福岡県筑紫野市原田2550
祭神
筑紫の神
玉依姫命-竃門神社から勧進
由緒
『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所収)では、筑後国は元は筑前国と併せて1つの国(筑紫国)だったと記している。また「筑紫」の由来として、2国の間の坂が険しく鞍が擦り切れるため「鞍尽くし」といった説、2国の境に荒ぶる神が居て往来の人が命を落とす「命尽くし」の神といったが筑紫君・肥君の祭祀で治まったという説、前説における多数の死者の弔いのため棺を作ったところ山の木々が無くなったという「木尽くし」による説の3説を載せる(wikiより)。
参考
山頂に境内があり、渡来人秦氏系では無く現地の住民の神社、筑紫君と肥君が祀ったと言う説が自然である。
朝倉橘広庭宮が博多湾から太宰府を通り過ぎて、より南東の内陸部の朝倉市に立地することはないことの証明になる。