大宰府が現在の地に置かれ、大宰府と呼ばれるのは671年からであろう。それより前は何と呼ばれていたのであろうか?
百済国が滅び再興軍が朝倉橘広庭宮におかれたのが661年であった。この宮の正確な所在地は朝倉市内と従来は見られたが判明していない。朝倉市内から博多湾へは大宰府となる地峡(険しい峠)を突き抜ける必要があり、朝鮮半島への侵攻には不便であり、不可解である(逃げるには便利であるとの指摘もあることはあるが!)。
この時期、大宰府の地は何と呼ばれていたのであろうか?大和政権から見れば無名の空き地であった。従って、ここが実は朝倉橘広庭宮であったと考えた方が自然である。橘とは「たちばな」=「立ち離る」=「離れている」と言う意味で、朝倉橘広庭宮は「朝倉から離れた広い庭の宮」と言う意味で、現在の大宰府の地と考えられる。
それなら、何故、那橘広庭宮(なのたちばなのひろにわのみや)とか、後の太宰府と言わなかったのであろうか?奴国や那津は広く唐や新羅の官僚にも知られており、後の太宰府の正確な位置を唐や新羅に教えてしまうからです!
大宰府の都府楼跡は四神相応の風水によってつくられた古代都市と言うことは時代を超えて通用し、現在の風水学で最適地らしい(参考)。すなわち、大宰府を建設する前から何らかの施設があってもおかしくない。ちなみに、朝倉については当時、稲作の国があり名前を持っていたが、太宰府の方は未開拓の無名の場所であったのであろう(参考)。
何か地元の自治政府の首都、すなわち宮都みたいなものが太宰府の地に661年以前から有ったとすると、奥地の朝倉に百済再興軍の出発地の橘広庭宮を絶対に置かない。
ところで、朝倉や甘木あたりに大和あたりの地名がまとまってあるとか!この661年ころ以降に大和政権が命名して回ったと考えてもおかしくない(参考)。
白村江の戦い以前、661年以前について、大宰府あたりには神功皇后や仲哀天皇達などの伝説が無いとか!やはり、元々この辺りは未開の地であった。
参考
当時の朝倉地域は稲作地域の中心地であった。例えば、甘木インターのすぐ南にある「平塚川添遺跡公園」は、弥生時代中期から古墳時代前期までの約300年間、人々が住み続けた集落跡に復元された歴史情緒豊かな史跡公園です。濠に囲まれた特徴的なその遺跡からは大量の土器や木製品・玉類のほか、中国で作られた貨幣も出土するなど、歴史的に重要な発見が多く、平成6年には国指定の史跡となっています(参考)。
アサクラの名の起こりについては、郷土の先覚者古賀益城さん(宮野の人)が書かれた『あさくら物語』には次のようにでています。
一、東に山があって日の出がおそいので朝(あさ)闇(くら)といった。
ニ、谷の方言をクラというので、桂川の谷をさして浅い(あさい)谷(くら)といった。
三、校倉造(あぜくらづくり)といって、横に木をたたんで朝倉の地に木(こ)の丸(まる)殿(でん)をつくったので、校倉のなまりであるといった。
四、「あさ」は「あざ」で仮の意味があり、「くら」は「座」または「宮」ともかんがえられるので「あさくら」は「仮宮」の意味であるといった(参考)。
ニ、谷の方言をクラというので、桂川の谷をさして浅い(あさい)谷(くら)といった。
三、校倉造(あぜくらづくり)といって、横に木をたたんで朝倉の地に木(こ)の丸(まる)殿(でん)をつくったので、校倉のなまりであるといった。
四、「あさ」は「あざ」で仮の意味があり、「くら」は「座」または「宮」ともかんがえられるので「あさくら」は「仮宮」の意味であるといった(参考)。
続日本紀には「天智天皇(中大兄皇子)が斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した」とあり、これらは太宰府の観世音寺内にあった(参考1、参考2)。また、この筑紫尼寺は朝倉橘広庭宮にあった(参考1、参考2、参考3)。
大宰府の北東の鬼門を護る竃門神社の創建が社伝によると天智天皇の代(668年-672年)とのことで、大宰府がこの地に来た時期(671年)と辻褄が合う(参考)。
筑前と筑後の間は坂が険しかったと云われている(参考)。
朝倉市志波地区の説もあるが、さらに不便な地区である。斉明天皇の好きな温泉が近くにあったから(参考)?とか、勝てる見込みが無いので逃げることを考えた!とか、さらに、ここには天照大御神や神功皇后に関わる伝承があり天皇が故郷を望んだのでは?と言う説もある(参考)。甘木・朝倉地区は実際には後の時代の大和政権側の入植地であろう。久留米市の高良大社が筑後地域の支配拠点であった(参考1、参考2、参考3)。
朝倉橘広庭宮は磐瀬行宮と朝倉の間にある(参考)。
甘木・朝倉あたりはヤマト政権の駐屯地だった(参考)。
太宰府の近くに斉明天皇がお好きな温泉が湧いていた(参考)。