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つまらない方の話――教育の軌跡

人気のない方へ、ない方へと向う癖があります。

今日は、また教育の話です。

 

前々回の「教育の方向性」にて、私は、

「高校までに習う学校の知識は全て、『カタログ知識』である」

と申しました。

 

そして、Youtubeである動画を観て、それが確信に変わるに至ったのです。

 

とある、「言語学」について学ぶチャンネルでした。

学校の勉強について雑談で語っている回があり、そのメインパーソナリティのおニ人が、こんなことを

話されていたのです。

 

「化学を習ったときは、有機化学なんて何に使うのか、と思っていたら、のちに栄養学を習ったときに有機の話がばんばん出てきて、はっ、これか! と思いました」

「まさに、『コネクティング・ドッツ味』ですね」

「それです!」

 

ここで言う「コネクティング・ドッツ味」というのは、つまり点と線。それぞれ、点だった主体が、あるきっかけで線へとつながり、一つの形を成しえる、ということです。

有機化学を習った時は、点だった知識が、のちに栄養学を習うことで線へと繋がり、そうかこういうことに使うのか! と改めて感じ入った、ということをおっしゃっています。

 

この話はここで終り、最終的に「だから学校の勉強は無駄じゃないよ」と締めておられるのですが。

 

私はここで、もう一押しして欲しかった、と歯がみしたものです。

 

「じゃぁなぜ、学校で点を線にするまで教えてくれなかったのか?」

 

コネクティング・ドッツ、と「後から」閃くのでは、閃いた人だけが知の恩恵を受けるだけで、閃かない人はただただそのまま忘れていくだけです。

あとのめいめいの知見で自然にコネクティングドッツるのでなく、化学を勉強している時点でドッツをコネクティングしてくれればいいじゃないか。そう思うのです。

 

思うのですが……。

 

実は、学校が「なぜ、それをしないか」というのが、ここから後半の議論となります。

 

一つは、「時間がないから」。

そしてもう一つは、「学校は、個人の利益になる知識を教えてはいけないから」

です。

 

一番目は自明でしょう。ただでさえ詰め込みと揶揄されるくらい、学校で習う知識は多岐にわたります。

一つを突き詰めてやる時間など、到底ないのです。

 

二番めのお話は、少々深刻です。

この話は実は以前にもしたことがある気がするのですが、もう一度ここでします。大事なことは何度言ってもいいと思うのです。

 

これは、Twitterで何度か話題に上るお話ですが。

 

「小学校、中学校、高校では、『化粧はするな』と校則に決めておきながら、大学では自由になり、社会にでた途端に化粧が義務、となる。おかしいじゃないか。むしろ積極的に学校で教えるべきだろ」

という主張。

 

これが、なぜそうならないか、という回答が、そのまま、学校が「コネクティング・ドッツを起こさないまま生徒を社会に放り出す」理由となります。

 

端的に言うと、上に理由を書いたその通りです。

学校は、個人の利益になる知識を教えてはいけないから、です。

どういうことか。

 

個人の利益とは、

「その人が個人的に利益となる」なにか、ということです。

化粧技術ってのは、

「その人自身だけが「綺麗」ともてはやされ得をする」知識となります。

これは、学校という教育機関と、非常に相性の悪い知識です。

なぜ相性が悪いのか。……学校はとにかく、「誰しもを平等に扱う」ことに非常に心を砕いています。

徒競走で一番を決めるのさえ、小学校とかだと及び腰になり、みんなで仲良くテープを切ろう、とか言ってるくらいです。

個々人の誰かを「利益不利益の面で突出させる」ことにはだから、当然拒否反応があるのです。

ゆえにこういう、学校教育機関と相性の悪いような知恵、知識は秘匿されるか、往々にして禁止されます。

 

税金を安くする、もそうです。

その人だけが得をする知識だから、教えられないのです。

じゃぁなぜインデックス投資などの金融知識を教えるのか。

これは、集団がインデックス投資に向えば、国全体の企業活性化という「国家規模の利益に繋がる可能性がある」からです。

 

そして、学校の授業が「カタログ知識」に終始し、コネクティング・ドッツ味を勝手に覚えた人だけが学校知識の重要さを知るなんてことが起こる理由も、それです。

コネクティングらないように(人に向って語るブログなのに、日本語がムチャクチャですな)、知識をわざと、ぶつ切りにし、さらに「何に」使うのかを秘匿して道具だけ教えているのは、結局、学校知識を「個人の利益」とならないようにするための措置であります。

 

なぜそんなことを?

もちろん、知識というのは、それ自体が強力な「武器」となり得るからです。

 

塩酸と石灰石を混ぜると二酸化炭素が発生することを知ったとしても、それで個人の利益とはならない。

しかし、パラ○○○やタリ○○の入手方法や致死量を知ってしまうと、もちろんただならぬことに使われる可能性がある。これを個人の利益、と読んでしまうと、凄まじいものがありますけれども。

 

一番分かりやすいのが歴史、です。

日本とあの国は仲が悪いですが、一応日本が悪いことになってます。それは、大東亜戦争(太平洋戦争って言ってしまうと別の戦争と混同されますので)で日本が負けたため、日本を含めた枢軸国が全て悪の権化となってしまったことで……。以下略。

 

という知識を得て、かの国と声闘あるいはマジ喧嘩をされてはたまらないわけです。まぁ、正確な知識を得た人間が増えることはイコール国家の利益だろ、と思ってしまいますが、それはその、まぁ、いろいろあるわけです。

 

つまり。

ドッツをコネクティングするかどうかは、個人の裁量に委ねられているのですよ。

知識をどう処理するか、学校側は関知しない、というスタンスです。

そして、関知しない、という意思表示で、知識のコネクティングを敢えてズタズタにドッツ化し、我々に食わせている、というわけです。

 

とまぁ。結論めいたことをこの辺で書きますけれども。

と、いうことはですよ。

つまるところ勉強ってのは、学校を期待してはいけない、っつうことです。

自分の必要な、自分が利益となる勉強は、個人で勝手にせい、ということであります。

 

だから、自分が生きていく上で本当に必要な知識は学校では教えてくれないと嘆くのも。

学校で得た知識だけで満足して、社会でまったく使わず、ぞくぞくと錆びさせるのも。

全て個人の自由であり。また、それをむしろ学校側も、国も、意図しているわけです。

 

ですから。

学校の勉強をもし、役に立たせようとするならば。

それはその人が、「己で、個人で勉強した」質あるいは量に比例するのだ、ということに他なりません。

 

この世はですから、驚くほど「自己責任」によって成り立っている、といっても過言ではないでしょう。

こわいことですね。ほんと。

給料が上がった時代のこと

本稿を書く前の、いつものいいわけからの始まりです。

 

前々回の「給料が上がらない――追記」について、「医者が儲かる」と述べていますが。

この三年間のコロナ禍を駆け抜けた方たちには既知の事実ではありましょうが、正直、

「儲けるために医者を志す」

のは、費用対効果が絶対的につりあわないので辞めた方が賢明です。

お医者さんってのは、儲けようと思えば儲ける方法がいくらでもあるというのは本当ですが、我々が「こうあって欲しい」と思う医者を体現しようとすると、お医者さんという職業ははっきり言って

「おカネが儲かる奉仕事業」

です。

儲かる代わりに、吐くほど勉強し、未知の病気にもひるまず立ち向かわないといけない。

僕みたいな一般人にとっては「割に合わないなぁ」と思ってしまいます。

 

さて。今日のお話は。

タイトルにもあるように、日本の「給料が上がった時代のこと」について書こうと思います。

なぜ、あのころの日本は給料が上がったのか。

これを確認することによって、給料が上がらない今の日本の現状を浮き彫りにしてみよう、という試みです。

 

戦後からバブル期を迎えるまで、およそ40年間。日本は何度かの好景気と何度かの不景気を繰り返しながら経済成長していきました。

その間、アメリカと日本は同盟国として軍事協力関係を築いており、日本はいわば、

「おカネだけ払えば国防については心を砕かなくて良い」

という、経済的に非常に「有利な」状況にありました。

 

……正直。あの冷戦時代の不安定な時期に、日本の中で「自衛隊」を憎み、自主防衛を軽視する風潮のまま生きてこれたことを考えると、どうひいき目に見ても、アメリカ軍駐留は「有利であった」としか言いようがないと思います。

 

その間、アメリカは基軸通貨としてのドルを守るため、経済的なインパクト著しい、二つの決定をするに至りました。

これが、

 

・ニクソンショック

・プラザ合意

 

です。

 

この決定が世界経済にどんな影響を及ぼしたか、を語ると本三冊では足りないくらいの分量になるので、日本の給料を語るための影響だけを抜き書くだけに留めますが……。

ドルが金の軛から離れ、管理通貨制度に移り、さらにプラザ合意によってドルと円の360円固定相場が崩れたことでなにが起こったかというと。

 

公定歩合の引き下げから実質金利が下がり、投資におカネが殺到するようになったのです。

当時は株式投資も活発ではありましたが、より活発だったのは不動産投資でした。

また当時の不動産投資とは、今よりずっとラクなやり方でして、サラの土地を買って寝かせておけば、数年後に値上がりするのでそれを売る、という「土地転がし」のことを指します。

 

個人よりは企業が率先して不動産投資に走り、

「1955年から90年にかけて、日本の地価は約七十五倍に高騰した」(※)

((※)バートン・マルキール「ウォール街のランダム・ウォーカー」より)

 

ウォール街のランダム・ウォーカーを引用ついでに、次々と内容を引いていきます。

 

日本の「高度経済成長」は、その実、土地価格の上昇が牽引してきたに過ぎません。

ここを間違えてはなりません。

くりかえしますが、日本の高度経済成長は、土地価格の上昇が牽引してきたに過ぎません。

株式投資をしている人にしか通じないかも知れませんが、

当時の日本企業の平均PER(株価収益率)は60倍。PBR(株価純資産倍率)は5倍。それでいて配当利回りは0.5%というありさまでした。

 

……はっきり言うと。

まったく、ぜぇんぜん、くそほども魅力がない。

 

そして、アメリカドルが相対的に下落したことで、アメリカの資産が買いやすくなり、海外旅行がブームとなったり、たとえばロックフェラーセンター買収に象徴されるアメリカの土地建物を買収しまくった話はニュースにもなり、アメリカのジャパンバッシングを加速させました。

 

あれ?

こんな話がしたかったんじゃないんだけどなぁ。

なので話のまとめに入ってきます。

 

当時の日本が、なぜ給料が上がっていったのかというと、つまりは

・インフレだった

・銀行に金が余っていた

・企業にも金が余っていた

それらの全ての根本にある事象とは、つまり

 

土地価格が右肩上がりだった。

 

ということになります。

 

なので、今後もしも仮に日本の給料が上がり続けるような国になりたいならば。

単純に言えば、

 

土地価格を右肩上がりにするような施策をすればよい。

 

ということになります。

 

つまり、土地需要を掘り起こせ、ということですね。

 

若い人を殖やす、でもいいし。

人が集まりやすい町開発をする、でもいいし。

産業を活性化させる、でもいいのです。

このうち、いちばん有効なのはやはり、「若い人を殖やす」じゃないですかね?

 

若い人が暮らしやすい社会を作る。

たぶんそれだけで、若い人は殖えます。

だれか、やってみませんか?

教育の方向性

Twitterで、自分のアカウントのトレンドに上がってくる人たちのツイートは、おしなべて

「詰め込み教育というのは一定の効能がある」

としているような気がする。

 

つまりは、知識をおろそかにした上で「考える」ことへの危険性を指摘しているということだ。

確かに、知識のない状態で思考を重ねた場合、得てして得られる結果は「空想」や「想像」の

産物で、あまり実社会において有効な材料となり得ない。

 

だが、かたや。

今、自分のアカウントを離れ、ただTwitter上でトレンドの検索を行ってみると、

「詰め込み教育なんてのは百害あって一利なし」

派が大勢を占めていた。

これはでも、詰め込み教育自体の見直しが成されている現状において、それに反対する「私のアカウントに上がってくるような」おじさん達への、露骨な嫌悪があるんだろうなぁ、という気がしてならない。

 

考えたら私自身も、子供のころは大人が嫌いだった。

ましてあの頃は学校が徹底した管理教育主義を取っており、体罰や厳しい校則がアタリマエだったため、本当の意味で教師という「大人」がクソ野郎だったこともある。ただそれを差し引いても、バブルに浮かれ金儲けばっかり考えてるアホを見て尊敬しろ、という方が無理であった。

そういう人たちが提唱する「社会論」が、自分たちにとって益があるようにはどうしても思えなかったものだ。

今だって、つまりはそういうことなんじゃないだろうか。不愉快なのだ。おじさんという存在が。

 

で、自分はどう思うか、というと。

 

そもそも論として、学校の勉強で習う知識ってのは、高校までのものはほぼ「カタログ知識」に過ぎないので、知識そのものとして役立つものはあまり多くない、という印象だ。

実のところ、数学における三角関数も微積も、物理における……うわぉ。ほぼ忘れた。ので、まぁ物理法則、とか言って言葉を濁そう……。も。社会に出て使う人はめっちゃ使っている。

学校の知識が役に立たない、と宣っている人は、ただ単に「学校の知識を使わなくていい業態に身を置いている」だけだ、とも言える。

だが、だからといって、

「学校で教育された知識が、そのままの形で社会でも役立ってますよ」

という意味と、イコールだ、とは言えないし、言いたくない。

学校で得た知識が役だった、なんて人も、その実きっかけくらいのもので、実のところ自分で必要になってから学び直したって人がほとんどなのではないだろうか。

というのが。

たとえば国語の、たとえば現代文や古文で、我々が何をどのように習ったか、を思い浮かべてみて欲しい。

 

夏目漱石の「こころ」は、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」まで。

遠藤周作の「沈黙」は、ロドリコが転ぶ前後。

中島敦の「山月記」は……まぁ、これは全体が短いから、全文。

 

平家物語は、冒頭だけを暗唱させられ。

徒然草は、あやしうこそものぐるおしけれと、いくつかの抜粋。

方丈記は、ゆく川の流れは絶えずしての暗唱と、少しの抜粋。

 

つまり。

「知識の全体を、体系的に」学ぶものってのは、ほぼ皆無。

高校までの学校教育は、そのほとんどが、まるでわざと「実社会において役に立たせないように」、「抜粋して」教えているように、私などは思うわけだ。

私がこの学校教育の「無駄性(そんなことばはないですが)」を思う時、その最たるものとして思うことが、「歴史」の教育のしかただ。

 

本来、実社会で歴史知識を効果的に発する場面ってのは、

「その国の人、あるいはその地方の人の、歴史を経て得た知見だったり特性だったりを、その土地の歴史を通して理解し、心を通わせ合う」場面にほぼ、限られるのではと思う。まぁ、ガチ研究したい、とか、学者になりたい、とかって人はおいといて。一般的に。

 

なのに。

学校では、知識を「昔から今に向って」教えるのだ。

逆だろ。どう考えても。

「今、この国のこの地域の人がこういう考え方をしてる、誰を敵に思い、誰が嫌いか。そう考える理由はなぜか?

実はちょっと前にこういう戦争があったからだ。ではその対立はなぜ起こったのか? 実はそのさらに前にこういう事件が起こったからだ。じゃぁその事件の原因は? 実はこの血族の繋がりが関係していて……」

と教える方が、頭にも入るし、なにより現代と歴史が有機的に結合するのではないか。

歴史は、現代から過去に遡って教えるべき。強く、そう考える。

 

つまり。

勉強、ということばを、「学校の勉強」に限り。

知識というものを、「学校で教える知識」に限った場合。

 

国語と算数と、一部の理科を除いてしまうと、「学校の詰め込み教育で知識を積み重ねること」は、ほぼほぼ

「なんの役にも立たねぇ」

という結論になりそうである。

そしてその理由は、……知識というのは、ほぼ「考える」こと、つまり思考をするための原材料であるにも関わらず、その原材料の与えられかたがあまりにもデタラメなため、かえって人間の思考力を鈍らせている、と言わざるを得ないのだ。

デタラメ、というか、あまりにも「カタログ」的。

 

国語の現代文や古文の話を上記でしたが、同じ事だ。

勉強が、たとえば「ドラゴンボール全般」だとしたら。

学校の勉強ってのは、いわばこんな教え方をしてる、ということだ。

 

「はい。

まずは登場人物を覚えましょう。

悟空

亀仙人

ブルマ

チチ

プーアル

などが出てきます。

最初は、七つの玉を集めると願いが叶う、というストーリーでした。

それがだんだんと、バトルものに変貌していきます。

初期のアイテムとして、ホイポイカプセルというのがあります。

ですが中期以後、アイテムとして目立ったものは、各キャラの戦闘力を数値化する、スカウターくらいです。

また、中期以降は重要な登場人物が章によって変わります。

天下一武道会編では、……。

ベジータ登場以降は……。」

 

これで、終わるのだ。

↑を読んで、

「よおおおっし! じゃぁドラゴンボール読んでみるか!」

ってなる人、います?

いねぇよ。

 

仮にドラゴンボールにおいて思考をしようとしたとき、学校で↑のことしか教えられないで、はたして思考が成立するものか?

しない。

 

これより、学校教育の、何がまずいのか。と考えると。

 

問題なのは、知識優先なのか思考力優先なのか、ということ以前に、

「知識と思考力を有機的に結合し、回転させるための動機づけ」

が、あまりにも現行教育にて軽視されすぎてきたところにあるのではないか、と思う。

 

知識は、ただ吸収しただけでは、使われずに腐る。

腐るどころか、うろ覚えの間違った知識のまま、片言の言語で考える癖が付き。

浴びるように覚えさせられた呪文のような知識により、知識を得るという行為自体にアレルギーを感じる頭で社会と対峙しなければならない状態に置かれるというはめになっている、我々の現状。

ただただ、不可解である。

 

知識の効用は、カタログを暗記することでは得られない。

知識を用いて、どのような思考が出来るかを試し、それが成功したことの喜びを得た時、初めて知識への憧憬が起こるのだ。

 

そういう意味では、日本は長年、

「教育に失敗し続けた」

と言わざるを得ない。

 

昨今、反ワクの暗黒面に落ちた、かつては思考力があったはずの学者さんたちを大勢見つつ、そんなことを考えた一日だった。

給料が上がらない――追記

前々回のブログで、「給料が上がらない」と題したお話を書かせていただきましたが、ひとつ、重要なファクターを書き漏らしておりました。

というより、論のファクターというよりは、全てを「これ」を前提として書いており、あまりにも既知の事実と考えていたために、敢えて特記しなかった、という向きがあります。それは言うまでもなく。

 

「超高齢社会」ということです。

 

Twitterで、池田町のあれこれについて少しツイートし、日本の高齢社会のヤバさに言及したところ、

「日本は自主財源でやっていけるから問題はない」

という反論をいただきました。

 

そこで、そうか、と膝を打ったものです。

 

MMTにしろ、超高齢社会のこういった楽観視にしろ、つまりみな、

「日本は財源自体は問題がない国家である」

という裏打ちが国民の心の中にあるのだなぁ、と。

国債発行額が過去最高というニュースが巷間を賑わしていても、左翼メディアの戯れ言、ぐらいにしか捉えられていないのかも知れません。

 

……話が外れるので少しだけ触れますと、日本が財源が潤沢にある国家で、MMTをはじめとした量的金融緩和政策を発動して無傷でいられる国家である、というのは、日本という国の財政をいくらなんでも楽観視しすぎではないか、と思います。……こういうことを語れるほど私は経済に詳しくないので、一般的な当たり障りないところで論を止めますが……。

日本が一瞬だがアメリカと経済で肩を並べたのは今は昔。アメリカがリーマンショック後、量的金融緩和政策で立ち直った事実が、ある種の経済学者の頭にはあるのでしょうが、それは

「アメリカだから、世界は憤懣やるかたないもののしかたなくつき従った」

というだけで、財源……というと言葉がおかしくなるので、「信用」と言い換えますが……現状の日本程度の「信用」で量的金融緩和を行えば、残念ながらおそらく、朝日や毎日などのメディアが言っているようなハイパーなやつが起こる可能性は高いでしょう。

そして、量的金融緩和を発動することによって、もしこれが成功し、世界の隅々に「円」が行き渡るならば(もうこの言葉だけで、MMTは成功しない、とは分かるのですが)その弊害として今の中国のような国を世界のどこかに作ってしまうほどの「無茶」を世界が許容しなければならない、ということでもあり、そんなことをアメリカはおろか欧州あるいはアジアですら許さないと思うのですよ。

 

で、話を戻して。

じゃぁなぜ日本に「信用」がないのかと言えば、「超高齢社会だから」というわけです。

 

この「超高齢社会」とはなんなのか、というと。

 

言葉の定義としては、ご存じの通り、「六十五才以上の人口比が全体の21%以上を占めていること」なのですが。

ここから派生する社会問題が、日本の発展を重々阻害しているところに気づかないと、日本の信用度を見誤ってしまいます。それは、以下の様なことです。

 

・政府歳出における国民医療費の高騰→総じて、福祉全般を含めた、社会保障費の高騰

・労働人口の減少→結果として、国が生活を守らなければならない老齢人口比の増加

・年金問題

・技術力の停滞→新しいものを取り入れることが出来ない人間が現場の長にいることの弊害

 

などなど。

 

問題を総論で記述しても面白くないし、そもそも学者でもない人間のそんな話を聞きたい人としていないでしょうから、たとえ話をして上記のような問題を現実問題として肌で感じていただきたいと思います。

 

――外国から質のいい部品が入るようになってきて、ただでさえ海外に逃げて空洞化した工業も、減衰の一途をたどっていた。そんな状況を憂う日本の製作会社社長が、なぜ海外の製品が質が良くなったのか調べてみたところ、向こうは図面をPCで作ると自動的に製図が機械に転送され、旋盤が動いて製品を吐き出すそうだ。驚いてうちでも導入してみようと部長にかけあったところ、

「そんな機械を入れるおカネはありません」

とのこと。

また、工場長から、

「手作業に慣れている工員が戸惑うことになる」

との反論がある、と。

 

ならば、と、外国から現場の人を招聘して公聴会でも、と、先方の外国企業のFAX番号を調べてみるが、そんな番号はない。しかたなく、打てないメールを秘書に尋ねながら慣れない英語でようやく質問文を打ったところ、先方から

「ZOOMなら受け付けます」

と。

……ZOOM?

 

社長は全てを諦めましたとさ。

 

まぁ、日本でもIT業者やそこそこの大企業なら、会議はZOOM、進捗管理はSlack、DX化してトレンドをパーフェクティブしてアッテンボローなんてことをやっておりますが(嘘)、やはり人間の頭脳は10~20代あたり、身体的な体力は40代あたりまでを境に、急速に衰えていくものでして、その衰えた先の人たちが意思決定に携わり続けてたりすると、もはや発展は不可能、なんてことになりがちであります。

いや、これは失礼な言い方でした。それなりの大企業の上層部ですと、さすが頭脳あたりは先進性があり、いろいろな新技術を取り入れる柔軟性は持ち合わせているのですが、末端のあたりまで老化が進んでいると、長年の手になじんだ道具を捨ててまで変な機械でピコピコなんてやりたくないしそもそも覚えられないからそんなら辞めますってなって、若い人が入ってこないもんだから会社としてもそれは困る、ってな感じになり、DX化どころか旧態依然とした機器と体質のまま職人の勘で製品を作り続ける、なんてことになってしまいます。

 

というよりですね。

 

そのような状態でまだそれなりに世界に振り落とされず、伍して行けていること、今こそがものすごいことなんですよ。

日本は後進国だ、と界隈の人たちは楽しそうに連呼しますが、むしろもっと早くそうなっていたはずで、今それほどはそうなっていないことのほうが驚異だ、と、私は思います。

 

超高齢社会のやばさってのは、まぁ↑の例であげたようなこともありますが、他に致命的な問題として、「生産→消費の循環が極端に落ちる」というのもありまして。

アメリカがなぜあんなにGDPが高く、無駄もあほも多いのに生産性が高くいられるのか、というと、でかい企業がいっぱいある、ということの他に、「莫大に消費していること」が一つ、あげられます。それも、ホットドッグのような同質同量製品の大量生産品で大満足してくれていることもでかい。生産したものをきちんと消費してくれてこそ、経済は回るんです。嘘だと思うなら、今日本で一番稼いでいる業種を想像してみて下さい。

 

そうです。勤務医でないお医者さん。つまり開業医ですね。理系に行ける人で優秀な人はまずは、医者を目指すそうです。

なぜか? 儲かるからです。

 

なぜ医者が儲かるのか? 病人が(超高齢社会で)大量生産されているからです。そして、これを治(大量消費)している。しかも国がおカネを援助(高額医療費制度や健康保健制度)している。だから儲かる。

 

……申し遅れましたが、基本ここで私の書いている内容は、道徳的な観念をすっ飛ばしてます。

読んでて自分でも虫唾が走ることがあるくらいなので、他の人ならなおさらだと思います。

申し訳ございません。そういうのをちゃんと気にした上で書くと話が進まないので、あえて書かずにおります。

失礼しました。では続きをどうぞ。

 

少子化の話は前々回いたしましたが、これに加えて高齢化。つまり「少子高齢化」。

もう、ほぼほぼ原則論として、少子高齢化した国家は衰退する決まりなのです。

ましてや、先進国たろうとして、福祉を充実させた国であるなら、なおさら。

 

まぁ、じゃぁなぜデンマークのような高福祉国家は高福祉なのに……なんて始まってくることが想像されるので、これについてはいつかまた。ヒントを言うと、「あっちも実情はヤバい」。これにつきます。

まして日本は、「クソみたいな山あいに小都市が乱立し、道を引くのも一苦労。さらに地震があるから強靱に作らんといかん。さればと道路公団を作って道路だけは維持しようとしたらどこぞのクソ野党が『公共事業は金の無駄』とか言って仕組みを壊し、建設業が激弱に。もう終りだよこの国」ってなもんです。

 

ただ、そんな中でも、私たちは生きなければなりません。

いろんな負の要素は要素として、それを内包した上で、よりよい社会を目指して、築き上げねばならない。

では、現行の状態でどうしたらよいのか? という話ですが。

 

私ならば、

・極端な雇用流動化の促進

と、

・年金受給年齢を75才へ一律引き上げ

が必要と考えます。

 

雇用流動化ってのはすごく聞こえがよく言ってますが、具体的には、日本全国正社員を撲滅し、全て派遣社員然とした社会保障レベルとする。具体的には、解雇を簡単にし、その分失業者が次の職を見つけやすくするためのシステムと失業時の生活保障をもうちょっと強めに制度化する、ということです。

 

年金受給については、ご想像の通り。現行法制では持たないでしょう。

 

社会保障レベルを下げて年金に回し、その年金もなるべく出さないようにする。

ま、鬼のような施策です。

 

それでも、我々は、生きてゆかねばならないのです。

この国で。

 

で、まぁ。

以上のことは、私という個人が勝手に思ってることであり。

未来なんて分かりません。もっと良くなるかも知れませんし。

ま、頑張って生きていきましょう。ええ。

好きなことをして、生きていけるか

「好きなことをして、生きていく」

というキャッチフレーズが、Youtubeという媒体で頻繁に遣われるようになってから、何年経っただろうか。

 

この言葉には、その奥底に蠱惑的な響きを秘めている。

 

大人になるとだれしも経験することではあると思うが、労働とは辛いものだ。

そして、その辛さを、酒を飲んだり、家族の笑顔を見たり、あるいは趣味に打ち込んだりしてひととき忘れ、また辛い労働という荒波に月金で漕ぎ出していく。

そういう生活を、「尊い生き方」として、長らく日本人は生きてきた。

 

その価値観が、揺らぐ。

そんな言葉である。

 

好きなことをして生きている。

そう思われる人は、いる。

Youtuberが真っ先に挙げられるのは、「好きなことを~」という言葉、その発信元だからでもある。

だが、それは別にYoutuberの専売特許でもなんでもない。

たとえば漫画家とか、野球選手とか、サッカー選手とか、芸人とか、投資家とか、会社社長とか、遊びコーディネイターとか。

そんな、職種そのものに遊戯の匂いがする職業に就いてる人たちも、「そういう人」だ。

「そういう人」を、「毎日楽しそうだね君ら」と羨む一般人は、少なくはない。たとえ、それが実はとてつもない努力と苦労に裏打ちされた技術の集積の上にあるのだ、としても。

 

基本的な疑問がある。

好きなことをして生きていく。それはいいことなのか、悪いことなのか。……①

許されるのか、許されないのか。……②

可能なのか、不可能なのか。……③

 

この答えは、おそらく人の数ほどある。

問題は、誰々がどうだった、という話ではなく、貴方、もしくは私自身がそうなれるかどうか、というところにある。

 

さて。

ここでは、①や②という、道徳の話はおいといて、③について見ていきたいと思う。

 

③について。

可能か不可能かは、正直、その人なりの確率論である。

好きなことをして生きていけるかどうか、その二択だけにかぎらず、だいたいの人々の人生設計の成功度は、可能1%、不可能99%ぐらいの確率で構築されていくのではないだろうか。

 

その百人に一人に、自分がなぜなれたのか、あるいはなれなかったのかを考え、好きなことをして生きていってるであろう人をひたすら羨み、そうするのが人生として正解だったと嘆く。そんな生き方もあるだろう。

ただ、もう少し本質的なことを考えていきたい、と、私は思っている。

 

好きなことをして、なおかつ生活が安定する。

そんなことが、あり得るのか、と。

 

Youtuberになれば、だれしも成功する、というわけではない。

登録者十万人越えで、上位1~2%だそうだから、百万人となるとどうか。十万人に一人くらいだろうか。

Youtubeというのは、世界的に「人を集客している」機関・アプリである。

一般的に、多くの人間を惹きつける、多くの人間を顧客にしているプレイヤーほど、上位にいけば多くの収入が入ってくるようになる。

これは、そのプレイヤーを見るために、多くの観客、もしくはスポンサーが少しずつおカネを出して、そのプレイヤーを支えているからこそ可能となる。

裾野の広い分野ほど、儲けることが出来る可能性は高い。

 

だが。

 

裾野が広いということは、そこに息づくプレイヤーの数もまた、多い、ということである。

そのプレイヤー達の頂点に立つ、というのは、当然裾野が広い分野ほど困難になる。

例えば先のYoutuberを例にとれば、他のプレイヤーを蹴落とし、己が十万分の一にならないことには、そこにはたどり着けない、ということだ。

 

野球選手もサッカー選手も同じである。裾野が広い分野、この場合はスポーツだが、そういう場所ほど競争は激化する。

 

一言で言うと、「倍率が高い」ということだ。

 

この現象を、言語化してみると。こういうことになるか。

 

「好きなことをして生きていく人生は、収入が大きい分野に所属するほど、成功者になるための倍率が高くなる」

 

例えば、なんらかのオーディションを開催するとして。

その集められた人数が百人くらいであれば、そのなかで独自性を発揮することは、困難ではあるが予測の範囲に収まりそうだ。

だが十万人、百万人だとどうか。

もはや、独自性などというもので差別化できる段階は越え、そのなかで成功者になるというのは、ただただ宝くじにあたるくらいの「強運」が要素となるのではないか、と思う。

 

これが、たとえば日本でクリケットの選手や、エクストリームアイロニング(すげえ場所でアイロンがけするスポーツ)の選手ならば、その頂点に立つのはおそらく、サッカー選手になるよりは難しくはないだろう。

しかしこんどは、裾野が小さいため、儲けを出し生活を安定させるには至らない、という問題が発生する。

スラムダンクで一躍人気種目となったバスケットボールですら、日本ではプロ選手は食べるのにも一苦労、という具合である。

 

ここらで、私たちは視点を少し、換えてみる必要があるのかも知れない。

 

好きなことをして生きていく、という生き方は、そこにベットする価値(金額とか、時間とか、熱意とか)と倍率がつりあっておらず、確率で言うところの期待値が著しく低いということは、上で見てきた通りだ。

 

ならば。

好きなことをして生きていく、という考え方ではなく、生きるためにはもっと、ラクでうまく行きやすい考え方があるのではないか?

 

たとえば。

私なら、こういうキャッチフレーズを考える。

 

「得意なことをして、生きていく」――。

 

その人にとって好きなことが、その人にとって最も得意なこととは限らない。

サッカー選手を育てるコーチ業は得意なのに、いざ自分でボールを蹴ってみると驚くほどヘタ、ということもある。

なにより。

得意なことを労働なり仕事の主目的に据えると、倍率の問題を回避できるのだ。

 

好きなアーティストのCDなんて、今や10万枚売れれば大ヒットだが、新聞などは部数が減ったといえども、三大紙ならば二千万部くらいは刷っている。しかも、毎日。

りんごのタルトを作る動画は、1万再生されればかなりの上位だが、りんごを食べたいと思って買う人は一日に何百万人といるだろう。

人が必要としているものはアミューズばかりじゃない。というより、生活の基盤はアミューズではない。衣料とか水とか食料とか住居とか清潔とか車とかインターネットとか携帯とかニュースとか、ありとあらゆるものがそれに優先されて必要とされているのだ。

そういうものを相手にすると考えると、「好きなことをして生きていく」人よりも圧倒的に広い裾野に立つことが出来、しかも、そこで必要とされる人間の人数があまりにも多いために、その「倍率」は圧倒的に低い、ということになる。

会社員になる、ということを仮にゴールとするなら、食料品に的を絞れば食料品を扱う仕事は無数にあり、そこに携わる会社もまた無数にあり、その無数にある会社のほとんどが毎年被雇用者を募集している。

何千、何万という「必要な人間」があり、数字が大きいために倍率は驚くほど低くなるわけだ。

 

これを、夢のない言い方をすると、つまりは

 

「夢を見るより現実を見ろ」

ということになるか。

でもそういうことではない。

もっと、現象は端的だ。つまり。

 

「好きなことをして生きていくより、裾野が広くかつ低い倍率で競争しているところで、自分の得意分野を生かして生きていく方が、目に見えて圧倒的に有利である」

ということだ。

 

仮に、人生の目標を「得意なことをして生きていく」というものに換えたならば。

そこにはまた、さらに人生をラクにする「作戦」を考えつく余地が出来る。

 

出来るだけ、競争者がいない分野で。

出来るだけ、それを必要とする人間が多い分野で。

出来るだけ、それを得意とする人がいなさそうな分野で。

自分の才を発揮出来れば、最小限の努力でたやすくその道のトップに立つことが出来るのだ。

 

人生は、作戦だ。

人がだれしも目指す方向ではなく、あえて人が見落としている部分に目を付けて、かっさらう。

それが自分にとって得意分野ならば、貴方はもはや成功者の一員なのだ。