建治元年(1275)4月15日、長門国室津(現・豊浦町室津)に元の使者が上陸した。太宰府にはいつも追い返されたので、北九州以外の上陸地の予備調査とも考えられる。13世紀当時、朝鮮半島から見て、北九州と長門、北浦海岸が最も近い地域と認識されていた(極東アジア世界での日本についての情報)。
長門探題は使者を鎌倉に送り、藤沢市の龍ノ口の刑場で斬首された。豊浦町室津に抑留されていた従者たちは斬首され青山城と呼ばれる防塁がある豊浦町黒井、八ヶ浜海岸に埋められたと伝えられている。蒙古の再襲来に備えて異国警護番役を強化した。北九州と長門の警備を強化し、博多湾沿岸、室津湾海岸一帯に元寇防塁を設けた。
弘安4年5月21日から閏7月7日(1281年6月16日から8月29日)、敵艦船の一部が宗像の沖から長門の国へ向かったが、撃退されている。この時の来襲地点は豊北町の土井ヶ浜とも、豊浦町の室津湾ともいわれている。豊北町田耕の鬼ヶ原と部上にある蒙古塚は、討死した元軍の兵士を埋めたとの伝承を残しており、また同町の五千原、土井ヶ浜では元軍と激戦が交えられたとし、元の艦船の碇石、蒙古鉾と伝えられるものが残っている。また豊浦町厚母の阿蔵の千人塚は、元軍来襲時に討死した敵兵を葬ったと伝えられている。その他、豊浦町黒井の「首掛けの松」や「四十塚」ある。
豊北町、田耕神社、摂社の厳島社が海の民と山の民の交流をお祭りしてる。また、元軍との戦闘伝説がある。
参考
冬場の方が安定した北からの季節風と対馬海流があり、朝鮮半島からの日本侵攻には適している。しかし、日本にとつて幸運だったことに、朝鮮軍を含む元軍はこれを知らずに新暦の6月から8月末の夏場の侵攻を選んだ。このため帆走に不利な南からの季節風で機動性を失い、また予測出来ない台風に日本の勝利となった。
元軍は典型的な公開航路を採っている。(冬場の海北道中ルートや対馬長門直行ルートは秘密が保たれている。)