田耕神社、下関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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田耕神社(たすきじんじゃ)、厳嶋神社、下関市豊北町大字田耕2707

御祭神
菅原大神 (合祀)市杵嶋姫大神 譽田別大神 息長足姫大神 比賣大神

由緒
伝承では、天満宮は平安時代の長治元年(1104)、法住寺僧空了が太宰府から勧請した。室町時代の応永三十一年(1424)に松崎天神として、現地点に祭られた。また八幡宮は、宇佐八幡宮から勧請され、「地頭豊田田耕忠種建立の棟札」がある。さらに厳嶋神社は古社としての伝承があり7年に一度開催される浜出祭の由来もある。これは元冠の役に敵国降伏の祈願による戦勝により鎌倉時代の弘安六年(1283)から始まったと云われている。(山口県神社誌)

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浜出祭は同町神玉地区神功皇后神社の中の蛭子社と田耕神社の中の厳島神社の二社で行われる。山口県無形民俗文化財に指定され、七年に一回行われる神事で豊北町の東端の山側から14キロメートル離れた西端の海岸まで御神幸を行う。御神幸は田耕神社から200人余武具に身を固め装いも美しい人馬の行列である。途中、神功皇后社の出迎えを受け、400人近い行列となって土井ケ浜に向かう。伝説では蒙古来襲の兵の霊を鎮めるとも言われているが山と海、男神、女神の再会の祭りであり、陰陽和合の祭りとも言われる。(平成祭データ)


厳島明神の乳池

弘安四年の元冠の時、土井ケ浜に上陸した蒙古軍司令阿金(あかね)の奥方桂玉も乗船していたという。いち早く唐船に乗り込んで船内をさがした時、男装はしていたが出産間近い女であることがわかると、黒井近江守忠朝は「女子どもに罪はない、家に連れて行ってやれ」と、厚母の冠者高信に申付けたという。十八才の荒武者は扱い方にとまどいながらも家に連れて帰り母親に世話を頼んだが、程なく出産したという。

田耕の鬼ケ原で厳島明神の神矢であろう白羽の矢が眉間に突き射さった首実験に、北浦巡察を済した長門探題武蔵守北條師時の前に、嬰児(あかご)を抱えた桂玉を連れて来させた。雑兵どもの手で首台が運ばれ、白布を取られるや否やに、「あっ阿金、阿金さま!」と首台に向って走り寄り、右手を伸ばして阿金の兜の上を貫いている矢を握るが早いか、自分の心臓部に突き立て、身をくねらせて首級の上にのしかかって息は絶えてしまった。

ほんの一瞬の出来事で、放り出された嬰児の火のつくような泣声に漸く気がついた一同は溜息をついた。高信は腹を切って不始末・不用意を詑びようとしたが、「待て、早まるな」「もし責任を感ずるなら育ててやれ」との探題の言葉に、呆然として嬰児を抱きあげた高信に、「よいか、月の出しおに田耕なる我詞を尋ねてみよ、そちの脇差とともに霊水を授けるであろう」との厳島明神のおつげが聴えた。

その夜高信は厳島神社に礼拝して、右方崖下にきらりと光る脇差を見つけた。「これをぬき取ると霊水がほとばしるであろう。これを口にふくんでその子に与え育てよ。子の名は智貞とつけ、その脇差を守りにせよ」と告げられた。智貞はすくすくと成長し、この小池の水は絶えることなく、以後「厳島の乳池」として慕われ、今日に及ぶ。(『浜出祭』豊北町教育委員会刊より)


参考




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