考察、長門国大津郡、真の長津宮 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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斉明天皇が百済再興のため筑紫の太宰府に到着されたが、これと同時に山口県長門市(長門国大津郡)の深川廃寺あたりも対朝鮮半島の基地があった!

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1 長門国大津郡、2 筑紫の太宰府

朝鮮半島に渡るルートとしては筑紫あたりの②が拠点となるが、朝鮮半島から帰国、百済遺民の渡来には、対馬海流に乗ってくる沖ノ島経由(海北道中)のルートで①が拠点になろう!この①には、既に渡来して来ていた日置氏が町を作り、深川廃寺も彼らが建立して斉明天皇、中大兄皇子(天智天皇)の行幸を待っていた。

日本書紀では661年、筑紫の那珂津あたりを長津宮に改名したと言うが、これとの混同が考えられる。また、668年の蒲生野での遊猟についての万葉集1-20の歌は近江宮(大津宮、667年遷都)とここを混同したのであろう!混同と言うより、長門城の場所と同じ様に軍事機密として曖昧にしたのかも知れない!


参考

661年、斉明天皇、中大兄皇子一行は白村江の戦いに備え北九州に行幸され那津に到着、斉明天皇、此を改めて、名をば長津(ながつ)と曰(のたま)ふ。(斉明紀七年三月条)「娜大津(なのおほつ)」 とあったのを、「長津(ながつ)」に改名したというのである。「娜大津」は、那珂津(なかつ)、那津(なのつ)(宣化紀元年五月条)、「娜太津(なたつ)」(家伝上(鎌足伝))などともいわれる(参考)。

これに対し、拙著では「長門をナカトと訓ずる」ため長津をナカツと読み、那珂津(ナカツ)と同一と考え、また畿内に中津、磐瀬、朝倉が存在するため、長津は中津や那珂津と同一と確信した(参考)。

しかし、これなら長津宮に改名したと、わざわざ斉明紀に明記するのは不自然である!中津宮なら納得するが!長津宮が別に存在するかも知れない!例えば、筑紫の那珂津(今の博多)とは別に!

当時存在した著名な津は河内の難波津、筑紫の那珂津(那津、那大津)である。大津に関しては『日本書紀』で「大津」の名称が用いられているのは、『持統紀』における「大津宮」と「大津皇子」だけでしかない。しかも『天智紀』では一切触れられていない。近江宮と呼ばれていた(参考)。すなわち、天智天皇(中大兄皇子)の時代、近江国の琵琶湖の西岸には大津と言う名前は、まだ存在したかった。

それでは、大津と言う地名や長津宮は何処であろうか?実は、現在の山口県長門市辺りは、当時、長門国大津郡と呼ばれていた。この辺りは当時、長門国の国衙があった。仲哀天皇の穴門豊浦宮が長門国府の長府になるのは若干、後になるようだ!この大津郡に当時、長門深川廃寺が創建されるが、ここが長門国の大津宮、すなわち真の長津宮ではなかろうか!

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長津宮跡?長門深川廃寺跡!正面の水田

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この長津宮(長門国大津郡)と近江宮(大津宮)に宮を置いて、太宰府と共に白村江の戦いと敗戦処理を行ったのである。668年旧暦5月5日に下関市の蒲生野に大海人皇子、額田王と遊猟され万葉集1-20の歌を歌われたのに辻褄が合う!





近江国の大津宮(667年遷都)について、文献的には「大津京」としての表現はなく、「日本書紀」では「近江宮」・「近江大津宮」、「万葉集」では「近江大津宮」・「大津宮」・「近江宮」の表現であった。この大津の地名は長門国大津郡からのコピーであろう!