なぜ、長州は幕末、攘夷論を唱えたのか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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周防国、僧侶、釈月性の攘夷論


ペリーが浦賀に来航する1853年7月4日(嘉永6年6月3日)の14年前、日本においての舶来新知識発祥の地である長崎に遊び、初めて航行するオランダ船を見て、船体、備砲の巨大なことに驚き、後に月性が海防僧として奔走する要因となった。天保10年1839夏、仏学を修めて佐賀から帰国。同12年、坂井虎山を訪い、また萩に遊び、豊前にも恩師や知己を訪ねるなど、活動を活発化する。この頃頻発する黒船の渡来に天下は騒然し、時勢が月性を安居することを許さなかった。安政3年1856、西本願寺に招かれて上洛、梁川星巌・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱えた。


彼は日本近海にうろつく、オランダ、ロシア、イギリス、アメリカ、フランス、、などの力による通商、キリスト教布教、植民地支配を恐れた。


僧侶、釈月性

仏法護国論


高杉晋作の攘夷思想の元


藩命で上海見聞を命じられた晋作は、初めて海外の土を踏むのである。当時の上海は、英国の管理下にあるいわば植民地である。


高杉晋作「遊清五録」
「支那人は外国人の使役のため、英仏の人,市を歩行すれば,清人皆避けて傍に道を譲る,実に上海の地は支那に属すると謂えども、英仏の属地と言うも可なり。」

高杉晋作「上海掩留日録」
「各階層の清国人と友誼を深めること多く、数多くの会話,筆談から清国事情を知悉するに到る。しかれども,上海城内の不潔さ、清国官憲の腐敗、堕落には辟易、さらに植民地化された租界内における清国人の西洋人に対する卑屈さを見、日本の性急な近代化の必要を悟る。」



参考


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菊が浜台場(女台場)


文久3(1863)年5月、長州藩が攘夷決行として関門海峡を通過する外国船を砲撃する事件があった。しかし、却って戦艦をはじめ付近の民家まで大損害を被った。この事件をきっかけに、萩の住民の間にも「自らの手で城下を守ろう」とする機運が高まり、外国船からの襲撃に備えるため日本海に面した菊ヶ浜に土塁が築かれたという。武士たちの留守をあずかる老若男女たちは、身分や貧富を問わず奉仕作業し、この時ばかりはめったに外に出ることのなかった武士の妻や奥女中までが参加したことから「女台場」と呼ばれている。



福澤諭吉の香港について


文久元年(1861年)の冬、竹内下野守を正使とする使節団を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日(1862年1月30日)、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。その際に幕府から支給された支度金で英書を買い込み、日本へ持ち帰っている。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。たとえば病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについてである。これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。また、香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然のように扱うことに強い衝撃を受ける。



富国強兵、wikiより抜粋


日本明治政府の国策の基本を指すが、その使用の歴史は古く、江戸時代中期に太宰春台がその著作『経済録』で富国強兵を「覇者の説」と批判する儒学者を批判して、国家を維持・発展させていくためには富国強兵は欠かせないことを説いた。更に幕末期に入ると鎖国が原因で欧米列強に国力で大きな差をつけられ、これが安政の不平等条約を押しつけられて多くの苦難を味わうとともに、富国強兵が説かれることになる。ここで、重要なのは幕末期の段階で開国派・攘夷派を問わず、富国強兵の必要性については共通の認識が確立していたことである。攘夷論の理論的支柱となった水戸藩水戸学においては、既に19世紀初期の藤田幽谷によって富国強兵によって外国と対抗する必要が唱えられていた。公家の岩倉具視1867年に著した『済時策』で富国強兵を皇威宣揚のために必要な政策として説いている。開国派の間ででも1856年に出された海防掛岩瀬忠震の意見書において、海外貿易を振興して富国強兵を推進する必要が説かれ、老中阿部正弘も岩瀬の考えを採用する方針を立てた。また、1860年横井小楠が著した『国是三論』も「富国論」「強兵論」「士道」の三論から構成されている。従って、明治政府の成立後に富国強兵が採用されたのは当然の流れであると考えられる。