと、絶対それは無理だから。

 

 

 

スピリチュアルやヒーリングへの理解の深さ、経験の量が一定以上の方や、勘の良い方であれば、「ほほう、やるなあ」というレベルまで出来てしまうということはありますが、それでもセミナーを受けた方と同じにはなれないです。

 

それは他の、誰のメソッドであっても同じだと思います。

 

 

 

スピリチュアル系だけに限らず、本やブログでやり方を教えてるメソッドっていっぱいありますよね。

 

たとえばレイキとか、もう最近ではマントラややり方を無料で公開しちゃってる人もいます。

 

 

じゃあそれだけで習った人と同じように分かるようになって使えるのか、というと、やっぱり無理だと思うんですよ。

 

 

 

何かを人から学ぶのって、その人の知識や経験をダウンロードするようなものなんです。

 

その人に触れないと、それは出来ません。

 

ブログや本からでもいくらかは出来ますけど、直接その人と関わることでしか受け取れないものってあるんです。

 

 

セミナーやセッションは、それを受け取るために受けるもので、言葉での知識やノウハウはその一部に過ぎません。

 

 

 

その人の知識や経験は、その人が時間やお金や労力を費やして手に入れたもので、その人の人生そのもので、

 

その価格というのは、単にそのエネルギーを数値化したものです。

 

 

誰かの知識や経験、そのエネルギーが欲しかったら、それに相当する何かと交換しないと受け取れない、そういうものなんです。

 

 

 

目に見える商品も同じです。

 

目に見える商品は、それを生み出した人や、それを届ける人、欲しいと思う人の熱量、それらのエネルギーをお金に換算したものが価格。

 

 

 

ヒーリングだけでなく、ビジネスや自己啓発系のセミナーやセッションは、そこに売り手の経験値と、そこからの「ノウハウ」が入っている、「その情報が学べる」ということです。

 

その知識、情報が欲しいかどうか、ですね。

 

 

 

 

私が公開した情報から、「ああこうすればいいんだ」って思って、自分なりに利用できる人はいるかもしれません。

 

それは、その人が、そこまでのものを持っているからできることで、それまでの人生という時間の中で、それだけの実力を培ってきたということ。

 

 

 

私にしても、たいていのヒーリングメソッドについてはちょっと聞けばどういうものか、どんな理論や考え方で、どうやって、何が起こるのか、とか何となくわかります。

習わなくても。

 

 

それは、私自身がそれがわかるようになるくらいまで、たくさん学んで経験して、積み重ねてきたから。

 

料理のプロだったら、誰かの作ったものを見たり食べたりすれば、大体どうやって作るのか習わなくても分かると思うのですが、そういうのと一緒です。

 

 

 

例えばもし、何かのメソッドのテキストややり方を公開して、それで出来てしまう人がいたとして、その人がそれと同じようなセミナーとかヒーリングをやったとしても、それでも、やっぱり私と同じにはなりません。

 

私とその人は違うから、結局、どうやったって同じにはならないんです。

 

 

 

同じ材料を使って同じレシピで作っても、一般の人と料理人とでは出来上がりが違うし、料理人同士であってもその腕で違うし、

 

さらにその違いは、トップクラスになるほど繊細になっていって、そこまでくると同じ実力のプロ同士か、よほど味の分かる人にしか判断できなくなっていきます。

 

ヒーリングもそんな感じです。

 

 

だから、「やり方を公開する」って、レシピを公開するのと似ています。

 

 

 

けれど、例えば、私が【SOUマスターコース】を無料で教えたとしましょう。

 

有料の方と同じように、同じ時間と熱量で。

 

 

それでも、お金を払って受けた方と、無料の方では、理解や出来る量はまったく違ってきます。

 

 

 

これは、そういうことにお金を使ってきた人にしか分からないと思います。

 

どんなものでもそうです。

 

 

無料とか、「安い」と言われるものは、受ける人はその時は得した、安くてうれしいと思うかもしれないけれど、

 

「その分しか受け取れない」から、実は得も損もしていません。

 

 

 

私もこれまで相当いろんなセミナーやセッションを受けてきて、

 

その内容に満足して「受けてよかった」もあれば、内容に対しては不満で、ってことも何度もありましたが、

 

 

どっちの場合も、「経験」「学び」という面に関して、「自分の成長」ということでは同じ。

 

支払ったお金の分、費やした労力や時間の分、その経験が、そこで味わった感情のすべてが、身について身に染みて、自分の糧になっています。

 

 

 

自身の時間や労力やお金(これも時間や労力の結果)という投資、そのエネルギー量の結果で今の私があるので、得も損もしていません。

 

この「今の自分」という「結果」に対して、私自身がどう感じるか、評価するのか、なだけです。

 

 

 

私のセッションやコースにしても、私はずっと同じようにやってきたけれど、価格を上げてからのほうが、そこでいらした方のほうが大きく変わっていらっしゃいます。

 

受ける方が「そうなる」と決めたようになるだけで、払う金額は、その方が受け取ると決めたエネルギー量と一緒なんです。

 

 

 

誰であっても、どんなことであっても、払った分は絶対に受け取ることになってます。

 

支払うのはお金であっても、

それに相当する労力や時間であっても。

 

そういうことです。

 

 

 

「節約」というのも、そのためにその方は自分の労力や時間をかけているので、ある意味「労働」ですよね。だからその分のお金を使わずに済んでる。

 

 

労力や時間を提供すればお金が入ってきて、

 

労力やそれに換算するものを受け取ればお金を払うことになって、

 

自分で労力をまかなえば誰にも払わずに済む。

 

 

ほんと、お金はエネルギーですね。

 

 

→10日間でセルフヒーリングがマスターできる無料メール講座

 

 

 

「我慢してはいけない」理由。

例えば、

 

私が誰かのために我慢したり耐えたり無理をしたとして、それを喜ぶ人は、

 

私自身にも、私の人生や私の幸せにも興味がなく、私が悲しくても辛くても気づかないか無視するかで、

 

つまり、「私を大事にしてくれない人たち」で、

 

 

 

逆に、

 

私を大好きで、私のことを大事に思ってくれる人たちは、

 

私がその人のために我慢したり耐えたり無理をしたりすることを望まないし、そのせいで私が苦労したりしんどい思いをしたり、私自身の幸せが減ったりすれば悲しむし、

 

 

 

ってことは、

 

「やっぱり、『人のため』に我慢したり耐えたり無理したり、っていうのはやらなくていいってことじゃないか?」

 

とふと思いました。

 

 

 

 

「私さえ我慢すれば」

「私が頑張れば」

 

っていうのは、

 

 

「あなたを大事にしない人に召使や奴隷のように扱われ、消費されるだけであなたが惨めにすり減る」か、

 

「あなたを愛してくれる人には、あなたがその人のために幸せを諦めてしまうことで悲しませる」かで、

 

 

 

「自己犠牲や自己卑下ってのはそういうことなんだよなあ。

 

『あなたのために』的な我慢というのはだから間違いで、やっぱりやっちゃだめなんだよね。

 

誰も幸せにならないし、いろんな意味で問題しかないんだよねえ。なるほど~」

 

と、すごく納得したのでした。

 

 

 

→「言えない」「我慢してしまう」「行動できない」の原因

 

 

「どうしたらいいかわからない」は。

「どうしたらいいか分からない」って思うときって、

 

「分からない」んじゃなくて、「べき」と「したい」で葛藤してるとき。なんだよね。

 

 

「したい」を選ぶと(親や世間や友達や知人やその他大勢に)怒られそう、非難批判されそう、ってなんか感じてる。

 

 

 

でも本当は人が、じゃなくて、

 

その奥にある自分自身の恐れのせいで決められないだけ。

 

 

 

「したい」それは、悪いことのような気がしてるあなた。

 

「したい」それは、自分勝手なことのような気がしてるあなた。

 

「したい」それは、我儘なことのような気がしてるあなた。

 

「したい」それは、とても無茶なことのような気がしてるあなた。

 

「したい」それは、とても非現実的なんじゃないかって気がしてるあなた。

 

「したい」それは、道徳的に間違ってるような気がしてるあなた。

 

「したい」それは、大人としてダメな気がしてるあなた。

 

 

あなたがそう思ってるから、人にもそうされる、そう思われるって感じてしまって、それが怖いんだ。

 

 

 

だからって、

 

そういう自分を許さないとダメとか、

変えないとダメ、

 

なんじゃなくて、

 

 

 

「ああ、私、そんなこと思ってたんだなあ」とか、

 

「ああ、そうかあ」とか、

 

 

じっくりと、

 

気づくことに気づいて、

 

しみじみ感じる、

 

かみしめる、

 

だけでいい。

 

 

 

 

何かしようとか、

 

説得しようとか、

 

設定を変えようとか、

 

考え方見方を変えようとか、

 

 

 

それに

 

「悪い」

「間違い」

「変えるべきこと」

 

というレッテルを貼らず、

ジャッジせず、

 

 

せっついたり、

押したり引っ張ったり、

焦ったり急かしたりせず、

 

 

 

 

「ああ、私、そんなこと思ってたんだなあ」とか、

 

「ああ、そうかあ」とか、

 

 

じっくりと、

 

気づくことに気づいて、

 

しみじみ感じる、

 

かみしめる、

 

だけでいい。

 

 

 

 

心を無にしてただ淡々とそれを感じて、

 

かみしめて、

 

眺めて、

 

 

いたら、

 

 

気づいたら、終わってる。

 

最高最善に、全部が変わってる。

 

 

 

それが、「マインドシフト」で「SOU」。

 

 

 

→何もしないことで完璧になる。