末廣稲荷神社、赤間関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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男を出世させたい女の願いを叶える神様、末廣稲荷神社

平安時代に建立された古社で、赤間関の遊郭、稲荷町の氏神、大坂屋(対帆楼、現東京第一ホテル下関)の裏にある。高杉晋作、伊藤博文、井上馨、山縣有朋の妻になる女性たちは皆、ここにお参りしている。

遊郭自体は江戸時代に出来たが、遡ること寿永四年(1185)、平家は壇之浦(関門海峡)で義経を総大将とする源氏に敗れました。主だった武将は入水、わずか八歳の安徳天皇も、二位の尼に抱かれ、三種の神器とともに入水され、平家は滅亡します。建礼門院をはじめ平家の女官たちは里人に救われたものの、宮仕えの育ちはこれといった生計の法をしらず、付近の稲荷山(当社の境内)などの草花を手折っては沖がかりの船人に売り、ほそぼそと生活していました。それでも三月二十四日(旧暦)の安徳帝の御命日には毎年忘れず、昔ながらに威儀を正して帝の御影堂に参拝・香華(こうげ)を手向けると同時に、当社にお参りしたはずです。

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西方、田中川を挟んで名池町に名池の井戸がありますが、伊藤博文と奥さんの梅子さんが所帯を持っていました。


参考

① 対帆楼と稲荷町(参考)


② Ikuo Yamamoto(下関の郷土史家、2019.1.14)

近松門左衛門の師匠、この師匠が末広稲荷神社に詣っていた。近松門左衛門より10歳年上「好色一代男」等を書いた井原西鶴である。

末広稲荷神社に井原西鶴、十返舎一九、頼山陽など古くから文人墨客がお詣りした記録がある。稲荷神社は平安時代初期の大同四年(西暦八〇九年) に祀られた下関最古の稲荷神社で商家からの崇敬篤く赤間関の繁栄の守護神として信仰されてきた。

沢忠宏氏によれば、あでやかな舞妓さんたちを大勢ひきつれ稲荷神社にお詣りする、十歳上の井原西鶴と近松門左衛門の出あいは、ここ稲荷町であったとしている。近松門左衛門は下関のこの地、大坂屋劇場と楼閣で、井原西鶴から戯曲つくりの手ほどきをうけ成長したのであった。


注: 近松門左衛門の生誕地は下関市豊田町の華山の山麓の神上寺であるとの説がある。