周防国鋳銭所は長府から移動してきた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長門鋳銭所跡は、忌宮神社の隣り、覚苑寺境内一帯と考えられ、奈良・平安時代に銭貨の鋳造を行った所です。長門国衙に付設され、その開設は和同年間(708~715)で、史跡地内からは、和銅1年(708)から鋳造が開始された貨幣である和同開珎1枚と、それを作ったときの型、るつぼや鞴口などが出土しており、これも長門国鋳銭遺物として国の重要文化財に指定されています。長門鋳銭所は、天長2年(825)に廃止され、鋳銭所は周防国(山口市 鋳銭司)に移されました。


当然、鋳銭所に従事した技術者集団は大部分は長門国鋳銭所から周防国鋳銭所に移動したであろう。昌泰4年(901年)、菅原道真公が訪問した当時、周防国の土師氏の一族が旧長門国鋳銭所、長府にも当然、一部残留していたと考えられる。


参考









⑤ 国指定史跡「長門鋳銭所跡ながとちゅうせんしょあと」

指定年月日 昭和4年12月17日

長門鋳銭所は、奈良・平安時代に長門鋳銭司ながとちゅうぜんしという機関が置かれ、銭貨の鋳造を行った工房跡です。

長府地区の西側を限る、准堤峰じゅんていほう(標高176m)東南麓斜面に位置し、鋳銭峰いせんほうや火除け道などの銭貨鋳造を物語る地名呼称も残っています。

現在の黄檗宗おうばくしゅう法輪山ほうりんざん覚苑寺かくおんじ一帯の約1万4千㎡が史跡として国の指定を受けています。

遺跡の発見は、江戸時代の寛永年間(1624~1643年)にまで遡り、現在まで、数度にわたる発掘や調査が行われています。
これらにより、奈良時代の「和同開珎わどうかいちん(ほう)や鋳型いがた、坩堝るつぼ、鞴ふいごの羽口はぐちなどの銭貨鋳造用具のほか、銭貨鋳造に伴う副産物である銅滓どうさい等が多数出土し、古代銭貨鋳造の事実を明らかにしています。

「和同開珎」の鋳造は、和銅元年(708年)催鋳銭使さいじゅせんしという官職が置かれ、始まりますが、長門鋳銭所の明確な操業時期は分かっていません。
また、長門鋳銭所は、天長2年(825年)には廃され、周防国(山口市鋳銭司すぜんじ)に移ったとされています。

「和同開珎」の鋳造記録が残る、近江国(滋賀県)・河内国(大阪府)・播磨国(兵庫県)などの鋳銭司のうち、工房の場所が特定できるのは、現在のところ長門国のみです。

長門鋳銭所跡からの出土品のうち、下関市立長府博物館および(財)辰馬考古資料館(兵庫県西宮市)蔵品は国の重要文化財に指定されています。

山口県教育委員会
下関市教育委員会
(説明板より)