天智天皇にゆかりの万葉歌人の歌に出て来る淡海(おうみ)は大津宮のある近江国(おうみのクニ)の琵琶湖では無い!長門国大津郡の青海島(あおみシマ、おうみシマ)の歌であった!
近江大津宮の標記に水海大津宮(おうみのおおつのみや)であったという指摘があるが、淡海とか水海と書いて「おうみ」と訓じるのは青海島にある青海湖(おうみのみずうみ)からの連想である。
ところで、近江(おうみ)は近淡海(ちかつうみ)で琵琶湖、遠江(とおとおみ)は遠淡海(とおつうみ)で浜名湖である。長門国と近江国の二カ所が絡まって混同した。実は当時、琵琶湖は無名の湖、大津宮は志賀の都と呼ばれ、721年完成の古事記以降に、それぞれ近江の淡海、近江の大津宮と名付けられた(参考)。
また、近江にかかる枕詞は「さざなみ」とあった(参考)。すなわち、「鯨漁」は無意味な枕詞では無く、琵琶湖の淡海には断じて付かない!
参考
鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海(うみ)を 沖放(さ)けて 漕(こ)ぎ来る船 辺(へ)附きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ 辺(へ)つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ 〔舎人吉年〕 巻二(一五三)
訳
鯨を取りに、淡海の海を沖遠く漕ぎ来る船よ。岸辺に付きて漕ぎ来る船よ。沖で櫂をそんなに撥ねないでください。岸辺で櫂をそんなに撥ねないでください。若草のようだった夫が愛おしんだ鳥たちが驚いて飛び立ってしまいます。
注
この歌も天智天皇が亡くなったときに大后が詠んだ挽歌です。この大后は倭大后(やまとのおほきさき)のこと(参考)。
② 山口県長門市青海島通地区の向岸寺に鯨墓がある。かつては対岸の長門市仙崎にも鯨墓が存在し、仙崎出身の詩人の金子みすゞは、鯨墓が存在する地域の慣わしに感銘し『鯨墓』を書いた。
③ 万葉集 巻3-266番 柿本朝臣人麿の歌一首
淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
訳
あふみのうみ ゆふなみちどり ながなけば こころもしのに いにしへおもほゆ
注
シギ、チドリがエサをとることができるのは、潮が引いて泥底が出た干潟や浅瀬。干潟には、シギ、チドリのエサとなる底生生物が生息しています。水に潜ることができないシギ、チドリは、干潟や浅瀬に来て、 ゴカイ、カニ、貝...など、稀に魚も食べています。
④ 青海島は、童謡詩人の金子みすずで有名な仙崎から約100m離れた周囲役12kmの島で、青海大橋で結ばれている。海岸一帯は、海食岩柱・海食崖が創り出す奇岩奇勝の北長門海岸国定公園の一部となっている。青海湖は、砂州が伸び海を閉じこめてできた潟湖である。
油谷湾は、波の荒い、山陰特有の急峻な海岸線の中で比較的穏やかな表情を持つ。湾の奥は波静かで、干潮時には県内の日本海側では数少ない広い干潟も現れ、平野部がそれに続いて、日本海側のガンガモの貴重な越冬地である。シギやチドリも生息する(参考)。また、夕日が西の海に沈む光景が夕波(ゆうなみ)であろう。
左: 深川湾、中央: 波の橋立、右: 青海湖
八幡人丸神社から見た油谷の平野、遠景(北西方向)に油谷湾が見えるはず!
661年、斉明天皇と天智天皇が白村江の戦いのために筑紫に行幸した時の長津宮であり、のちの近江宮(大津宮)は長門国大津郡と青海島のことである。
天智天皇は琵琶湖沿岸の近江宮(大津宮)と長門国大津郡(長津宮)の二カ所を行き来していた。ちなみに、青海島の南端、仙崎に近い所に王子山(おおじやま)があるが、滋賀県大津市には皇子山(おおじやま)がある。