古代、琵琶湖はなんと呼ばれていたのだろう?そもそも近江に大津はあったのか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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万葉集では琵琶湖のことを近江とか近淡海と呼んだが、近江は国名でもあった。天智天皇の御代、湖自体の名はなんだたったのであろか?

万葉集(成立759年以降)では柿本人麻呂(660年頃生、720年頃没)や高市連黒人(702年作歌)が近江とか淡海を歌い始めた、新古今和歌集(1210年頃完成)で藤原隆家が「鳰の海(におのうみ)」と歌い始めた。この間の期間の歌(古今和歌集など)には琵琶湖を直接名指ししたものが無い!

すなわち、湖自体には元々、固有名称が無く、天智天皇、大海人皇子らは湖自体の名前をつけていなかった!また、大津宮も当時は志賀の都と呼ばれた。

万葉集にある以下の歌:
① 万葉集 巻2-153番  大后の御歌一首、鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海(うみ)を、、
② 万葉集 巻3-266番  柿本朝臣人麿の歌一首、淡海の海 夕波千鳥、、
は、やはり近江国の湖を歌ったものでは無かった!

淡海の海や大津宮を近江国にあるとしたのは、最古の文書である712年完成の古事記からと思われる。


参考

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鳰(にお、カイツブリ)が湖である琵琶湖に棲息、万葉歌にある千鳥は湖には棲息しない

琵琶湖を歌った和歌に、鳰(にほ)の海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり:藤原家隆(979年生-1044年没) 新古今和歌集389がある。鳰とはカイツブリ、またはニオドリのことである。昔は琵琶湖に多くいたという。琵琶湖はそのため「鳰の海」と呼ばれ、現在でも滋賀県の県の鳥だという。

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伊吹山から見た琵琶湖、琵琶には見えない!

琵琶湖は湖の全体形状が認識できる様になった江戸時代後期からの名称である。多分、伊能忠敬の測量からであろう。

近江は、712年完成の『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し定着する(wikiより)。すなわち、近淡海と近の付かない淡海を混同している。さらに、江の意味をウィクショナリィで調べると、長江(揚子江)、大規模な川、水の入りこんだ地形とある。すなわち、大宝令で近江や遠江を名付けた官僚は琵琶湖や浜名湖を海と認識していなかった。つまり、近江と淡海は同一では無かった!

和名抄に訓読みが同じ志賀(しが)、斯我、志我、志何、思我、思賀などと書かれていた。寒川辰清(さむかわたつきよ、1697~1739、江戸中期の儒者、国学者)近江国輿地史略(おうみのくによちしりゃく)によると、飛鳥時代、第38代天智天皇(626~671)の時、志賀があり、ここが大津宮となった(参考)。すなわち、大津地名は後から付けられた!

ある説によると、そもそも通説とされる滋賀県の「大津」は平安遷都の際に「大津」の地名が誕生しています。よって天智天皇の時代には滋賀県(近江)に「大津」の地名は存在しおらず、現在の通説では不都合が生じてしまいます。「山背を山城と改め新京を平安京と名付ける、また近江の古津を大津と称する」とあり、天智天皇が六六七年に、淡海の大津宮を拓いた当時、滋賀県大津は存在していませんから。近江=「淡海」とされていますが、これは後世の解釈によって踏襲されているだけ。

万葉集巻7-1253
原文: 神樂浪之 思我津乃白水郎者 吾無二 潜者莫為 浪雖不立
訓読み: 楽浪の 志賀津の海人は 我れなしに 潜きはなせそ 波立たずとも 
訳: 志賀(滋賀)の湊の海女よ わたくしの不在中は潜水してはいけない たとえ波おだやかな日でもだよ 
[左注](右二首詠白水郎)(右十七首古歌集出)  (参考)
コメント: 志賀の地(近江の大津辺り)は安曇氏(+和邇氏、小野氏)の地で安曇氏系の漁師や海人(白水郎)が居住していた。