大津皇子は何処で生まれたのか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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大津皇子は663年に大津で生まれたので、大津皇子と呼ばれたとの説がある。日本書紀では661年、筑紫の那珂津(那津、娜大津、儺津)あたりを長津宮に改名したと言う。さらに、天智天皇は667年に近江宮(大津宮)に遷都した。

この661年から667年の間、大津と呼ばれた地域は長門国大津郡(現在の山口県長門市あたり)のみであった可能性がある。

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大津皇子・粟津王墓(若宮八幡宮 京都市山科区音羽森廻り町36)


参考

大津皇子(おおつのみこ、663年から686年) 天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。


那津(なのつ)とは、古代,儺県(なのあがた)にあった港。娜大津(なのおおつ)ともいう。福岡市の那珂川の河口にあったと推定される。《日本書紀》にその名がみられるが、《続日本紀》では博多大津(博多津)とあって,那津と同じかどうかは検討を要する。《日本書紀》宣化紀に官家(みやけ)を那津のほとりに造ったとあり,斉明7年(661)には,百済救援のため娜大津に至るが,近くの磐瀬行宮(いわせのかりみや)に滞在して,津の名称を長津(ながつ)と改めるとある(コトバンクより)。何れにしろ、大津と二文字で呼ばれた時期は無い。

斉明天皇が661年に那大津に到着されたころ、長門国の大津郡に百済からの遺民受け入れの基地が同時に作られたと推定する(参考)。近江の大津宮は667年当時、志賀の都と呼ばれ、大津宮と呼ばれるのは712年完成の古事記からである(参考)。すなわち、661年から大津の二文字で呼ばれた地は長門国大津郡のみの可能性がある。

大阪湾の古代河内湖の入り口の難波津を詠んだ歌を見ると、大津と呼ばれたことは無い(wikiより)。

泉大津(いずみおおつ)の歴史は古く、奈良時代には府中におかれた国の役所の外港として栄えていました。交通の要として天皇や国司、歌人、文人らの往来も多く、古くから随筆や紀行の中にも、“小津の泊”、“小津の松原”、“大津の浦”など名勝の地としてしばしば登場しています。土佐日記の中でも、土佐守の任期を終えて帰京する途中当地を通った紀貫之が「行けどなお行きやられぬは妹がうむ小津の浦なる岸の松原」とあり、また更級日記の作者も、大津の浦で暴風雨にあい、舟を丘の上に引き上げて夜をあかした云々と記しています(市のHPより)。

熊本県大津町(おおずちょう)は阿蘇の外輪山から流れ出す伏流水の豊かなところです。地域の郷土史である『合志川芥』という書物には、「此の所は「火児国大水(ヒゴノクニオオズ)」にと呼ばれていた」とあります。また、この一帯は古く肥後の豪族合志氏の支配下に属し、戦国の頃永正年間(1504~1520)に佐々木合志の支族十郎義廉(氏不明)が東嶽城(現日吉神社地)を築き、城主になるに当たり、「大水(おおづ)」と同じ読みの雅名を求めて「大津」と改名し、さらに自ら新しい領地名に則り「大津」を氏として、「大津十郎義廉」と名乗ったのではないかと思われます。これが大津の地名の由来と推定しています(町HPより)。

群馬県に大津と草津がペアであるが、琵琶湖の大津と草津たは関係は無さそうである。草津温泉(くさつおんせん)とは、群馬県吾妻郡草津町(旧国上野国)にある温泉のことである。草津の名の由来は(1)大般若経による(2)アイヌ語から(3)「くさうず(臭水)」が訛った(4)病にかかる枕詞「くさつつみ」から(wikiより)⑸クソ熱、等諸説ある。この草津温泉の入口の地区に大津の名があるが、現在、区別の為にバス停は上州大津となっている。

ところで、草壁皇子(くさかべのみこ)は662年生 - 689年没とあり、大津皇子と同じく九州の地に滞在する場所に1年早く生まれたことになっている。草壁の訓読みは、日下部(くさかべ)、草香江(くさかえ)に通じるが、草香江は福岡市に現存している。この地で誕生したのかも知れない!草香江そのものは河内湖の中の草香江から移された地名であり、河内湖に本貫地にもつ氏族につながりのある皇子であったのであろう。

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